エピローグ 春の温室
エピローグ 春の温室
春の雨は、冬の雨より優しい音がする。
ヴィラ・ボタニカの再建工事が終わったのは、事件から三ヶ月後だった。
割れた硝子は新しく張り替えられ、閉鎖されていた温室には再び植物たちが戻ってきている。焦げた匂いの残っていた通路には若い蔓が伸び、荒れていた花壇には淡い色の花々が咲き始めていた。
命は、静かに戻ってくる。
まるで何事もなかったみたいに。
昼過ぎ。
温室の硝子天井には細かな雨粒が残り、そこから差し込む春の光が葉脈を透かしていた。
湿った土の匂い。
新芽の青臭さ。
遠くで滴る水音。
植物たちは今日も黙ったまま呼吸している。
蓮見柊は温室中央でしゃがみ込み、小さな苗を植え替えていた。
薄い生成色のニットに、カーキ色のエプロン。袖口には黒い土が付いている。細い指先で根を傷つけないよう慎重に土を寄せる姿は、事件を追っていた時よりずっと穏やかだった。
「お前、本当にここ好きだな」
背後から声がする。
御子柴馨だった。
黒のジャケットに白シャツといういつもの格好だが、今日はネクタイをしていない。片手には紙袋を提げている。
「差し入れ」
「……またサンドイッチですか」
「文句あるなら返せ」
御子柴はベンチへ腰を下ろした。
紙袋の中には、近くのベーカリーで買ったクロワッサンサンドと珈琲が入っている。ハムとチーズの香りが、温室の湿った空気へ混ざった。
柊は苗を植え終えると、ようやく立ち上がる。
「ありがとうございます」
「珍しく素直だな」
「空腹なので」
「そこは変わらねえのか」
二人はベンチへ並んで座った。
硝子越しの光が、床へ柔らかな影を落としている。
しばらく無言で食事をした。
クロワッサンの表面はぱりぱりで、噛むたびバターの香りが広がる。柊は食べる時だけ妙に真剣な顔になるので、御子柴はいつも少し笑いそうになる。
「……まだ植物は嫌いだ」
御子柴がぽつりと言った。
柊は珈琲缶を持ったまま首を傾げる。
「でも毎回来てますよね」
「お前が放っておくと、食虫植物に食われそうだからな」
柊は真顔で答えた。
「人間は消化できません」
「そういう意味じゃねえよ」
御子柴は吹き出した。
その笑い声が、温室の中で柔らかく響く。
以前なら考えられなかったことだった。
事件のあと、御子柴は何度か悪夢を見たと言っていた。
毒ガス。
閉ざされた温室。
母親を失った日の記憶。
相良の笑い声。
植物を見るだけで息苦しくなる夜もあったらしい。
それでも彼は、こうしてヴィラ・ボタニカへ来る。
理由を問えば、いつも誤魔化すのだが。
「そういえば」
御子柴が珈琲を飲みながら言う。
「親父さんの研究資料、整理終わったのか」
柊は少し黙った。
温室の奥では、白い胡蝶蘭が静かに揺れている。
「まだです」
「多いのか」
「かなり」
父・蓮見冬真の遺骨は、あの大樹の下から発見された。
同時に見つかった研究資料には、相良が隠していた植物毒のデータだけではなく、植物による治療研究も大量に残されていた。
「父は最後まで、植物で人を救おうとしてた」
柊の声は静かだった。
御子柴は何も言わない。
ただ黙って、隣で珈琲を飲んでいる。
「僕、少し怖かったんです」
柊がぽつりと呟く。
「何が」
「もし父と相良が、本当は同じだったらって」
温室に雨音が響く。
葉先から落ちた水滴が、静かな音を立てた。
「でも違った」
柊は小さく笑った。
「植物は毒にもなるけど、薬にもなる。父はちゃんと知ってた」
「……ああ」
「だから、ここを残したかったんだと思います」
御子柴は窓の外を見る。
春の光の中で、若葉が風に揺れていた。
「お前、変わったな」
「そうですか?」
「前より人間っぽい」
柊は少し考えてから言った。
「たぶん、御子柴さんのせいです」
「嬉しくねえなそれ」
「あと事件」
「なお悪い」
二人は少し笑う。
そのとき、小さな女の子が温室へ入ってきた。
職員の娘だろうか。
黄色いレインコートを着て、小さな長靴でぴちゃぴちゃ床を歩いてくる。
「わあ……」
少女は目を輝かせた。
「お花いっぱい」
柊はしゃがみ込み、視線を合わせる。
「触る時は優しくですよ」
「うん!」
少女は頷き、小さな指で花弁へそっと触れた。
その様子を見て、御子柴が小さく息を吐く。
「……平和だな」
「平和です」
「もう殺人事件は勘弁してほしい」
「難しいかもしれません」
「やめろ」
温室の天井から、柔らかな光が降り注ぐ。
雨はいつの間にか止んでいた。
植物たちは静かに葉を揺らし、新しい季節を迎えている。
何も語らず。
ただ、生き続けながら。




