表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/14

第六話 琥珀の中の遺言

第六話 琥珀の中の遺言


 雨の博物館は、どこか海の底に似ていた。


 巨大な硝子窓を叩く雨粒が、鈍い音を立てて流れていく。薄暗い展示室には金色の間接照明が沈み、古代生物の骨格標本が静かに影を落としていた。


 蓮見柊は、入口ホールで足を止める。


「湿度、高いですね」


「お前はまず人間の感想を言え」


 御子柴馨は呆れながら傘を畳んだ。


 今日は黒のスリーピースだった。細い銀縁眼鏡を掛けており、いかにも感じの悪い私立探偵に見える。本人に言うと怒るので言わないが。


 柊は淡い生成色のシャツに深緑のカーディガンを羽織っていた。濡れた前髪が額へ張りつき、白い指先にはいつもの革手袋。


「館長、まだ拘束中か」


「ええ」


 滝沢警部補が渋い顔で頷く。


「だが妙なんだよ。証拠が揃いすぎてる」


 事件が起きたのは三日前。


 国立自然史博物館の特別展示室から、推定数億円の希少琥珀が盗まれた。


 内部には未知の昆虫標本が閉じ込められており、世界的発見として注目されていた代物である。


 そして防犯記録には、館長しか出入りしていない。


「完全にハメられてる匂いがする」


 御子柴が低く言う。


「ええ」


 柊は静かに展示室を見回した。


 冷えた空気。


 消毒液の匂い。


 磨き上げられたガラスケース。


 その中央に、空になった展示台だけがぽつんと残されている。


「盗まれたのは“暁の琥珀”です」


 学芸員の女が説明した。


 三十代前半ほどだろうか。灰色のスーツにタイトスカート。髪を後ろで一つに束ね、疲れ切った顔をしている。


「私は主任研究員の秋月沙織です」


「館長とは?」


 御子柴が訊く。


「長年、一緒に研究してきました」


 だが、その口調には妙な硬さがあった。


 柊は展示ケースへ近づく。


「ケースに傷がない」


「内側から開けたんだろう」


 滝沢が言う。


「館長しか開錠コードを知らない」


「その割に埃が乱れてませんね」


「は?」


「普通、人間が出し入れすれば空気が動く」


 柊はケース内部をじっと見つめた。


「でもここ、妙に綺麗です」


 御子柴が目を細める。


「つまり?」


「盗まれたあと、掃除されてる」


 秋月の肩がぴくりと動く。


 そのとき、展示室の奥から若い男が現れた。


「また事情聴取ですか」


 不機嫌そうな声だった。


 白衣姿の研究員。二十代後半。細身で神経質そうな目をしている。


「三枝直哉です」


「君は?」


「昆虫化石担当です」


 男は苛立った様子でネクタイを緩めた。


「館長は昔から独裁的だった。恨んでる人間は多いですよ」


「例えば君とか?」


 御子柴が笑う。


 三枝は露骨に顔をしかめた。


「……俺は実力でここに来ました」


「でも評価されない」


「……」


 沈黙。


 柊はガラスケースの隅を見つめていた。


 そこに、小さな黄色い粉末が付着している。


 彼は指先でそっと掬った。


「花粉ですね」


「花粉?」


 滝沢が顔をしかめる。


「この部屋、毎日清掃されてるんだぞ」


「だから不自然なんです」


 柊は静かに言った。


「こんな場所にだけ残ってるのは」


 その夜。


 柊はヴィラ・ボタニカの研究室へ籠もっていた。


 顕微鏡のライトが白く光り、窓の外では雨が温室の硝子を叩いている。


 御子柴はソファへ寝転がりながら缶コーヒーを飲んでいた。


「まだ終わらないのか」


「もう少しです」


 柊は覗き込んだまま答える。


 白衣姿の彼は、昼間よりさらに人間離れして見えた。


「……あ」


「何かわかったか?」


「交雑種です」


「こうざつ?」


「二種類の植物が自然交配してる」


 柊は紙へ図を書き始めた。


「この花粉、特定地域にしか存在しません」


「どこだ」


「長野県の山間部」


 御子柴が起き上がる。


「館長の出身地か?」


「違います」


 柊は静かに首を振った。


「三枝研究員です」


 翌朝。


 博物館の休憩室には重苦しい空気が漂っていた。


 コーヒーの苦い匂い。蛍光灯の白い光。誰も口数が少ない。


 三枝は紙コップを握り締めたまま座っている。


「君の実家、長野でしたよね」


 御子柴が切り込む。


 三枝の顔色が変わる。


「……それが何です」


「琥珀に付着してた花粉が一致した」


「そんな馬鹿な」


「植物は嘘をつきません」


 柊が静かに言った。


「何万年経っても、記録を残す」


 三枝の唇が震える。


「……あの人は」


 掠れた声だった。


「館長は……俺の研究を全部自分の手柄にした」


 秋月が目を伏せる。


「三枝君……」


「俺が見つけた化石だったんだぞ!」


 三枝は机を叩いた。


「なのに論文から名前を消された!」


 雨音だけが響く。


「だから盗んだ?」


 御子柴が低く訊く。


「少し困らせるだけのつもりだった……!」


 三枝は崩れるように顔を覆った。


「館長が全部失えばいいって……それだけだったんだ……」


 帰り道。


 博物館近くの喫茶店へ入ると、バターと珈琲豆の香りが温かかった。


 柊は卵サンドを食べ、御子柴は煙草を我慢しながら深煎りコーヒーを飲んでいる。


「しかし、お前よく花粉だけでわかったな」


「植物は痕跡を残しますから」


「人間より誠実だな」


 柊は少し考えてから答えた。


「人間も、本当は残してるんです」


「何を?」


「嫉妬を」


 窓の外では、雨が静かに街を濡らしていた。


 遠い昔の樹液が、琥珀になって時間を閉じ込めたように。


 人間の感情もまた、簡単には消えないのかもしれなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ