2 ラシアスとアル・ラーサ
ラシアスは二十二歳。帝国参政官の地位にあった。
ラシアスは貴族ではない。一般民の出身である。
帝国においては一般民の生まれであっても帝国枢要の地位につくことは決して不可能なことではない。
貴族、騎士、一般民という身分は厳に存在するし、生活の場においては上位階級に対して敬意を表しなければならない。
しかし、公務の上で一般民が貴族、騎士の上の地位となる場合はありえたし、公務においては下位の階級の者が上司となった場合は貴族といえどもその命には服さなければならなかった。
むろん、貴族、騎士は幼少時代から教育環境には恵まれていたから、一般民が帝国枢要の地位につくことは並大抵のことではなかったが、可能性はあったのだ。
遺した功績が顕著であれば騎士が貴族に、一般民が騎士身分に叙せられることもありえた(多くはその一代限りの栄誉であったが)
一般民が帝国枢要の地位につくことを志せば、その方法は三つあった。聖職者となるか、軍人となるか、官僚になるかである。
いずれもその最高位、及び最高に近い地位はほぼ貴族によって占められていたが、そのような地位に一般民がつくことは稀ではあっても皆無ではなかった。
逆に貴族も、単に貴族というだけで、帝国職階表に記されるような枢要の地位に就くことができる訳ではない。ある程度の能力を示さなければ、実権を伴わない名誉職につくことができるだけであった。
優秀な頭脳に恵まれていれば、毎年春に行われる高等官任用試験に合格することが出世のためには最も近道であった。
これは一般民のために行われている試験であり、合格者は将来、概ねかなりの地位まで昇進することになる。
従って帝国全土の秀才がこの試験の合格を目指すことになる訳だが、首都ラグーンで行われる最終試験を受験するには、先ず各地方で行われる選抜試験に合格する必要があった。
そして、最終試験の合格者定員は毎年十名と決まっており、極めて狭き門であった。
受験に対しては、年齢は上限は四十歳であったが、下限はなかった。
とはいえ、合格するためには学識だけではなく、人格も問われた。(各地方の試験の中で、その人物全体に対する周囲の評価も合否を決める対象となった)
しかし、十代で合格することは至難の業であった。
過去十代で合格した三名のその後は、ひとりは二十代前半で精神を病み、ひとりは二十歳になる前に自裁し、そしてもうひとりは長命ではあったが、年齢を重ねるにつれかつての神童ぶりはいずこへいってしまったのか、特に際だった功績を遺すこともなく、高等官任用試験の合格者としては生涯、平凡な地位にとどまった。
このような過去の経緯により、以後は十代のうちには合格はさせない、という不文律ができていた。
であるにもかかわらず、ラシアスはこの高等官任用試験に十七歳で合格した。
それはこの制度が、ほぼ現在の形に整えられた百三十年あまり前からの記録によれば史上最年少の若さであった。
合格の際は帝国において大きな話題となった。それから五年、際だった功績をあげるということはなかったが、これは帝国の政情が安定しておりそのような大きな功績をあげること自体が不可能であることによるものであり、十七歳の合格者として周囲から寄せられる厳しい目にも、決して恥ずかしくはない能力を示し続けた。
ラシアスは通常三十歳未満では任じられることはない帝国参政官に二十歳にして任じられた。このことによりラシアスの名前は帝国職階表に記されることとなった。
ラシアスが十七歳で高等官任用試験に合格して大きな話題になった翌年、帝国に英雄が誕生した。毎年夏に行われる帝国騎士剣技会において十七歳の若者が優勝したのだ。
優勝者の名前はアル・ラーサ。
帝国騎士剣技会の歴史は古い。伝説的なものを含めれば六百年以上前から開始されていたことは間違いない。
三百五十年前からは優勝者の名前もきちんと記録に残っている。
記録に残っている限りにおいてアル・ラーサは史上最年少の優勝者であった。
なしとげた事柄により、アル・ラーサのことが帝国の民の話題となる量は、前年のラシアスとは比較の対象にはならなかった。
帝国全土がこの英雄の誕生に沸き立った。
実際の戦争が行われなくなって長い時間が経過した帝国においては帝国騎士剣技会の優勝者こそが最大の英雄であったわけであり、その剣技会に十七歳の若者が優勝したとなれば、人々が熱狂するのも無理はなかったのである。
今に至るまで、アル・ラーサは帝国剣技会に勝ち続けている。優勝者に与えられる杯を、アル・ラーサは既に四個保持していた。
騎士階級の出身であるアル・ラーサは昨年、少将に叙された。帝国において最年少の将官である。
過去においてはさらに若い将官も存在したが、全て皇族あるいは貴族の名誉的称号であった。
騎士階級の出身者としては、アル・ラーサは史上でも最年少であった。
剣技において優れていたからといってそれだけで将官になれる訳ではない。
アル・ラーサは軍略においても多大な才能を示したのであった。
少将に叙されると同時にアル・ラーサは近衛師団第一連隊長を拝命した。
ラシアスとアル・ラーサは、アル・ラーサが最初に剣技会で優勝した二ヶ月後に初めて相知った。
話題の二人を招待するという主旨で開かれた、帝国の政務上の最高職である執政オビディウス・ローザン公爵主催のパーティーの席上であった。
事の大小はともあれ、ともに帝国において大きな話題になったという共通点をもつことによったのか、ふたりは意気投合した。
その後も親交を深め、今では肝胆相照らす仲となっていた。
帝国首都ラグーンの中心を占めるのは広大な皇宮である。
その皇宮の外縁部に元老院、参政院、各省庁など、帝国の政治的建造物がたちならぶ。
その中には軍務省、帝国首都に駐屯する第一師団もあった。
近衛師団は皇宮内に置かれていた。
政治的建造物がたちならぶ地域からほど近い場所に帝国高官の官舎があった。
官舎といってもひとつひとつゆったりとした敷地をもち、建物もやはり広く堅牢であった。
ラシアスとアル・ラーサの官舎は隣り合っていた。
ともに独身であったから、従者も同じ建物内に居住していたとはいえ、建物の広さをいささか持て余していた。
ふたりは公務の合間をぬっては、お互いの官舎を訪問しあい、談論することがしばしばであった。
話題は概ね、帝国の現状、将来の展望に関することであった。
今日はラシアスがアル・ラーサの官舎を訪れていた。いつものようにアル・ラーサの書斎に入った。
アル・ラーサの執事ロイが飲み物をもってきた。
二人とも酒は嗜まない。
アル・ラーサは東方茶を、ラシアスはコーヒーを好む。
ロイは慣れた手つきでソファに座して向かい合う二人の間の応接机にそれぞれが好む飲み物を置いた。
ラシアスは早々にカップを取り上げ、口をつけた。
「うーん、今日のコーヒーも最高だね。さすがにホラビア地方の豆は違う。ありがとうロイ」
「いえ、本日はブラール産の豆でございます」
「あ、そう」
ロイは恭しく礼をすると書斎を出ていった。
ロイは思う。
ラシアス様は一般民の出身であるとはいえ、ラーサ様のご友人として申し分のないお方だが、ものの味がお判りにならないのが欠点だ。それでいてああやってすぐに当てようとする。当たった試しがないのだからおやめになればいいのに。
「陛下はいよいよイリューシュト殿下を立太子なされるご決意を固められたようだ。
昨日、近衛師団長から内密にということで俺に話があった。近衛師団としては不測の事態も想定して備えておく必要があるからな。むろんお前以外にこのことを誰にも言うつもりはない。言うまでもないが他言無用だ」
アル・ラーサが話の口火を切った。
「そうか」
「これでいよいよ皇統に東方民族の血がはいることになる」
「そうと決まった訳でもあるまい。一旦皇太子となられた皇子がその後取り消され、別の皇子が皇太子となられたことは帝国の歴史において皆無ではない」
「では、いったいどの方が皇太子になられるというのだ。陛下には、お子はイリューシュト皇子しかいない。」
「それはそうだが」
「あれほどにお美しい皇后陛下がおられながら、なぜ、あの東方民族の女性を愛されるのか俺にはわからん。もっとも近年の皇后陛下の行状を見れば、おそれながら元々皇后としてふさわしい方ではなかったようだが」
帝国臣民としては珍しく、アル・ラーサは夫も妻も配偶者に対して貞淑であるべき、
さらに言えば、性的交渉は男女とも生涯たったひとりの相手ともつべきであるという信条の持ち主であった。
ラシアスは常々
「それではお前は誰とも結婚できないぞ」
とアル・ラーサをからかっている。
「一五歳を過ぎて男を知らない娘を見つけるのは、砂の中から砂金を見つけるようなもの」
これが人口に膾炙した帝国における俚諺であった。
だからラシアスはアル・ラーサに対して
「どこかの見目麗しい幼女をさらってきて妻とするべく養育してみるか」
などときわどい冗談も飛ばしていた。
が、残念ながらアル・ラーサには幼女を愛する趣味はなかった。
したがって、
「誰とも結婚できないぞ」
というラシアスの言葉はアル・ラーサがおのれの信条を変えない限り、けっして冗談、といってすませられる言葉ではなかったのだ。
アル・ラーサは今も帝国における最大の英雄である。
最初に優勝してから一、二年の間は若い娘からのファンレター、さらにファンレターの域を超えた求愛の手紙はひきもきらなかった。
だが、その手紙は、当時アル・ラーサはまだ両親の家に住んでいたが、その家で飼っていた山羊の餌になるだけであった。
やがてアル・ラーサの信条が世間に知れ渡ると若い娘からの手紙はほとんど来なくなった。
仮にまだ男性経験がなく、アル・ラーサの妻となる資格のある娘がいたとしても、相手がいかに帝国最大の英雄であっても、将来、当然愉しんでしかるべき多くの男性との恋愛ができない、となれば人生を愉しむことに貪欲な帝国の民として生を受けた女性にとってはその損得勘定は明らかであった。
「最近は男からしかファンレターは来なくなったな。たまに女性名前の手紙がきたと思ったら、みんな十歳以下だ」
約二年前からアル・ラーサはこう言ってラシアスによくこぼした。
しかしその顔は決して悪びれたものではなかった。
自分に、若い娘から手紙が来なくなった(幼い娘は除く)ということが判ってからは、アル・ラーサは来た手紙にはすべて目を通し、返事を出した(もっとも返事はロイの代筆であった)。
アル・ラーサの信条は、風変わりなものではあっても、人々から悪意をもたれるようなものではない。帝国の民にとって、アル・ラーサはやはり愛すべき英雄であった。
人々は彼のことをこう呼んだ。
童貞将軍と。
「俺の前で皇后陛下の悪口を言うのはやめてくれ」
「おっと、またやってしまったか。すまんすまん」
「俺はな、十二歳の時に初めて皇后陛下を拝見した時から、いつかこの方に間近にお会いしたいと志をたてたのだ。その一念で死ぬほど勉強したよ。おかげで十七歳で任用試験に受かっちまった」
ラシアスが初めてルーセイラを見たのはラシアスが育った町で行われた神殿の修復完成式に皇太子ナル・アレフローザとともに出席した時であった。
その時ルーセイラは結婚した翌年、芳紀まさに十九歳であった。
「その話を聴くのは二十七回目だ」
「近い内に二十八回目を聴かせてやるよ。今でもいいぞ」
「このまま、あっさりとイリューシュト殿下の立太子が受け入れられるとも思えないのだ」
「お前はさっき、イリューシュト殿下以外に陛下にお子さまはおられないと言ったと思うがな。だがかくも長期にわたって皇太子が決定しない、ということも異例なことだぞ。陛下におひとりも皇子がおられなければ、必然的にニコラス大公殿下が次の皇帝ということになられるが、まがりなりにもイリューシュト殿下という方がおられる以上、万一の皇帝陛下ご不予の際に備えて、次期皇帝となるべき方を確定しておくのが帝国の慣例のはずだが」
「そのニコラス殿下を皇太弟として擁立しようとする動きがある」
「そうかやはりニコラス殿下か」
「そう、ここ七代帝位は父子継承が続いてきたが、さっきお前が言ったように皇帝が皇子がないままになくなられた場合、その弟君が帝位を継がれることは、かつてはままあったことだ。東方民族の血をひく皇子が皇帝となられることに比べればむしろその方が自然だろう。ニコラス殿下は陛下と同腹のお方だから、お母君の身分にも何ら問題はない」
「だれが中心となって擁立されようとしているんだ」
「オビディウス・ローザン公爵だ」
「オビディウス公か」
オビディウス・ローザン。
ラシアスとアル・ラーサが出会うきっかけを作った人物である。今もそのまま執政の座にある。
「となれば、それは容易ならざることだぞ。アル・ラーサ」
「うむ、オビディウス公が決心されたとなれば、むろんローザン一族はあげてオビディウス公を支持するだろう。その他勢力をもつ貴族、元老院、各省大臣、お前が所属する参政院、また聖職者、はたまた軍にもその支持の輪を広げようとするだろう。いや、あのオビディウス公のことだ。すでに相当に広げていると見るべきだろう」
「では内乱が起こる可能性もあるわけか」
「今の帝国には問題を武力で解決するという風潮はないからな。それは近代以前の考え方だ。だから、おそらくは平和的に妥協点を捜すことになるだろう。が、もし、陛下もオビディウス公も主張を変えないということになれば、武力が用いられることもありえるだろう」
「もし、そのようなことになれば、アル・ラーサ、お前はどうする」
「俺は近衛師団第一連隊長だ。陛下に忠誠を誓っている。迷うことはない」
ラシアスは本音を言えば、陛下に折れていただきたかった。イリューシュト殿下が皇太子となれば、それではあまりにも皇后陛下がお可哀想だ。
アル・ラーサには冗談めかして言っているがラシアスのルーセイラに対する思慕の念は純粋なものだった。
ラシアスはルーセイラの幸福を願っていた。
ただ、だからといってラシアスが女性に無縁である、という訳ではない。ルーセイラへの思いがあるだけに、誰か特定の女性にのめりこむことはなかったが、彼は、男女の仲に関する帝国の自由な気風を存分に満喫していた。
彼は、これ、と思った女性とは全て思いを遂げていた。
「なぜ、いつもそんなにうまくいくのだ」
ある人にそう問われた彼はこう答えた。
「簡単なことだ。相手が一番言って欲しい言葉が何かをつかんで、その言葉を繰り返せばよい」
だが、その彼も最も愛するルーセイラに対しては慎重だった。
あと、一年か二年のうちに。ラシアスはルーセイラと愛を交わそうと考えていた。
先ずは劇的な出会いを演出せねば、と思い、その機会を窺っていた。
オビディウス公がニコラス殿下の擁立を決めたのも、一族の娘ルーセイラが皇帝にないがしろにされたということも大きな要因になっているのであろう。
ニコラス大公は二十七歳。
四年前に結婚して、既に公子、公女、のニ子をもうけている。
大公妃マリカは美人とはいえない。
が、オビディウス・ローザンその人の娘であった。ルーセイラには又従妹にあたる。
「そうか、約一世紀ぶりにこの帝国に内乱が発生する可能性があるわけか」
「うむ、公人としては内乱が起こらないことを祈らねばならないが、私人としては、起きて欲しいと思わぬでもない。俺も帝国発展期の名だたる将軍たちのように戦ってみたい。これまで培ってきた軍略を実際の戦場で試したいと思う」
「そのようなことを軽々しく口に出すな。帝国軍人の役割はあくまでも戦いを未然に防ぐことであって、戦いを起こすことではない」
「むろん、判っている。お前以外に、俺の密かな望みを口に出したりはしない。いずれにしろ、今の俺にはまだ、事態を主導的に動かしていくような力はない。状勢の推移を見守るしかない。」
「うむ。それは俺も同じだ」
しばらく話はとぎれた。
ラシアスはロイがおいていったポットから、二杯目のコーヒーをカップに注いだ。




