メヌエット 5譜 琴切りの指輪
「……この国の御方なの?」
「……? 何の事でしょうか」
突然話題が変わったようで、惚けた返事をしてしまう。
「──貴女にも好きな人が居るんでしょう?」
心臓がズキリと跳ねる。大きな胸に埋もれたまま、肯定も否定も出来ない。
「ごめんなさい、少し前から盗み聞きしちゃった。あの甘いマスク、それに不釣り合いな不遜さと貪欲さ……実は彼の事、そんなに嫌いじゃないわ。でもあんなに魅力的な男性から猛烈にアプローチされているって言うのに、まるで路傍の石みたいに、連れなくしちゃって。もう直ぐに分かっちゃった♪」
そこから先は、絶対に聞きたくなかった彼女の独白が続く。
「……私はね、昔は垢抜けない地方訛りで、矯正するのがとっても大変だったの。でもそんな私の話し方さえ気に入ってくれる方が居て……人知れず逢瀬を重ねて。気が付いたら、夢の中でさえ夢中になって、ずっとずっと、恋い焦がれてた」
ふとエマのドレスを小さく掴み、縋るような格好の自分に気付く。
「でも待たせ続けるのは、どうしても辛くて。時々公娼でも買うように勧めた事すらあったわ。最初は全然応じてくれなかったんだけど、ある日突然……仕草や顔付きが凄く柔らかくなって。きっと女を知ったんだって、ピンと来ちゃった。自分で勧めておきながら、さめざめと泣きそうに……ううん、ホントに一杯泣いちゃってたけど、不思議と心は、少し軽くなったの」
サッシュベルトを締め上げられた時みたいに、キリキリと胸の奥が軋む。
「私にはこんな風に見た目の加齢すら遅くなってしまう位、並外れた魔力の資質があったから……いつかその女性と同じように、彼と愛し合えたら、って。でもね、彼の方は少しずつ歳老いて行ってしまうの。気が付いたら、彼にはもう奥さんが居て、子供も居て。それでもまだどこか、忘れられない自分が居て」
「…………私は、貴女とその方の娘じゃない……です」
心はずっと近付いているのに、これ以上近付くのが怖いから、放り出す事も出来ず、震える言葉の刃を振り翳してしまう。
「ふふ、そうよね? ごめんなさい。遠い昔には殿方の偶も居らっしゃったみたいだけど、女が長年務め上げたら、当然その代限り。だから私の想いは、もうここでお終い」
そう言って春の日の風のように、私の事を引き剥がす。ほんの少し曇った瞳と、仄かに膨らんだ目元。シンシアさんなら、これをどうやって上手く覆い隠すのだろう。
「〝琴切りの指輪〟……今、持ってるかしら?」
「──はい」
この国に住まう者全てに与えられ、いつも肌身離さず持つように言われている固有の指輪。
どうしても消したい記憶がある時にこれを嵌めると、一生で三回まで、竪琴の魔効を打ち消し、今日の記憶を明日に持ち越せなくなるという。
けれど、そもそも偶は竪琴と深く結びついてしまっているため、偶自身には全く影響が無い。そう聞き及んでいる。
尋ねられた意味が分からないし、私の分が作られた意味も未だ分からずに居る。
「自分に嵌めれば、竪琴が奏でられない日と同じになるのは公知の事実だけれど。実はあの指輪には、もう一つ隠された効果があるの」
私が怪訝な顔をしている事を察したようで、どこか寂しそうな面差しで教えてくれる。
「相手に嵌めれば、その翌日に〝持ち主に関係する一切の記憶を失う〟。しかも昨日の事だけじゃなくて、過去の、全てを。これが三元老だけに粛々と言い伝えられて来た、最重要機密。相手との関係を完全に断つ、謂わば〝事切りの指輪〟──」
そう言って彼女は手を差し伸べる。
「流石に今日一日の事を忘れてしまうのは、立場上大問題よね。だから、貴女のを少し貸して貰っても良いかしら?」
彼女は私から受け取った指輪を躊躇いなく嵌め、その後しっかりと両手でこちらの手に包むようにして返してくれる。
「こんな酷い副作用……悪用し放題だから、隠し通すのは大変みたい」
三元老の秘密を話してしまった事と共に、個人としての関わりの薄い私の事を。いや、きっとそれだけじゃなく、永遠に心に秘めておくつもりだった想いの丈を、それを話してしまった事を、改めて自分の中に封じるため。
「当時、もしこの事を知っていたら、私のを嵌めて貰う勇気はあったのかな……偶を降りて尚、彼のを借りられていないんだから、きっと無理だったんでしょうね……ふふ。我ながら女々し過ぎて、何だか嫌になってきちゃう」
俯きがちに自嘲し、彼女は懺悔めいた独白を続ける。
「私はね、詩が好き。絵画は幾重にも色を重ねて深みを出して行くものだけど、詩は極限まで言葉を削って深みを出して行くものなの。でも……でもね。一番大切なフレーズまで削ってしまうと、回りくどくて、何も伝わらなくなってしまうのよ?」
「…………仰っている意味が、分かり兼ねます」
「綺麗さっぱり忘れて貰うも良し。私がしばらく〝繋ぎ手〟をするから、いっそその人に打ち明けて、二人遠くに逃げるも良し。私みたいにウジウジと悩み続けるも良し……でも、貴女には、私みたいにみっともなくなって欲しくない……かな?」
そう言って淡く笑む彼女は、今まで見た誰よりも美しかった。哀しい程に。
「…………エマ様は、とても立派な方です。全然みっともなくなんか、ありません」
みっともないのは、きっと私の方だ。あの人に打ち明けるどころか、今尚自分でも認められないまま、ずっと自身の気持ちに蓋をして来ている。
そして今、無理矢理それをこじ開けられそうで、とても焦っている。
水面に落ちた雨粒のように、私の視界は不意に灰色へと滲んで行く。
「貴女に事切りの指輪の事を伝えてしまったのは、ただのエゴよ。ごめんなさい。何だか今日は謝ってばかりね……情けない先輩で本当にごめんなさい。あ、また謝っちゃった♪ ふふ、もう明日には、全部忘れてしまっているでしょうけれど」
私は強い情動を必死になって抑え込む。また彼女に飛び付いて、さっきみたいに胸に顔を埋めて、何かを叫びたくなってしまう情動を。
「私は────覚えています」
「ありがとう……優しいのね。余計なお節介で、貴女に随分と負担を掛けてしまったわ。本当にごめんなさい。私が貴女にどんな道を選んで欲しいのか……それは流石に、内緒にしておくわね?」
人差し指を口元に当て、小さくウィンクしている。
そんなの、今更聞くまでも無い。
〝今をしっかり生き抜く事、心を美しく保つ事〟。それがお母様からの教え。
だからどんなに強い希望だとしても、貴女の想いには決して応えられない。
代替品には、なれない。
彼女が自らを〝ミス・エマ〟と呼ばせた事。その重みがまざまざと胸に伸し掛かってくる。
私の生家は既に売りに出されてしまっている。侍女のルクシラちゃん達も、とっくにお母様と一緒に移り住んでしまっただろう。
そんな〝根無し草〟な私だけれど、だからと言って、不実な破滅に導く女になんかなりたくない。
次の〝夢弾きの偶〟になると決まった時、お母様は栄誉の喜びより、悲嘆の方がずっと強かった。
その真の意味がようやく分かって来た気がする。気付くのが、余りにも遅かったけれど。
偶のお役目を終えた後の事なんて、端から考えてなどなかった。
いつの日か行き遅れのまま、マホガニーの嫁入り道具すら持たず、ベオウルフお義兄様の所に転がり込んだって、何のお咎めも無い筈。
私ただ、私の為すべき事を為す。
今はただ、それだけ。
私はずっと幸せだった。絶え間無いお母様からの愛情に、周囲からの庇護に甘え続けて来た。もう、それだけで充分。
だからここから先は、私一人で、きちんと決着を付けよう。
「ここでもう少し涼んで行く事にするわ……さようなら、〝クラウディアちゃん〟」
優美に髪を下ろし切った風采のまま、彼女はもう、きっと誰とも踊るつもりが無いのだろう。
偉大なる先輩からの今生の別れにも等しい台詞を耳にし、私は言葉無く、再びダンスホールへと足を向けていた。




