表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/14

番外編 種の中の毒

番外編 種の中の毒


 果実の甘い香りほど、人間を油断させるものはない。


 九月の終わりだった。


 ヴィラ・ボタニカの果樹温室には、熟れた果物の匂いが満ちていた。桃の柔らかな甘さ。熟した林檎の青い香り。棚に並んだ杏のジャム瓶からは、砂糖の温かい匂いまで漂っている。


 午後の陽射しは硝子天井を透かし、葉の影を床へ揺らしていた。


「平和だなあ……」


 御子柴馨が呟く。


 黒シャツに淡いグレーのジャケット。今日は事件ではなく、単なる休憩のつもりで来たらしい。片手には紙袋を持っている。


「差し入れです」


 柊が覗き込む。


「アップルパイ」


「近くで有名な店らしいぞ」


 紙袋を開けると、焼き立ての甘い香りが広がった。バターの匂いに混じり、シナモンが少しだけ鼻を掠める。


 柊は素直に目を細める。


「美味しそうです」


「珍しく顔に出たな」


 二人は温室脇の休憩スペースへ座った。


 木製テーブルには、職員が淹れた紅茶。窓の外では風に揺れるビワの葉が陽光を反射している。


「そういえば」


 御子柴がアップルパイを切りながら言った。


「林檎の種って毒あるんだろ」


「あります」


「即答か」


「アミグダリンです」


 柊は紅茶を口へ運ぶ。


「体内で分解されると青酸系化合物になります」


「怖いことをサラッと言うな」


「でも普通は問題ありません。大量に噛み砕かなければ」


 そのときだった。


 温室入口のほうで騒ぎ声が上がる。


「先生! 誰か!」


 二人が顔を上げる。


 若い職員が青ざめた顔で駆け込んできた。


「子供が倒れて……!」


 数分後。


 果樹エリアには緊張が走っていた。


 ベンチへ横たわる少年。十歳くらいだろうか。顔色は悪く、額には脂汗が浮かんでいる。


 傍では母親らしい女性が泣きそうな顔で背を擦っていた。


「大丈夫、救急車すぐ来ますから」


 滝沢警部補まで来ている。


「またお前らいるのか」


「偶然です」


「最近お前らの“偶然”が怖い」


 柊は少年の口元を見た。


 微かな苦杏仁臭。


「……種ですね」


「え?」


 母親が震える。


「この子、さっきまで果物拾って食べてて……」


 地面には砕かれた種が散っていた。


 ビワ。


 桃。


 杏。


 そして梅。


 御子柴が眉をひそめる。


「全部バラ科か」


「ええ」


 柊は静かに頷く。


「未熟種子にはシアン化合物が含まれます」


 少年は苦しそうに呻いた。


「気持ち悪い……」


「噛み砕いた?」


 柊が優しく訊く。


 少年は涙目で頷いた。


「YouTubeで見た……健康にいいって……」


 御子柴が顔をしかめる。


「またか」


 最近増えていた。


 種の粉末を健康食品として扱う怪しい動画。


 民間療法。


 根拠のない万能説。


 柊は砕けたビワ種を拾い上げた。


「……粉末に近い」


 滝沢が低く言う。


「わざわざ砕いたのか」


「ミキサー使ったみたいです」


 母親が顔を覆う。


「止めたんです……でも、“身体にいい”って……!」


 温室の空気が重く沈む。


 甘い果実の香りが、逆に息苦しかった。


 やがて救急隊が到着し、少年は運ばれていった。


 幸い摂取量は少なく、命に別状はないらしい。


 だが騒ぎは、それだけでは終わらなかった。


 柊は砕けた種をじっと見ている。


「妙ですね」


「何が」


 御子柴が訊く。


「この種、乾燥処理されてます」


「は?」


「家庭で適当に砕いた感じじゃない」


 柊は種の断面を指先で触れた。


「専門的です」


 滝沢が顔をしかめる。


「つまり?」


「誰かが加工した」


 その日の夕方。


 植物園のカフェテラスには、夕陽が差し込んでいた。


 焼き菓子の甘い匂い。珈琲の苦味。静かなジャズ。


 その奥で、一人の男が俯いて座っていた。


 自然食品販売会社の経営者・羽鳥慎吾。


 三十代後半。高そうな麻ジャケットを着ているが、顔色は悪い。


「……健康食品として売るつもりだったんです」


 掠れた声だった。


「ビワ種粉末を?」


 御子柴が訊く。


「“自然由来だから安全”って宣伝して……」


「危険性は知ってた」


 柊が静かに言う。


 羽鳥は黙った。


「だから加工処理してた。でも完全じゃなかった」


「少量なら問題ないと思ったんだ……!」


 男は震える。


「最近、売上が落ちてて……話題になればって……」


 夕陽が硝子窓を赤く染める。


 柊は窓際の林檎を見つめていた。


 丸く赤い果実。


 艶やかな皮。


 甘い香り。


「果物は、美しいです」


 柊がぽつりと言う。


「だから人間は忘れる」


「何を」


「種の中に毒があることを」


 御子柴は珈琲を飲み干した。


「まるで、お前んとこの植物園だな」


「否定できません」


 風が吹き、果樹の葉がざわりと揺れる。


 果実は甘い。


 けれど、その中心には、ときどき死が眠っている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ