第四話 死体は薔薇の底に
第四話 死体は薔薇の底に
薔薇の香りは、ときどき血の匂いに似ている。
鳳条家の庭園へ足を踏み入れた瞬間、蓮見柊はそう思った。
初夏の午後だった。陽射しは柔らかいのに空気は妙に重く、庭を埋め尽くす薔薇の甘い芳香が肌へまとわりついてくる。赤、白、黄、薄桃。整然と咲き並ぶ花々の奥で、ひときわ濃い黒が揺れていた。
黒薔薇。
まるで夜を切り取ったような花弁だった。
「うわ……」
御子柴馨が思わず声を漏らす。
「本当に黒いんだな」
今日は珍しくネイビーのジャケット姿だった。白シャツの袖を軽く捲り、サングラスを胸ポケットへ差している。真夏手前の熱気に、さすがに黒尽くめは諦めたらしい。
柊は白いリネンシャツに薄灰色のベストを重ね、いつもの革手袋を嵌めていた。
「完全な黒ではありません」
「始まった」
「濃赤です。人間の視覚が黒と認識してるだけで」
「そういう話じゃない」
御子柴は苦笑した。
鳳条邸は古い華族屋敷だった。洋館と日本家屋を繋げた奇妙な造りで、広い庭園には噴水や温室まである。
しかし、その豪奢な景観とは裏腹に、屋敷全体へ沈鬱な空気が漂っていた。
当主・鳳条隆一郎が失踪して、三ヶ月。
警察は家出として処理しかけていたが、最近になって妙な噂が立ちはじめた。
黒薔薇が異常に咲き始めた、と。
「お待ちしていました」
現れたのは、鳳条家の庭師・相馬悠真だった。
二十代後半。日に焼けた肌に細身の体。白い作業シャツの袖を肘まで捲り、土で汚れた指先には細かな傷が無数に走っている。
「旦那様がいなくなってから、この薔薇だけ急に育ち始めたんです」
「あなたが育てている?」
柊が尋ねる。
「ええ。俺は先生の弟子でしたから」
「先生?」
「鳳条隆一郎です。あの人、薔薇だけは本当に天才だった」
悠真の目が、黒薔薇を見るときだけ柔らかくなる。
「新品種を作ってたんですよ。“夜の女王”って呼ばれてました」
その声に滲む執着を、御子柴は黙って見ていた。
庭園を歩くと、湿った土の匂いと花の香りが混ざり合う。遠くで噴水の水音が響き、蜂の羽音が低く漂っていた。
黒薔薇の花壇の前で、柊は立ち止まった。
「……綺麗すぎる」
「お前もそう思うか」
「普通じゃありません」
柊はしゃがみ込み、土へ触れた。
指先へ、妙に柔らかな感触が返る。
湿り気。熱。腐植。
「最近、肥料を増やしました?」
悠真が目を逸らす。
「いえ、特には」
柊は花弁を一枚摘み、鼻先へ寄せた。
濃厚な香り。
だが、その奥に鉄のような匂いが微かに混ざっている。
「酸性が強い」
「花でわかるのか?」
御子柴が訊く。
「ええ。色素変化が起きてる」
柊は静かに立ち上がった。
「地下に大量の有機物があります」
悠真の顔が強張る。
「有機物?」
「死体とか」
御子柴がさらりと言うと、庭園の空気が凍った。
その瞬間だった。
「やめてください!」
鋭い声が飛ぶ。
振り返ると、黒いワンピース姿の女が立っていた。
鳳条志乃。隆一郎の娘だった。
長い黒髪を後ろで束ね、真珠のイヤリングが陽光を弾いている。痩せた頬には疲労の影が濃かった。
「父は生きています」
彼女は強い口調で言った。
「勝手なことを言わないで」
「なら警察へ捜索願を取り下げるよう頼まないはずです」
御子柴が冷静に返す。
志乃の唇が震えた。
「……父は昔から突然いなくなる人だったの」
「三ヶ月も?」
「……」
沈黙。
風が吹き抜け、黒薔薇が揺れた。
まるで笑っているようだった。
その日の夕方、柊たちは屋敷で食事を出された。
冷製ヴィシソワーズ。仔牛のソテー。焼き立てのライ麦パン。
だが食卓は異様に静かだった。
志乃はほとんど食べず、悠真もワインを口にするばかりで皿へ手を付けない。
柊だけが黙々とサラダを食べていた。
「お前、こんな空気でも普通に食えるのすごいな」
御子柴が呆れる。
「空腹だったので」
「神経どうなってんだ」
「植物園育ちですから」
「関係あるか?」
そのとき、柊がふと顔を上げた。
「悠真さん」
「……はい」
「黒薔薇、見せてもらえますか。夜の状態を」
男の目が揺れた。
夜。
庭園には月光が降り、黒薔薇は昼よりさらに暗く沈んで見えた。
香りは濃く、甘く、どこか腐敗臭に似ている。
柊は花壇の中央へ歩き、静かに言った。
「掘ってください」
悠真が息を呑む。
「何を……」
「ここです」
柊の声は淡々としていた。
「この薔薇だけ根の張り方が異常です。地下に大量の窒素源がある」
「……」
「人間の遺体ほど、薔薇に適した養分はない」
御子柴がスコップを受け取り、土へ突き立てた。
湿った音。
数分後。
腐臭が漂った。
志乃が悲鳴を上げる。
土の下から現れたのは、白骨化しかけた男の遺体だった。
悠真が崩れるように膝をつく。
「……先生が悪いんだ」
掠れた声だった。
「あの人、俺の品種を全部自分の名前で発表する気だった……!」
「だから殺した?」
御子柴が低く訊く。
「俺が育てたんだ……! あの薔薇は!」
悠真は泣きながら黒薔薇を見上げた。
「なのに先生は、“弟子に才能はいらない”って……!」
月光の下で、黒薔薇は静かに咲いていた。
花弁は濡れた血のように艶めいている。
帰り道。
御子柴は庭園を振り返った。
「綺麗すぎるな」
柊は夜風の中で静かに答える。
「植物は、死を穢れだと思わないので」
黒薔薇は風に揺れていた。
まるで何事もなかったかのように。




