第八話 ラフレシアの甘い罠
第八話 ラフレシアの甘い罠
腐った肉の匂いだった。
巨大温室へ入った瞬間、御子柴馨は思わず顔をしかめた。
「っ……なんだこれ」
湿った熱気が肌へまとわりつく。硝子張りの天井には白く曇った水滴がびっしり張りつき、巨大な葉が視界を覆っている。熱帯植物特有の青臭さに混じって、鼻の奥へこびりつくような腐臭が漂っていた。
「ラフレシアです」
蓮見柊は平然と答える。
今日は薄い黒のシャツに生成り色のジャケットを羽織っていた。湿気で前髪が少し額へ張りつき、白い肌が温室の熱気にうっすら赤く染まっている。
「世界最大級の花です。腐肉臭で蝿を集める」
「嫌な生態してるな……」
御子柴はハンカチを鼻へ当てた。黒の半袖シャツ姿だったが、背中にはもう汗が滲んでいる。
ヴィラ・ボタニカ特別温室。
普段は一般公開されていない研究区域だった。
その中央で、男が死んでいた。
高級スーツを着た中年男性。白いシャツの襟元を苦しげに掻き毟った跡があり、口元には泡が乾いている。
「被害者は金融投資家の西園寺雅臣」
滝沢警部補が額の汗を拭った。
「死因は毒ガス中毒。だが問題は――」
「侵入経路がない」
御子柴が周囲を見回す。
温室は完全密閉式だった。
分厚い硝子壁。
電子ロック。
監視カメラ。
外部から侵入した形跡はない。
「しかも誰も異臭に気づいてない」
滝沢が言う。
「ガスなら普通わかるだろ」
「ここでは無理です」
柊は静かにラフレシアを見つめた。
巨大な赤黒い花弁。
まだら模様。
肉厚な中心部。
まるで生きた臓器のようだった。
「この臭いが強すぎる」
腐敗臭が肺へ絡みつく。
甘ったるいのに吐き気を催す匂いだった。
「人間の嗅覚は、強い臭気に慣れます」
柊は花へ顔を近づける。
「だから異物を混ぜても気づきにくい」
「つまり犯人は?」
「ラフレシアの臭気へ毒ガスを混ぜた」
そのとき、奥から男が現れた。
「……そんなこと、できるわけない」
低い声だった。
温室管理員の榊原巌。
五十代半ば。日に焼けた肌に無精髭。カーキ色の作業服の袖を捲り、太い腕には古傷が残っている。
「この温室は毎日俺が管理してる。変な細工なんかない」
「被害者とは親しかった?」
御子柴が訊く。
「仕事上だけだ」
榊原は吐き捨てるように言った。
「あんな金の話しかしねえ男、好きな奴いるか」
滝沢が手帳を捲る。
「被害者は最近、この温室へ大規模投資を始めていた」
「……」
「経営権にも口を出していたらしいな」
榊原の眉がぴくりと動く。
「植物を、商売の道具みたいに扱ってた」
その声には露骨な嫌悪が滲んでいた。
柊は温室内を歩き回る。
巨大シダ。
食虫植物。
蘭。
湿った土の匂い。
葉から滴る水滴。
肌へ貼りつく熱。
そして腐臭。
「……妙ですね」
柊が立ち止まる。
「何がだ」
「臭いが均一すぎる」
御子柴が顔をしかめる。
「もう鼻が麻痺してわからん」
「普通、ラフレシアの臭気は局所的です」
柊は空調口を見上げた。
「でも温室全体へ広がってる」
滝沢が顔を上げる。
「換気設備か」
「ええ」
榊原が低く笑った。
「植物の臭いなんて、誰も気にしない」
その言葉に、御子柴が目を細める。
「……随分詳しいな」
「毎日ここにいるんだ。当然だろ」
だが柊は、黙ったまま床を見ていた。
ラフレシア近くの排水溝。
そこに、白い粉末が微かに残っている。
彼は指先で掬い、鼻へ近づけた。
「薬剤です」
「毒ガスの材料か?」
「おそらく」
榊原の顔色が変わる。
「待て、俺じゃない」
「でも知っていた」
柊は静かだった。
「臭いが人間の感覚を鈍らせることを」
温室の空気が重く沈む。
外では夕立が降り始め、硝子天井を激しく叩いていた。
「西園寺さん、ここをリゾート施設に変えるつもりだったんですね」
柊がぽつりと言う。
榊原が黙る。
「熱帯植物を減らし、商業展示へ変える。あなたは反対していた」
「……あの男は植物を殺そうとしてた」
榊原の声は掠れていた。
「珍しい花を並べて、客を呼んで、儲けることしか考えてなかった」
「だから殺した?」
「違う……!」
榊原は怒鳴った。
「脅すだけのつもりだった! 臭いで少し気分が悪くなる程度に……!」
「でも濃度を間違えた」
柊が静かに言う。
男は崩れるように膝をついた。
「……気づかなかったんだ」
熱帯の湿気の中で、榊原の顔から汗が流れ落ちる。
「俺も臭いに慣れてたから……」
誰も言葉を失った。
ラフレシアだけが、静かに咲いている。
巨大な花弁を広げ、人間の死など何も知らないように。
帰り道。
雨はまだ降っていた。
二人は植物園近くの洋食屋へ入る。
冷房の効いた店内には、バターとデミグラスソースの匂いが満ちていた。
御子柴はアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「生き返る……」
柊はオムライスを食べながら窓の外を見ていた。
「匂いは記憶を誤魔化します」
「ん?」
「人間は思ったより簡単に騙される」
窓硝子を雨粒が滑り落ちる。
その向こうで、夜の植物園がぼんやり滲んでいた。
まるで巨大な温室そのものが、何か秘密を抱えて呼吸しているみたいに。




