番外編 種の中の毒
番外編 種の中の毒
果実の甘い香りほど、人間を油断させるものはない。
九月の終わりだった。
ヴィラ・ボタニカの果樹温室には、熟れた果物の匂いが満ちていた。桃の柔らかな甘さ。熟した林檎の青い香り。棚に並んだ杏のジャム瓶からは、砂糖の温かい匂いまで漂っている。
午後の陽射しは硝子天井を透かし、葉の影を床へ揺らしていた。
「平和だなあ……」
御子柴馨が呟く。
黒シャツに淡いグレーのジャケット。今日は事件ではなく、単なる休憩のつもりで来たらしい。片手には紙袋を持っている。
「差し入れです」
柊が覗き込む。
「アップルパイ」
「近くで有名な店らしいぞ」
紙袋を開けると、焼き立ての甘い香りが広がった。バターの匂いに混じり、シナモンが少しだけ鼻を掠める。
柊は素直に目を細める。
「美味しそうです」
「珍しく顔に出たな」
二人は温室脇の休憩スペースへ座った。
木製テーブルには、職員が淹れた紅茶。窓の外では風に揺れるビワの葉が陽光を反射している。
「そういえば」
御子柴がアップルパイを切りながら言った。
「林檎の種って毒あるんだろ」
「あります」
「即答か」
「アミグダリンです」
柊は紅茶を口へ運ぶ。
「体内で分解されると青酸系化合物になります」
「怖いことをサラッと言うな」
「でも普通は問題ありません。大量に噛み砕かなければ」
そのときだった。
温室入口のほうで騒ぎ声が上がる。
「先生! 誰か!」
二人が顔を上げる。
若い職員が青ざめた顔で駆け込んできた。
「子供が倒れて……!」
数分後。
果樹エリアには緊張が走っていた。
ベンチへ横たわる少年。十歳くらいだろうか。顔色は悪く、額には脂汗が浮かんでいる。
傍では母親らしい女性が泣きそうな顔で背を擦っていた。
「大丈夫、救急車すぐ来ますから」
滝沢警部補まで来ている。
「またお前らいるのか」
「偶然です」
「最近お前らの“偶然”が怖い」
柊は少年の口元を見た。
微かな苦杏仁臭。
「……種ですね」
「え?」
母親が震える。
「この子、さっきまで果物拾って食べてて……」
地面には砕かれた種が散っていた。
ビワ。
桃。
杏。
そして梅。
御子柴が眉をひそめる。
「全部バラ科か」
「ええ」
柊は静かに頷く。
「未熟種子にはシアン化合物が含まれます」
少年は苦しそうに呻いた。
「気持ち悪い……」
「噛み砕いた?」
柊が優しく訊く。
少年は涙目で頷いた。
「YouTubeで見た……健康にいいって……」
御子柴が顔をしかめる。
「またか」
最近増えていた。
種の粉末を健康食品として扱う怪しい動画。
民間療法。
根拠のない万能説。
柊は砕けたビワ種を拾い上げた。
「……粉末に近い」
滝沢が低く言う。
「わざわざ砕いたのか」
「ミキサー使ったみたいです」
母親が顔を覆う。
「止めたんです……でも、“身体にいい”って……!」
温室の空気が重く沈む。
甘い果実の香りが、逆に息苦しかった。
やがて救急隊が到着し、少年は運ばれていった。
幸い摂取量は少なく、命に別状はないらしい。
だが騒ぎは、それだけでは終わらなかった。
柊は砕けた種をじっと見ている。
「妙ですね」
「何が」
御子柴が訊く。
「この種、乾燥処理されてます」
「は?」
「家庭で適当に砕いた感じじゃない」
柊は種の断面を指先で触れた。
「専門的です」
滝沢が顔をしかめる。
「つまり?」
「誰かが加工した」
その日の夕方。
植物園のカフェテラスには、夕陽が差し込んでいた。
焼き菓子の甘い匂い。珈琲の苦味。静かなジャズ。
その奥で、一人の男が俯いて座っていた。
自然食品販売会社の経営者・羽鳥慎吾。
三十代後半。高そうな麻ジャケットを着ているが、顔色は悪い。
「……健康食品として売るつもりだったんです」
掠れた声だった。
「ビワ種粉末を?」
御子柴が訊く。
「“自然由来だから安全”って宣伝して……」
「危険性は知ってた」
柊が静かに言う。
羽鳥は黙った。
「だから加工処理してた。でも完全じゃなかった」
「少量なら問題ないと思ったんだ……!」
男は震える。
「最近、売上が落ちてて……話題になればって……」
夕陽が硝子窓を赤く染める。
柊は窓際の林檎を見つめていた。
丸く赤い果実。
艶やかな皮。
甘い香り。
「果物は、美しいです」
柊がぽつりと言う。
「だから人間は忘れる」
「何を」
「種の中に毒があることを」
御子柴は珈琲を飲み干した。
「まるで、お前んとこの植物園だな」
「否定できません」
風が吹き、果樹の葉がざわりと揺れる。
果実は甘い。
けれど、その中心には、ときどき死が眠っている。




