ノクターン 3譜 静寂の園
「また次の機会じゃ駄目なんです? 流石に続けてだと、寝不足になってしまうでしょうから、連日は控えた方が良さそうですけど……また一緒に散策しましょう? 僕も凄く楽しかったですし、一度に全部回ってしまうと、今後の楽しみがなくなっちゃいますよ?」
「……ごめんなさい。どうしても…………どうしても今日が良いの」
そうしないと、折角募らせた勇気が露と消えてしまう。ずるずる引き延ばしていたら、きっといつか挫けてしまう。
「──分かりました、今日はそこが最後ですからね?」
そう。これでもう最後。
私の大切な思い出は、もう十分過ぎる程に作り終えた。
最後は白き薔薇の袂で、全てを打ち明けよう。私の中にずっとずっと秘めてきた、彼に対する邪で昏い想いを。
その夜の園は、静謐だった。
緑溢れるその入り口は、天地開闢の門を模した物だという。
荊だらけのゲートを潜ると、小さなコテージ一つ分程の開けたスペースが広がっている。花時計の近くにも負けない位、眩むような甘い香りが漂う。
中央には等身大の女神像。更に幾つか猫脚のガーデンテーブルと大きなパラソル、四隅には大きな篝火。そして園の全体が背丈程のクライミング・ローズで真四角に覆われ、数多の白薔薇がまるで壁画のように彩りを添えている。
単調な白だけじゃなく、スノーホワイト、アイボリー、ベージュカメオ、ムーングレイ。そんな様々な仄白さ。
恐らく頭上だけが大きく開けたこの閉空間なら、誰にも邪魔されず、実行出来る。頭の中でそう画策していた時、彼は気を利かせてランタンを灯してくれる。
手持ちの光など、殆ど昏き空に紛れてしまうだろう。
純潔を意味するその大きな宝石めいた粒が、私の近くで、ほんの少し暖色へと染まって行く。
「初めて訪れましたけど、現実の世界とは思えない位、素晴らしい眺めですね……流石はあのお堅いランドルフ爺がいつも自慢ばっかりしてるだけの事はあるな……」
感嘆が口を衝かない程に魅入られていると、彼が耳元で小さく囁いてくる。
「────〝私は、貴方に相応しい〟」
思わず胸の辺りをきゅっと抑え込む。
「…………何それ、気障なの」
「いっ、良いじゃないですか、たまには少し格好付けさせて貰っても。確か、白い薔薇の花言葉でしたよね? 他にも〝相思相愛〟……とか」
珍しく、少しだけ重い、真剣なトーン。純粋、無邪気、尊敬、約束、他にも花言葉は沢山ある筈なのに。何故それを。
「冗談ですよ。そんな事、荒唐無稽で、不敬極まりない」
ここに来る事を願い出た時から、私の様子がおかしい事はきっと悟られてしまっている。ひょっとして、知らず知らずの内に、彼がそれに感化されたのだろうか。
本当に……本当に少し前までは、そのつもりだった。
いつの日か、彼にそう伝えようって、ずっと思ってた。
心のどこかで、そう望んでしまっていた。
あのシンシアさんとの、凄く親しげな様子を目撃するまでは。
「ちょっとだけ、私と踊って欲しいな」
「……へ? こっ、ここで??」
先程とは打って変わった粗忽な声色。
「確か、ダンスは好きじゃないって……」
何故その事を知っているのだろう、吹聴はしていなかった筈なのに。でもそんな些細な事を聞き咎められない程に、酷く焦ってしまっている自分が居た。
「私とじゃ…………イヤ?」
以前と全く同じ、精一杯の上目遣い。アプローチにしては、あからさま過ぎただろうか。でも、彼に対してはこの位しておかないと、きっと惚けられてしまう。
「あっ……いえ。別に嫌とかそういうのじゃなくて。全然踊れないだけで。それに〝小柄な男の子〟とっていうのも……何だか変な気がして」
「……じゃあこうすれば、少しはマシ? 私、男性パートでリードするのも出来るから」
手近なテーブルに帽子を置き、ざっと髪を解き下ろす。とにかく今は、考える暇を与えず、矢継ぎ早に攻めないと。
「うーん……そんなに言うなら、〝木こりのワルツ〟でしたら何とか。それなら僕が男性側で大丈夫です。ただ、リードが下手だったり、最悪足を踏んだりしても、絶対に恨みっこ無しですよ? 愚痴も無し」
私は答える代わりに彼の胸に寄り掛かる。
彼はランタンを手近に置き、そっと私の両手を取ってくれる。
そう言えば、前もこんな満月の日だっけ。月が満ちて、次にまた満ちる。たったそれだけなのに、どれだけこの日を首を長くして待ち望んだ事か。
偶のお役目が十年程と短かったとして、少なくともこれを百回以上。そんな気の遠くなるような、永劫。
私がハミングを始めると、彼の方から滑らかにステップを始めてくれる。森の中でも踊れるように、少しずつ、二人で一緒に七芒星を描くように。
幽冥の神は夜の女神のメロディに誘われ、夜の女神は幽冥の神の進みに導かれるようにして、二つの影が回り、番う。
……本当の目的は、一緒に踊る事なんかじゃなかった。
でも、全てを許した人となら、こんなにも楽しくて、心ときめくものだったなんて。全然知らなかった。
しかも凄く上手で、足を踏まれるどころか、安心して身を委ねていられる。息がよりぴったりと合って行き、一歩一歩が更に洗練され、スムーズになる。
私の知らない彼の一面は、後どの位あるのだろう。一体誰と練習したのだろう。そんな甘酸っぱい想像で胸が満たされて行く。
────そうか、そういえばこの辺りの半狼は皆、銀色の森の生まれだったっけ……。
「自分の中では、まぁまぁ出来ているつもりなんですけど……どうでしょう? 凄く小さい頃、何か一つは踊れるようにって親にしごかれたんです。意外と覚えてました。クラウディア姫のお眼鏡に適っていると良いのですが……」
ふと顔を上げると、またいつかの下手なウィンクをしている。もう直ぐ顰め面になりそうだった所へ、まるで機先を制すかのように。
情動が溢れて来て、抑えきれなくなる。それと同時に、意図的に躓く。
「……ごめんなさい」
凭れ掛かるようにして、思い切り体重を掛ける。
膝裏に足を搦めるようにして、芝の上に無理矢理押し倒す。身長差を埋めて行く。
「いってて……大丈夫でした? こちらこそ済みま──」
最後まで言わせないまま。
瞳を閉じる前に見た彼は、哀しい事に、ただ驚いているだけだった。
唇で唇を塞ぐ。
これが、真の目的────。
(ごめんなさい、シンシアさん。今だけ……今だけ、だから)
端無く大股を広げ、彼の上に馬乗りになって。謝るみたいに頭を下げ、大地に平伏すようにして、両手で彼の肩を押して、時折邪魔な長い髪を耳に掛けて。
感情が縺れて行く。苺ジャムみたいにぐちゃぐちゃに掻き乱されて行く。それなのに、抗いようもなく幸せで、夢中で、でも、どこか後ろめたくて。ひたすら彼のほんの少し強張った唇を、小さな水音と共に食み続けて行く。
そうして何度も貪るように口付けを続けていると、いつの間にか、私は後ろ髪を優しく撫でられている事に気付く。
少し顔を上げると、彼は静かにこちらを見上げたまま。痺れにも似た初めての熱病がやっと息継ぎをし始める。
「……ねえ、私、貴方の事が好き。大好き。どうしようもなく大好きなの──」
とうとうそれを明かしてしまう。彼の鼻先で。薄い光に照らされた貴方だけを視界に入れて。僅かな後悔を伴って。
〝私、これからどうしたら良い?〟とか、〝キスされてどんな気持ちだった?〟とか。そんな事はもう訊けないし、訊きたくも無い。
こんな横恋慕など、本当ならしたくなかった。いつもお行儀良く、品良く、立派に、誰にも迷惑を掛けず、自らの務めだけに専念して行きたかった。
「本当に、済みません……」
困惑し切った彼の面差し。その拒絶感で、一層胸が締め付けられ、大きく歪み掛けていた視界はとうとう不全さだけになる。
何かが決壊し、彼の頬に幾つもの冷たい雨粒が降り注ぎ始めている。こんな風に彼を困らせたくなど無かった。でも、どうしても、我慢が出来なかった。
「ずっと……最初からずっと、僕の方が一方的に好きでいるつもりだったんです。済みません……こんなにも困らせてしまって。辛くさせるつもりなんて、全然なかったんです」
微熱めいた頭でも、その言葉の違和感に気付く。何だか私と同じような事を言っている。そんな気がする。
「夢想の乙女って勝手に名付けて、心の中でそう呼ばせて貰っていました。貴女の事は、初めて見たその時から、余りにも綺麗で、儚くて、名前も分からなかったから……」
「えっ? わっ、私? ……シンシアさんじゃなくて?」
素っ頓狂な声を上げてしまう。驚きで涙は足を止め、思考はおかしな方向に漫ろ歩きを始めている。彼って、こんなにも堂々と二股宣言をする人だったのだろうか──。




