番外編 食べてはならない木
番外編 食べてはならない木
その木には、札が掛けられていた。
――触れるな。
赤い警告板は温室の湿気で少し反り返り、白文字だけがやけに鮮明だった。
ヴィラ・ボタニカ特別隔離区画。
一般公開されていない毒性植物棟である。
蓮見柊は白い保護手袋を嵌めたまま、その樹を静かに見上げていた。
「マンチニール」
低い声で呟く。
青々とした葉。
艶のある灰色の樹皮。
そして、小さな青リンゴに似た果実。
一見すると、南国の果樹にしか見えない。
だがその樹液は皮膚を焼き、煙は肺を侵し、果実は人を死へ導く。
“死の林檎”。
世界で最も危険な樹木の一つだった。
「ほんとにヤバい木なんだな」
背後で御子柴馨が顔をしかめる。
今日は黒のタートルネックに濃灰色のジャケット姿だった。手には温室入口でもらった簡易マスクを持っている。
「雨の日は特に危険です」
柊は葉先に残る水滴を見つめる。
「樹液が混じるので」
「つまり雨宿りしただけでアウト?」
「皮膚炎になります」
「嫌すぎる」
御子柴は距離を取った。
そのとき、奥の通路から滝沢警部補が歩いてくる。
「お前ら、説明聞いたか」
「事件ですか」
「またかよ、って顔すんな」
滝沢は疲れた顔で帽子を脱いだ。
「死んだのは植物系インフルエンサーの神崎理人。昨夜、この区画で倒れてるのが見つかった」
「原因は?」
「急性中毒。だが妙なんだ」
滝沢は警告札を指差した。
「ここ、立入禁止なんだよ。普通なら近づかねえ」
御子柴が眉をひそめる。
「自殺?」
「動画配信用に侵入した可能性もある」
最近流行していたのだ。
危険植物の紹介動画。
刺激的な映像。
再生数目当ての無謀行為。
「だが被害者の様子が変なんだ」
隔離棟の奥。
白いシートが掛けられていた。
若い男。
二十代後半。
ブランド物のシャツは泥で汚れ、首筋から頬にかけて赤黒い火傷のような痕が広がっている。
近くにはカメラ。
半分齧られた果実。
そして、倒れた脚立。
「うわ……」
御子柴が顔をしかめた。
「食ったのか」
「少量でも危険です」
柊は静かに答える。
「触れるだけで粘膜が損傷する」
温室には独特の匂いが漂っていた。
湿った木の香り。
熱帯植物の青臭さ。
その奥に混じる、乳臭い刺激臭。
「樹液ですね」
柊は樹皮を見つめた。
「傷がついてる」
「被害者が登った?」
「違います」
柊はしゃがみ込む。
「脚立の位置がおかしい」
御子柴も床を見る。
泥の跡。
擦れた痕。
「誰かが動かした?」
「ええ」
そのとき、温室の入口で女の怒鳴り声が響いた。
「だから言ったのよ!」
派手な赤いワンピース姿の女だった。
被害者のマネージャー・西条梨沙。
香水の甘い香りを振り撒きながら、苛立った顔で近づいてくる。
「危険な企画はやめろって!」
「神崎さんは何を撮る予定だったんです?」
御子柴が訊く。
「“エデンの禁断の果実を食べてみた”」
滝沢が頭を抱える。
「馬鹿だろ」
「再生数のためなら何でもやる人だったの!」
梨沙は吐き捨てるように言った。
「最近、スポンサーも減って焦ってたし……」
柊は黙ったまま、齧られた果実を見つめていた。
その断面だけ、妙に乾いている。
「……変ですね」
「何が」
「本当に食べたなら、もっと口腔損傷が酷い」
滝沢が顔を上げる。
「つまり?」
「死因は別です」
沈黙。
温室の送風機が低く唸る。
葉がざわざわ揺れる。
まるで木々が囁いているみたいだった。
「この人、先に樹液を浴びてる」
柊は静かに言った。
「高濃度で」
「事故じゃないのか」
「ええ」
柊は脚立へ近づく。
「誰かが無理やり登らせた」
御子柴が目を細める。
「動画配信中に揉めた?」
「おそらく」
そのときだった。
梨沙が小さく息を呑む。
柊の視線の先。
脚立の金具部分に、白い布片が引っかかっていた。
「これ……」
滝沢が顔色を変える。
「スタッフ用ジャケットの布だ」
数時間後。
事情聴取室。
男は崩れるように泣いていた。
撮影スタッフの若林悠斗。
二十五歳。
痩せた顔には疲労が滲み、指先は震えている。
「……あいつ、最近おかしかったんです」
掠れた声だった。
「危険なことばっかりやって、再生数のためなら何でもするようになって」
「だから揉めた?」
御子柴が訊く。
「止めたんです……でも」
若林は顔を覆った。
「“怖がってる顔が欲しい”って笑って……!」
温室で押し合いになった。
脚立が揺れた。
マンチニールの枝が折れ、樹液が降りかかった。
神崎は錯乱し、果実を齧った。
若林は怖くなって逃げた。
「殺すつもりじゃなかった……!」
男は泣き崩れる。
柊は窓の外を見ていた。
春の雨が静かに降っている。
「エデンの知識の実みたいですね」
御子柴がぽつりと言う。
「食べてはならない。触れてもならない。触れれば死ぬ」
柊は静かにマンチニールの葉を見上げた。
「人間は、危険だと言われるほど近づきたがる」
「禁忌だからか」
「たぶん」
葉先から落ちた雨粒が、床へ小さな音を立てる。
「でも植物は、最初から警告してるんです」
柊の声は穏やかだった。
「近づくな、と」




