第七話 アサガオの咲かない朝
第七話 アサガオの咲かない朝
朝顔は、朝に咲く。
だからこそ、咲かない朝には理由がある。
八月の終わりだった。
ヴィラ・ボタニカへ向かう途中、蓮見柊は車窓の外を眺めていた。早朝の光はまだ柔らかく、街路樹の葉には昨夜の雨粒が残っている。
助手席の御子柴馨は眠そうに欠伸をした。
「……なんで事件って朝早いんだろうな」
「朝顔だからでは」
「絶対違う」
御子柴は黒シャツの襟元を緩めた。今日は暑さのせいかジャケットを脱いでいる。細い銀鎖だけが喉元で光っていた。
柊は白い半袖シャツに薄青のカーディガン。膝の上には植物資料のファイルを抱えている。
「変化朝顔、楽しみです」
「お前ほんと植物の話だけテンション上がるな」
「当然です」
「即答するな」
目的地は大学付属の植物遺伝子研究所だった。
白い近代建築の温室には無数の朝顔が絡みつき、紫、藍、白、絞り模様の花が朝露を受けて咲いている。
だが、その景色の美しさとは裏腹に、研究所全体には張り詰めた空気が漂っていた。
研究主任・片瀬匡人が昨夜、研究室で死亡したのである。
「服毒自殺と見られてます」
滝沢警部補が説明する。
「だが同時に、“幻の朝顔”の種子が盗まれた」
「幻?」
御子柴が訊く。
「江戸時代に存在した変化朝顔の再現種です」
柊が代わりに答えた。
「突然変異で特殊な花弁を作る。市場価値は高い」
「詳しいな」
「好きなので」
研究室へ入ると、薬品と湿った土の匂いが鼻を掠めた。
机に突っ伏すようにして、片瀬は死んでいた。
まだ若い。四十代半ばほどだろうか。
白衣の胸元には青い染みが広がり、傍らには空の薬瓶。
「遺書もある」
滝沢が封筒を見せる。
「研究に疲れた、と」
「いかにも偽造っぽいな」
御子柴が鼻で笑う。
柊は答えず、窓際の鉢植えを見つめていた。
朝顔。
だが一鉢だけ、花が咲いていない。
「……変ですね」
「何がだ」
「この時間なら開花してるはずです」
柊は鉢へ近づいた。
葉は青々としている。蔓も元気だ。
なのに蕾だけが硬く閉じている。
「病気か?」
「違います」
柊は葉をそっと撫でた。
「意図的に休眠させてる」
そのとき、背後で女の声がした。
「先生は、あの種を命みたいに大事にしてました」
振り返ると、細身の女が立っていた。
研究助手の東雲梓だった。
黒縁眼鏡に、生成り色のブラウス。長い髪を低く束ね、目の下には濃い隈がある。
「誰にも触らせなかったんです」
「盗まれた種は?」
御子柴が訊く。
「保管庫から消えていました」
「鍵を持っていたのは?」
「先生と……副主任の倉橋さんです」
奥で、男が露骨に舌打ちした。
倉橋啓介。
三十代後半。高級そうなスーツ姿だが、汗で襟元が湿っている。
「疑うなら勝手にしろ」
吐き捨てるように言った。
「だが俺じゃない」
「片瀬先生とは仲が悪かった?」
「研究方針で揉めてた」
倉橋は苛立った顔で煙草を弄ぶ。
「あの人は理想論ばかりだった。金になる種を市場へ出そうとしない」
「つまり利益目的?」
「研究には金が必要なんだよ」
柊は黙ったまま、咲かない朝顔を見ていた。
蔓の巻き方。
葉脈。
土の乾き。
そして鉢の置かれた位置。
「この鉢だけ、日照時間が違う」
「は?」
御子柴が近づく。
「夜間、布を被せてますね」
東雲が目を見開いた。
「……どうしてわかるんです」
「葉の向きです」
柊は静かに答える。
「光を探していない。暗所に慣れてる」
滝沢が首を傾げる。
「それが何だ」
「変化朝顔には特殊な休眠性があります」
柊は鉢を持ち上げた。
「一定期間、完全な暗所で管理しないと発芽しない品種がある」
倉橋の顔色が変わる。
「つまり?」
「盗まれた種は偽物です」
沈黙。
エアコンの低い音だけが響く。
「本物はここにある」
柊は咲かない朝顔を見つめた。
「片瀬先生は、植物の性質を利用して隠したんです」
東雲が震える声を漏らす。
「先生……」
倉橋が怒鳴った。
「証拠はあるのか!」
「あります」
柊は静かだった。
「あなた、昨夜この鉢を動かしましたね」
「……!」
「鉢底の土が新しい位置に落ちてる」
御子柴が低く笑う。
「植物には詳しくなかったか」
「違う……!」
倉橋の顔が歪む。
「俺はただ、研究を成功させたかっただけだ!」
「だから盗んだ?」
「片瀬は何もわかってなかった!」
男は机を叩いた。
「市場へ出せば何億にもなる! なのに“純粋な研究を守りたい”だと!?」
東雲が涙ぐむ。
「先生は、朝顔をお金のために使いたくなかったんです……」
「綺麗事だ!」
倉橋は叫んだ。
「綺麗な花だけ見て生きられるか!」
その声が研究室へ虚しく響いた。
やがて男は力なく椅子へ崩れ落ちる。
「……薬を入れたのは俺だ」
掠れた声だった。
「少し眠らせるだけのつもりだった。でも……」
窓の外では、朝顔が風に揺れている。
紫の花弁が、朝の光を静かに受けていた。
帰り道。
二人は研究所近くの甘味処へ入った。
氷の入った麦茶が涼しげな音を立てる。
御子柴は冷やしぜんざいを見て顔をしかめた。
「夏にあんこ食うのか……」
「美味しいですよ」
柊は白玉を口へ運びながら答える。
「お前、味覚は意外と子供だよな」
「植物園の売店にもあります」
「知らねえよ」
窓の外では、朝顔が陽射しの中で咲いていた。
だが、咲かない花もある。
光を拒み、暗闇の中でしか目覚めない種も。
柊は静かに呟いた。
「犯人は植物を知らなかった」
麦茶の氷が、からりと音を立てた。




