第五話 サボテンは見ていた
第五話 サボテンは見ていた
真夏の熱気は、人間の理性を鈍らせる。
午後三時。
アスファルトは陽炎を揺らし、街路樹の葉は乾いた風にざわついていた。
蓮見柊は、汗一つ浮かべない顔でマンションを見上げる。
「暑いですね」
「お前それ、感想じゃなくて事実確認だろ」
御子柴馨はネクタイを緩めながら顔をしかめた。
今日は珍しくラフな格好だった。白シャツの袖を肘まで捲り、黒のスラックスだけという軽装である。それでも人混みの中では妙に目立つ。
柊は淡いカーキ色のシャツに黒のパンツ。肩から植物標本用の革鞄を提げていた。
「現場、上です」
滝沢警部補が手招きする。
「薬物絡みっぽい。だが妙なんだ」
エレベーターの中には、消毒液と古い鉄の匂いがこもっていた。
七階。
部屋へ入った瞬間、むっとする熱気が顔へ張りつく。
エアコンは止まり、締め切られた室内には酒と汗と血の臭いが漂っていた。
ワンルームの床には、若い男の遺体。
腹部を深く刺され、白いTシャツが赤黒く染まっている。
その少し離れた場所で、別の男が震えていた。
「俺じゃない……」
男は泣きながら呟いていた。
「化け物が見えたんだ……本当に……!」
名前は桐島圭介。二十七歳。
青白い顔には涙と汗が混ざり、焦点の定まらない目が天井を見つめている。
「被害者は友人の三上拓海」
滝沢が低い声で説明する。
「二人で酒を飲んでたらしい。だが桐島の体内から幻覚成分が検出された」
「ペヨーテですか」
柊が呟く。
「知ってるのか」
「幻覚性サボテンです」
窓際には、小さな鉢植えが幾つも並んでいた。
丸いサボテン。
細長い柱状種。
白い棘を持つ希少種。
乾いた土の匂いと、微かな青臭さが漂う。
「趣味で育ててたみたいだな」
御子柴が言う。
柊は無言で窓際へ近づいた。
指先で棘をそっと撫でる。
「……変ですね」
「また始まった」
「この棘」
柊は一つの鉢を持ち上げた。
「右方向だけ折れてます」
御子柴が覗き込む。
確かに、白い細針のような棘が一方向だけ不自然に欠けていた。
「だから?」
「強くぶつかった痕です」
「喧嘩中に倒れたとか」
「違います」
柊は静かに首を振る。
「棘の折れ方が一方向だけ。つまり――」
彼は部屋を見回した。
「誰かが窓側から突っ込んだ」
滝沢が腕を組む。
「被害者か?」
「ええ」
そのとき、桐島が突然叫んだ。
「違う! 三上が化け物になったんだ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、男は震えている。
「顔が溶けて……歯がいっぱいあって……!」
御子柴が溜息をつく。
「完全にラリってるな」
「幻覚は本人にとって現実です」
柊は淡々と言った。
「脳がそう認識してるので」
部屋の隅には、食べかけの料理が残っていた。
宅配ピザ。フライドチキン。ぬるくなったビール缶。
若者特有の脂っこい匂いが室内にこもっている。
テーブルには砕かれた乾燥植物片。
柊はそれを指で摘んだ。
「ペヨーテですね」
「どっちが飲ませた?」
「それを調べてる」
滝沢が言う。
「桐島は“自分は知らない”の一点張りだ」
そのとき、玄関の向こうで女の声がした。
「圭介!」
二十代半ばほどの女が飛び込んでくる。
肩までの茶髪に白いノースリーブブラウス。汗で化粧が崩れていた。
「里奈さん、落ち着いて」
警官が止める。
「圭介はそんなことする人じゃありません!」
女――高瀬里奈は泣きそうな顔で桐島へ駆け寄った。
「ねえ、何があったの……!」
桐島は怯えた子供のように震えていた。
「化け物が……」
「違う!」
里奈が叫ぶ。
「また拓海に変な薬飲まされたんでしょ!?」
空気が止まる。
御子柴がゆっくり振り返った。
「また?」
里奈は唇を噛む。
「拓海、最近おかしかったんです。圭介に嫉妬してて……」
「嫉妬?」
「仕事です。圭介だけ昇進して」
柊は黙ったまま床を見ていた。
血痕。
倒れた椅子。
砕けたグラス。
そして、サボテン。
彼はゆっくり立ち上がる。
「三上さんは、最初から桐島さんを殺すつもりだった」
滝沢が目を見開く。
「何?」
「ペヨーテを摂取させ、幻覚状態へ追い込む」
柊は静かに言った。
「その上で襲えば、正当防衛に見せかけられる」
「だが死んだのは三上だぞ」
「逆に抵抗されたんです」
桐島が震える声を漏らす。
「俺……覚えてない……」
「でしょうね」
柊は窓際のサボテンを見つめた。
「でも植物は覚えてた」
彼は鉢を持ち上げる。
「三上さんはナイフを持って窓側から突進した。その勢いでサボテンへぶつかった」
「だから棘が一方向だけ折れた」
御子柴が低く言う。
「ええ」
柊は頷いた。
「先に襲ったのは、死んだ側です」
部屋に沈黙が落ちる。
外では蝉が狂ったように鳴いていた。
桐島が崩れるように泣き出す。
「俺、殺したくなんかなかった……!」
里奈がその肩を抱きしめた。
汗と涙の匂いが混ざる。
御子柴は窓を開けた。
熱風が部屋へ吹き込み、サボテンの棘を揺らす。
「植物だけが見てた、か」
柊は静かに頷く。
「植物は嘘をつきませんから」
帰り道。
二人は古いメキシコ料理店へ入った。
店内にはスパイスと焼いた肉の匂いが満ちている。
御子柴はタコスを齧りながら言った。
「ペヨーテなんて、よく知ってたな」
「植物園で研究してました」
「お前の職場、たまに怖い」
柊は無言でライムを絞る。
窓の外では、夕焼けが街を赤く染めていた。
乾いた熱気の中で、遠くのビルの屋上に小さなサボテンの影が揺れていた。




