第十話 ヴィラ・ボタニカの収穫祭
第十話 ヴィラ・ボタニカの収穫祭
収穫祭の日、ヴィラ・ボタニカには笑い声が満ちていた。
秋晴れだった。
中央庭園には白いテントが並び、焼きたてのハーブソーセージや木の実のタルトの香りが風へ溶けていく。子供たちは花冠を被って走り回り、楽団の演奏が噴水広場へ柔らかく響いていた。
だが、その賑わいの裏側で、蓮見柊は温室を見つめていた。
巨大な硝子建築。
陽光を受けて輝くその姿は、まるで巨大な棺のようだった。
「祭の日にそんな顔するなよ」
御子柴馨が紙皿を差し出す。
ローズマリー入りの串焼きだった。湯気と肉汁の香りが立ち上る。
今日は珍しくラフな格好だった。黒シャツにダークグレーのジャケット。胸元にはサングラスを引っ掛けている。
柊は薄いベージュのニットに黒のロングコートを羽織っていた。
「食べないんですか」
「お前まず自分の顔見ろ。死人みたいだぞ」
「元気です」
「嘘が下手すぎる」
柊は小さく息を吐いた。
昨夜から眠っていない。
父の遺品。
温室で見た白衣の影。
そして、ずっと頭から離れない違和感。
「……御子柴さん」
「ん?」
「もし父が殺されたなら」
柊は温室を見たまま言った。
「犯人は、ずっと植物園の中にいたことになります」
御子柴の表情が消える。
そのときだった。
園内放送が鳴る。
『皆様、本日はヴィラ・ボタニカ収穫祭へようこそ』
穏やかな声。
植物園総支配人・相良隆臣だった。
白髪混じりの髪を綺麗に撫でつけ、深緑のスーツを隙なく着こなしている。上品な笑みを浮かべ、来園客へ丁寧に頭を下げる姿は理想的な管理者そのものだった。
だが柊は、その目を見た瞬間に理解した。
冷たい。
植物を見る時と同じ目だ。
人間へ向ける目ではない。
「……あの人だ」
柊が呟く。
「何?」
「父が警戒していたのは」
御子柴が相良を見る。
「根拠は?」
「ありません」
「おい」
「でも植物は覚えてます」
その日の夕方。
収穫祭が終わりかけた頃、相良が二人を温室へ呼び出した。
「少し、お話ししたくて」
巨大温室の扉が閉まる。
電子ロックの音が、妙に大きく響いた。
途端に、甘い香りが漂う。
花の匂い。
だがその奥に、微かな苦味が混じっていた。
柊の顔色が変わる。
「……毒」
「さすがだ」
相良が静かに笑う。
「君は本当に優秀だ、柊君」
温室の空調が低く唸る。
見上げれば、天井の換気口から白い煙がゆっくり広がっていた。
「おい!」
御子柴が扉へ駆け寄る。
だが開かない。
「無駄ですよ」
相良は穏やかだった。
「これは植物毒を応用した新型です。呼吸器から入り、数分で神経を麻痺させる」
「……あなたが全部やったんですね」
柊の声は静かだった。
「第一話から」
「“やった”とは失礼だな」
相良は巨大なシダの葉を撫でる。
「私は可能性を与えただけだ。人間は、少し知識を与えると勝手に堕ちる」
「人を殺しておいて」
「植物毒は自然淘汰ですよ」
相良の目が、狂信者のそれへ変わる。
「植物は人間より優れている。奪い合わず、ただ生きる」
「だから人間を排除する?」
「弱い種は滅びるべきだ」
御子柴が舌打ちする。
「イカれてる」
「そうかな?」
相良は微笑む。
「君の母親も、温室事故で死んだそうだね」
御子柴の顔色が変わる。
「……なんで知ってる」
「あれも植物毒の実験だった」
空気が凍った。
御子柴が殴りかかろうとする。
だが柊が腕を掴んだ。
「待って」
「離せ!」
「吸ったら危険です」
毒ガスが濃くなっていた。
喉が焼ける。
肺が軋む。
だが柊は、温室の植物たちを見ていた。
葉の形。
配置。
湿度。
そして換気。
「……そうか」
柊が呟く。
「御子柴さん、散水ホースを」
「は?」
「早く!」
御子柴がホースを掴む。
柊は次々と植物へ水を浴びせ始めた。
シダ。
大型観葉植物。
薬草。
葉から大量の水蒸気が立ち上る。
「何してる!」
相良が叫ぶ。
「蒸散作用です」
柊は咳き込みながら答える。
「湿度を極端に上げれば、空気中の毒性濃度は変わる」
さらに彼は棚から植物抽出液を掴んだ。
「これは……」
「拮抗成分です」
液体を空調口へ投げ込む。
刺激臭が弾けた。
相良の顔が初めて歪む。
「君は……!」
「植物は、毒だけじゃない」
柊は静かに言った。
「命を守るためにも使える」
その瞬間だった。
巨大な樹木の根元へ視線が止まる。
不自然な盛り上がり。
異常な根の膨張。
十年間、そこだけ成長が歪んでいた。
「……ここだ」
柊の声が震える。
「父さん……」
御子柴が息を呑む。
相良が笑った。
「さすが親子だ」
「あなたが殺したんですね」
「冬真は愚かだった」
相良は穏やかに言う。
「植物の力を恐れていた」
「違う!」
柊の声が初めて強くなる。
「父は、人間の欲を恐れてたんだ!」
沈黙。
温室の植物たちが、湿った空気の中で揺れている。
「植物は人間より美しい」
相良は静かに笑った。
柊は、その目を真っ直ぐ見返す。
「だからこそ、人間の醜さに使ってはいけないんです」
遠くでサイレンが聞こえ始めていた。
雨が降り出す。
硝子天井を叩く音が、温室全体へ広がっていく。
数日後。
ヴィラ・ボタニカは静けさを取り戻していた。
秋の午後。
再開された温室には柔らかな陽光が差し込み、新しい花々が静かに咲いている。
御子柴はベンチへ座り、缶コーヒーを飲んでいた。
「……まだ植物は嫌いだ」
隣で、柊は植木鉢を弄っている。
「でも毎回来てますよね」
「お前を放っとくと、食虫植物に食われそうだからな」
「人間は消化できません」
「そこじゃねえよ」
御子柴は呆れながら笑った。
柊も少しだけ笑う。
温室の硝子越しに、午後の光が揺れていた。
植物たちは今日も静かに呼吸している。
何も語らず。
ただ、真実だけを根の奥に残しながら。




