表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/14

第八話 ラフレシアの甘い罠

第八話 ラフレシアの甘い罠


 腐った肉の匂いだった。


 巨大温室へ入った瞬間、御子柴馨は思わず顔をしかめた。


「っ……なんだこれ」


 湿った熱気が肌へまとわりつく。硝子張りの天井には白く曇った水滴がびっしり張りつき、巨大な葉が視界を覆っている。熱帯植物特有の青臭さに混じって、鼻の奥へこびりつくような腐臭が漂っていた。


「ラフレシアです」


 蓮見柊は平然と答える。


 今日は薄い黒のシャツに生成り色のジャケットを羽織っていた。湿気で前髪が少し額へ張りつき、白い肌が温室の熱気にうっすら赤く染まっている。


「世界最大級の花です。腐肉臭で蝿を集める」


「嫌な生態してるな……」


 御子柴はハンカチを鼻へ当てた。黒の半袖シャツ姿だったが、背中にはもう汗が滲んでいる。


 ヴィラ・ボタニカ特別温室。


 普段は一般公開されていない研究区域だった。


 その中央で、男が死んでいた。


 高級スーツを着た中年男性。白いシャツの襟元を苦しげに掻き毟った跡があり、口元には泡が乾いている。


「被害者は金融投資家の西園寺雅臣」


 滝沢警部補が額の汗を拭った。


「死因は毒ガス中毒。だが問題は――」


「侵入経路がない」


 御子柴が周囲を見回す。


 温室は完全密閉式だった。


 分厚い硝子壁。


 電子ロック。


 監視カメラ。


 外部から侵入した形跡はない。


「しかも誰も異臭に気づいてない」


 滝沢が言う。


「ガスなら普通わかるだろ」


「ここでは無理です」


 柊は静かにラフレシアを見つめた。


 巨大な赤黒い花弁。


 まだら模様。


 肉厚な中心部。


 まるで生きた臓器のようだった。


「この臭いが強すぎる」


 腐敗臭が肺へ絡みつく。


 甘ったるいのに吐き気を催す匂いだった。


「人間の嗅覚は、強い臭気に慣れます」


 柊は花へ顔を近づける。


「だから異物を混ぜても気づきにくい」


「つまり犯人は?」


「ラフレシアの臭気へ毒ガスを混ぜた」


 そのとき、奥から男が現れた。


「……そんなこと、できるわけない」


 低い声だった。


 温室管理員の榊原巌。


 五十代半ば。日に焼けた肌に無精髭。カーキ色の作業服の袖を捲り、太い腕には古傷が残っている。


「この温室は毎日俺が管理してる。変な細工なんかない」


「被害者とは親しかった?」


 御子柴が訊く。


「仕事上だけだ」


 榊原は吐き捨てるように言った。


「あんな金の話しかしねえ男、好きな奴いるか」


 滝沢が手帳を捲る。


「被害者は最近、この温室へ大規模投資を始めていた」


「……」


「経営権にも口を出していたらしいな」


 榊原の眉がぴくりと動く。


「植物を、商売の道具みたいに扱ってた」


 その声には露骨な嫌悪が滲んでいた。


 柊は温室内を歩き回る。


 巨大シダ。


 食虫植物。


 蘭。


 湿った土の匂い。


 葉から滴る水滴。


 肌へ貼りつく熱。


 そして腐臭。


「……妙ですね」


 柊が立ち止まる。


「何がだ」


「臭いが均一すぎる」


 御子柴が顔をしかめる。


「もう鼻が麻痺してわからん」


「普通、ラフレシアの臭気は局所的です」


 柊は空調口を見上げた。


「でも温室全体へ広がってる」


 滝沢が顔を上げる。


「換気設備か」


「ええ」


 榊原が低く笑った。


「植物の臭いなんて、誰も気にしない」


 その言葉に、御子柴が目を細める。


「……随分詳しいな」


「毎日ここにいるんだ。当然だろ」


 だが柊は、黙ったまま床を見ていた。


 ラフレシア近くの排水溝。


 そこに、白い粉末が微かに残っている。


 彼は指先で掬い、鼻へ近づけた。


「薬剤です」


「毒ガスの材料か?」


「おそらく」


 榊原の顔色が変わる。


「待て、俺じゃない」


「でも知っていた」


 柊は静かだった。


「臭いが人間の感覚を鈍らせることを」


 温室の空気が重く沈む。


 外では夕立が降り始め、硝子天井を激しく叩いていた。


「西園寺さん、ここをリゾート施設に変えるつもりだったんですね」


 柊がぽつりと言う。


 榊原が黙る。


「熱帯植物を減らし、商業展示へ変える。あなたは反対していた」


「……あの男は植物を殺そうとしてた」


 榊原の声は掠れていた。


「珍しい花を並べて、客を呼んで、儲けることしか考えてなかった」


「だから殺した?」


「違う……!」


 榊原は怒鳴った。


「脅すだけのつもりだった! 臭いで少し気分が悪くなる程度に……!」


「でも濃度を間違えた」


 柊が静かに言う。


 男は崩れるように膝をついた。


「……気づかなかったんだ」


 熱帯の湿気の中で、榊原の顔から汗が流れ落ちる。


「俺も臭いに慣れてたから……」


 誰も言葉を失った。


 ラフレシアだけが、静かに咲いている。


 巨大な花弁を広げ、人間の死など何も知らないように。


 帰り道。


 雨はまだ降っていた。


 二人は植物園近くの洋食屋へ入る。


 冷房の効いた店内には、バターとデミグラスソースの匂いが満ちていた。


 御子柴はアイスコーヒーを一気に飲み干す。


「生き返る……」


 柊はオムライスを食べながら窓の外を見ていた。


「匂いは記憶を誤魔化します」


「ん?」


「人間は思ったより簡単に騙される」


 窓硝子を雨粒が滑り落ちる。


 その向こうで、夜の植物園がぼんやり滲んでいた。


 まるで巨大な温室そのものが、何か秘密を抱えて呼吸しているみたいに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ