第九話 偽りのウツボカズラ
第九話 偽りのウツボカズラ
夜の温室は、生き物の腹の中に似ていた。
硝子天井を叩く雨音が鈍く反響し、巨大植物たちの影が湿った闇の中で蠢いている。熱帯特有の濃い湿気が肌へ絡みつき、呼吸のたび青臭い匂いが肺へ入り込んだ。
ヴィラ・ボタニカ中央特別温室。
一般公開禁止区域。
その最深部で、人が死んでいた。
「……うわ」
御子柴馨が低く呻く。
珍しく本気で嫌そうな顔だった。
黒いシャツの袖を捲り、額へ張りついた前髪を乱暴に払う。温室の熱気でいつもの余裕は消え、肌には汗が滲んでいた。
蓮見柊は黙ったまま前を見ている。
白いシャツに濃灰色のベスト。いつもの革手袋を嵌めた指先だけが、微かに強張っていた。
目の前には巨大なウツボカズラ。
人の背丈を超える捕虫袋が、天井近くから幾つも垂れ下がっている。深紅と黒が混ざった袋の内側はぬらぬらと濡れ、消化液が粘ついた音を立てていた。
その一つの中に、“指”が浮いていた。
半ば溶けかけた、人間の指。
「事故死ってレベルじゃねえぞ……」
御子柴が呟く。
遺体は温室中央で仰向けに倒れていた。
植物園の大口支援者、西崎隆弘。
五十代後半。高級スーツは泥と消化液で汚れ、青白い顔には恐怖が焼きついている。
「監視カメラには誰も映ってない」
滝沢警部補が険しい顔で言った。
「深夜一時に温室へ入ったあと、そのままだ」
「死因は?」
「転倒時の頭部損傷。ただ……」
滝沢がウツボカズラを見る。
「この指が問題だ」
柊は静かに捕虫袋へ近づいた。
生暖かい空気。
濃い腐葉土の匂い。
甘ったるい消化液の臭気。
植物なのに、どこか獣の口腔に似ている。
「本物の人間の指です」
「やっぱりか」
「ただし被害者のものじゃない」
御子柴が眉をひそめる。
「は?」
「西崎氏の指は全部ある」
柊は袋の縁へ触れた。
「これは別人のものです」
温室の空気が重く沈む。
そのとき、滝沢が封筒を差し出した。
「あと、これが現場で見つかった」
柊が受け取る。
古びた革製のキーホルダーだった。
植物標本室の番号札。
数字は“17”。
柊の呼吸が止まる。
「……どうした」
御子柴の声が低くなる。
柊は答えない。
白い指先が、微かに震えていた。
「父のです」
静かな声だった。
「え?」
「十年前、失踪した時に持っていた」
温室の湿気が急に冷たく感じられた。
御子柴が表情を消す。
「……誰かが置いたのか」
「ええ」
柊はゆっくり周囲を見回した。
「これは事故じゃない」
巨大植物たちの葉が、雨音に合わせてざわりと揺れる。
「警告です」
その声だけが異様に静かだった。
「誰かが、十年前を掘り返そうとしてる」
翌朝。
ヴィラ・ボタニカ本館には重苦しい空気が漂っていた。
職員たちは皆、怯えた顔で視線を逸らす。
支援者の死。
巨大食虫植物。
消えた指。
噂だけが園内を這い回っていた。
「西崎さんは最近、園の経営へ口を出していたそうです」
秘書の有村冴子が紅茶を運びながら言った。
三十代後半。黒のタイトスーツに細い金縁眼鏡。隙のない化粧をしているが、指先だけが落ち着かず震えている。
「総支配人とも揉めていました」
「相良さんとか」
御子柴が言う。
「ええ……研究予算の件で」
柊はカップへ口をつけなかった。
ただ窓の外の温室を見つめている。
「柊」
御子柴が低く呼ぶ。
「顔色悪いぞ」
「大丈夫です」
「嘘つけ」
珍しく強い口調だった。
柊は少し黙り込んでから言う。
「父は、失踪前に何かを調べていました」
「何を」
「わかりません。でも……」
彼は拳を握る。
「植物園内部の誰かを警戒していた」
沈黙。
遠くで雷が鳴った。
その日の夕方、二人は再び温室へ向かった。
閉館後の温室はさらに不気味だった。
照明は最低限しか点いておらず、巨大植物の影が床を覆っている。
「普通にホラーなんだよな、ここ」
御子柴が呟く。
「落ち着きます」
「お前だけだよ」
柊はウツボカズラの周囲を調べていた。
ふと、床へしゃがみ込む。
「……泥」
「何かあるか?」
「長靴の跡です」
柊は床を指差した。
「温室管理用じゃない。研究区域用の特殊ソール」
「内部の人間か」
「ええ」
そのときだった。
背後で物音がした。
二人が振り返る。
暗闇の奥に、人影。
一瞬だけ白衣が見えた。
「待て!」
御子柴が駆け出す。
だが相手は逃げ、巨大な葉の向こうへ消えた。
温室の奥で、ウツボカズラが揺れる。
ぽたり。
消化液が床へ落ちた。
御子柴が舌打ちする。
「逃げられた」
柊は暗闇を見つめていた。
その横顔は、これまでで一番冷えて見えた。
「父は事故じゃなかった」
「……」
「誰かに消されたんです」
熱帯植物の匂いが濃く漂う。
湿った夜気の中で、巨大なウツボカズラは静かに口を開けていた。
まるで、まだ何かを呑み込もうとしているみたいに。




