第六話 琥珀の中の遺言
第六話 琥珀の中の遺言
雨の博物館は、どこか海の底に似ていた。
巨大な硝子窓を叩く雨粒が、鈍い音を立てて流れていく。薄暗い展示室には金色の間接照明が沈み、古代生物の骨格標本が静かに影を落としていた。
蓮見柊は、入口ホールで足を止める。
「湿度、高いですね」
「お前はまず人間の感想を言え」
御子柴馨は呆れながら傘を畳んだ。
今日は黒のスリーピースだった。細い銀縁眼鏡を掛けており、いかにも感じの悪い私立探偵に見える。本人に言うと怒るので言わないが。
柊は淡い生成色のシャツに深緑のカーディガンを羽織っていた。濡れた前髪が額へ張りつき、白い指先にはいつもの革手袋。
「館長、まだ拘束中か」
「ええ」
滝沢警部補が渋い顔で頷く。
「だが妙なんだよ。証拠が揃いすぎてる」
事件が起きたのは三日前。
国立自然史博物館の特別展示室から、推定数億円の希少琥珀が盗まれた。
内部には未知の昆虫標本が閉じ込められており、世界的発見として注目されていた代物である。
そして防犯記録には、館長しか出入りしていない。
「完全にハメられてる匂いがする」
御子柴が低く言う。
「ええ」
柊は静かに展示室を見回した。
冷えた空気。
消毒液の匂い。
磨き上げられたガラスケース。
その中央に、空になった展示台だけがぽつんと残されている。
「盗まれたのは“暁の琥珀”です」
学芸員の女が説明した。
三十代前半ほどだろうか。灰色のスーツにタイトスカート。髪を後ろで一つに束ね、疲れ切った顔をしている。
「私は主任研究員の秋月沙織です」
「館長とは?」
御子柴が訊く。
「長年、一緒に研究してきました」
だが、その口調には妙な硬さがあった。
柊は展示ケースへ近づく。
「ケースに傷がない」
「内側から開けたんだろう」
滝沢が言う。
「館長しか開錠コードを知らない」
「その割に埃が乱れてませんね」
「は?」
「普通、人間が出し入れすれば空気が動く」
柊はケース内部をじっと見つめた。
「でもここ、妙に綺麗です」
御子柴が目を細める。
「つまり?」
「盗まれたあと、掃除されてる」
秋月の肩がぴくりと動く。
そのとき、展示室の奥から若い男が現れた。
「また事情聴取ですか」
不機嫌そうな声だった。
白衣姿の研究員。二十代後半。細身で神経質そうな目をしている。
「三枝直哉です」
「君は?」
「昆虫化石担当です」
男は苛立った様子でネクタイを緩めた。
「館長は昔から独裁的だった。恨んでる人間は多いですよ」
「例えば君とか?」
御子柴が笑う。
三枝は露骨に顔をしかめた。
「……俺は実力でここに来ました」
「でも評価されない」
「……」
沈黙。
柊はガラスケースの隅を見つめていた。
そこに、小さな黄色い粉末が付着している。
彼は指先でそっと掬った。
「花粉ですね」
「花粉?」
滝沢が顔をしかめる。
「この部屋、毎日清掃されてるんだぞ」
「だから不自然なんです」
柊は静かに言った。
「こんな場所にだけ残ってるのは」
その夜。
柊はヴィラ・ボタニカの研究室へ籠もっていた。
顕微鏡のライトが白く光り、窓の外では雨が温室の硝子を叩いている。
御子柴はソファへ寝転がりながら缶コーヒーを飲んでいた。
「まだ終わらないのか」
「もう少しです」
柊は覗き込んだまま答える。
白衣姿の彼は、昼間よりさらに人間離れして見えた。
「……あ」
「何かわかったか?」
「交雑種です」
「こうざつ?」
「二種類の植物が自然交配してる」
柊は紙へ図を書き始めた。
「この花粉、特定地域にしか存在しません」
「どこだ」
「長野県の山間部」
御子柴が起き上がる。
「館長の出身地か?」
「違います」
柊は静かに首を振った。
「三枝研究員です」
翌朝。
博物館の休憩室には重苦しい空気が漂っていた。
コーヒーの苦い匂い。蛍光灯の白い光。誰も口数が少ない。
三枝は紙コップを握り締めたまま座っている。
「君の実家、長野でしたよね」
御子柴が切り込む。
三枝の顔色が変わる。
「……それが何です」
「琥珀に付着してた花粉が一致した」
「そんな馬鹿な」
「植物は嘘をつきません」
柊が静かに言った。
「何万年経っても、記録を残す」
三枝の唇が震える。
「……あの人は」
掠れた声だった。
「館長は……俺の研究を全部自分の手柄にした」
秋月が目を伏せる。
「三枝君……」
「俺が見つけた化石だったんだぞ!」
三枝は机を叩いた。
「なのに論文から名前を消された!」
雨音だけが響く。
「だから盗んだ?」
御子柴が低く訊く。
「少し困らせるだけのつもりだった……!」
三枝は崩れるように顔を覆った。
「館長が全部失えばいいって……それだけだったんだ……」
帰り道。
博物館近くの喫茶店へ入ると、バターと珈琲豆の香りが温かかった。
柊は卵サンドを食べ、御子柴は煙草を我慢しながら深煎りコーヒーを飲んでいる。
「しかし、お前よく花粉だけでわかったな」
「植物は痕跡を残しますから」
「人間より誠実だな」
柊は少し考えてから答えた。
「人間も、本当は残してるんです」
「何を?」
「嫉妬を」
窓の外では、雨が静かに街を濡らしていた。
遠い昔の樹液が、琥珀になって時間を閉じ込めたように。
人間の感情もまた、簡単には消えないのかもしれなかった。




