1 帝国
帝国 ラグーンは平和を謳歌していた。
都市国家として誕生して以来、八百年の歴史を誇るラグーンにあって草原地帯を除いた全世界がその版図となったのは約三百年前。
その時点で対外戦争が行われることは無くなったわけだが、帝位をめぐる争い、あるいは内乱の類はその後もしばしば発生した。
が、近年は百年近くにわたり大きな争いは起こらなかった。
現在、ラグーンは第七十二代皇帝ナル・アレフローザが統治していた。
八年前に即位したナル・アレフローザは現在三十歳。
容姿端麗、性格も温厚であり政務においては賢帝との評価も高かった。
帝国には何の憂いも存在していないかのようであった。
しかし、何の憂いもない世界などはない。 皇帝アレフローザにも、その内面に憂いは存在した。
ひとつは執政オビディウスを当主とするローザン一族の存在である。
ローザン一族。帝国の要職はほぼこの一族により占められていた。
またここ数代の皇后は全てこの一族の出身者であった。
千年近くにわたり続く皇帝の血脈。ラグーンの草創期において何度か父系直系の血が絶えたことはあったが、いずれにしても皇統は連綿と続き、ラグーン統合の中心としての地位がゆらぐことはない。
いかに内乱がおきようとも、この皇帝の血脈に縁のない者が帝位を簒奪したことはなかった。帝国の民にとって望みうる最高の地位は俗人としてはあくまでも臣下としての地位であった。
ゆえにナル・アレフローザにとって、その帝位が侵される心配は微塵もない。ローザン一族もふくめて、臣下はアレフローザに対して最高の礼を尽くす。
が、帝国の実際的権力はローザン一族が保持していたのである。
もうひとつは、皇后ルーセイラのことである。二人はナル・アレフローザが十九歳、ルーセイラが十八歳の時に夫婦となった。
アレフローザはこの時、皇太子であった。
ルーセイラは、極めて美しい容姿を持っており、ふたりの結婚の際は、帝国は官民をあげて熱狂した。
結婚して十一年が経過し、その間ふたりは、皇帝、皇后となったが、アレフローザ、ルーセイラ。この夫妻は不仲であり、普段、会話を交わすこともほとんど無い。
歳月が重ねられていく中、ルーセイラも二十九歳となった。
その美しさは、今や絶頂と言うべき時期を迎えていた。
しかし、アレフローザとの仲はそのままであった。
シュアンは皇帝アレフローザの子を産んだ唯一の女性であり、今に至るも唯一の寵姫であった。
現在の帝国が抱える最大の問題は後継者に関することであった。既に六歳となったイリューシュトであったが、皇子ではあっても皇太子とはなっていない。
将来の皇帝としてみるには母親の出自が問題であった。
ラグーンの歴史において、かくも低い身分の女性を母親とした皇帝は皆無であったし、さらに、ラグーン本来の民族とはあきらかに異なる東方の民族の女性を母とした皇帝は存在しなかった。
それは最も尊い皇帝の血脈に他の民族の血が混じることであり、皇帝と同じ民族であるとの誇りをもつ原ラグーン民族にとって到底受け入れられることではなかった。
美しき皇后ルーセイラとの間に皇子が誕生することが臣下あげての願いであったが、それがかなわなければ、せめて帝国の貴族階級の娘を妾として子をなすべく何度か皇帝に対して諫言がなされた。しかし、皇帝は肯んじなかった。
一億八千万人といわれる帝国の全人口の中で、貴族及び高位聖職者階級の占める割合は0.5パーセントにすぎない。
その下に騎士階級(かつてはその言葉通り帝国の軍事をになう人々であった。今も伝統的に軍人を職業として選択することが多いが、そう決められている訳ではない。今では貴族と、一般民の間に位置する階級としての意味をもつ)が二~三パーセント存在する。 八割近くは一般民であり、その下に奴隷階級が約二割存在する。




