12 史上最も愚劣な皇帝
ラシアスとアル・ラーサが、皇帝に面談した翌日、ふたりは皇帝よりの使者を受け、皇宮に呼び出された。
ラシアスには特に
「ルーレアートから送られて来た書状を全て持参するように」
との命があった。
二人は、昨日とは違って、皇宮内で、もっと奥まった居室に招じられた。そこには皇帝ともうひとり、帝国で最も美しい女性が二人を待っていた。
「ラシアス、アル・ラーサ。紹介しよう。ルーセイラだ」
「はじめまして。ルーセイラです」
「は」
ラシアスは一声発したきり何も話さない。
ただ、ルーセイラを見つめるだけだった。
その視線の激しさにルーセイラは思わず目を伏せた。
やむをえず、アル・ラーサが答えた。
「皇后陛下のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます」
「はい、あのラシアス」
ルーセイラがラシアスに声をかけた。
「あなたのことは昨日、陛下から聴きました。ひとこと御礼を申し上げたく、本日は陛下にお願いしてこの場に参りました」
「皇后陛下、私は陛下にお逢いするのは初めてではありません」
ルーセイラが怪訝な顔をしてラシアスのほうを見る。
「十年前、ナルオでの神殿修復式の際、当地の学生を代表して陛下に花束を差し上げました」
「そう、そうだったのですか。十年前といえば私が陛下の元に嫁いだ翌年のことですね」
「さようです。陛下、その日私が心に誓ったことを今、この場で申し上げます」
「……」
「私の全てを捧げて皇后陛下に忠誠を誓います」
「私にですか。皇帝陛下ではなく」
「さようです」
ルーセイラは皇帝のほうを見た。
ナル・アレフローザが静かに頷いた。
「判りました。あなたの忠誠をこの身に受けましょう。光栄に存じます」
「は」
ラシアスはルーセイラの元におもむき、その右手をとり、甲に恭しくキスをした。
自分の最も愛する人への生涯最初の、そしておそらくは最後のキスだった。
ルーセイラは退室した。
「ラシアス」
「は」
「そうか、そういうことだったのか」
「そういうことです」
「そういえば、そなた昨日、こう言ったのであったな。此の世に男として生まれてルーセイラを愛さないはずがないとな。予はまだまだ、想像力が不足しておるな」
「どうか、失礼をお許し下さい」
「良いさ。しかしそういうことなら昨日、そなたが予に教えてくれたことはそなたにとって大変な犠牲を要することであったのだな」
皇帝ナル・アレフローザは居住まいを正した。
「ラシアス。あらためて礼を言うぞ。」
「は」
「だが、恋の競争相手として考えるには、あまりにも元々の条件がそなたに不利であるな。どうだ。時々はルーセイラと二人であっても良いぞ。それがそなたに対する最大の礼になるようだしな」
「いえ、陛下。今、皇后陛下の頭の中には陛下のことしかありません。もっとも、陛下に初めて逢われたときからずっとそうでいらっしゃったのでしょうが。私は先程、私の十年分の想いの全てをこめて皇后陛下を拝見し、その御手にキスさせていただきました。
私にとって人生最高の瞬間でした。もう御礼は充分にいただきました」
「そうか」
皇帝は自分と同じ女性を愛する男を限りないいたわりの表情で見やった。そして、少しのあいだ瞑目してその想いを振り払った。
皇帝が居室に侍従を呼んだ。
「用意のものをこれへ」
侍従が華麗な装飾を施した盆の上に二本の巻物を載せて皇帝に捧げた。
皇帝が立ち上がってそのうちのひとつを受け取り、開いた。
「ラシアス」
「は」
「そなたを帝国宰相に任ずる」
「は」
もうひとつの巻物を受け取り開いた。
「アル・ラーサ」
「は」
「そなたを帝国元帥に任ずる」
「は」
「帝国元帥は軍令において全権を持つ。軍政を含めその余のことは帝国宰相が全権を持つ。
この任命については、おって帝国全土に勅令を発する。以上」
皇帝が着座した。
ラシアスとアル・ラーサにも着座を促した。
「ラシアスよ」
「はい」
「帝国最高の実権と申していたな。これでよいか」
「はい、身に余る光栄です。非常の職であり、過去において、皇族、あるいはごく一部は貴族しか任じられたことのない帝国宰相に任じていただき、ご信任の大きさに身が引き締まります」
「ずいぶんと殊勝な物言いだな。では訊くが、帝国宰相というのは、今そなたが言ったようにそなたの身に余る職なのか」
「いいえ」
ラシアスは首を振った。
「今申し上げたのは単なる儀礼上の修辞です。古今東西、あらゆる人々の中で、帝国宰相に最もふさわしいのはこの私でしょう」
「そのことば、素直に聴くことにしよう。ではラシアス、アル・ラーサ。実際の政務、及び軍務について話そうか。頼んでおいたものは持参したろうな」
「はい、これに」
ラシアスはルーレアートからの書状を全て皇帝に差し出した。
皇帝は読み進めた。 ルーレアートからの現時点での最後の手紙もラシアスは躊躇無く差し出していた。
その手紙には陛下に対して不敬の言辞が含まれているのにな。
アル・ラーサはそう思ったが、止めはしなかった。
アレフローザは全て読み終えた。
「予はエルラス汗が対等の相手と考えるには不足という事か。無理もない」
「自分の欲望に素直でない人間は大事をなすことはできぬか。成る程、成る程。いちいち頷けるぞ」
愉しそうな表情で皇帝はラシアスに書状を返した。
「ラシアス。アル・ラーサ。見込まれておるな」
「汗顔の至りです」
「心にもないことを言うな。さて無視された皇帝としてはここでひとつ何かそれなりのことばを発しなければならぬな」
「そのとおりです。陛下」
「何かひとことで言えれば気持ちがいいのだろうが、想いつかぬ」
「そうですか」
「しばらくしゃべるぞ」
「は」
「そなたたちが帝国の危機を言い立てたのも今は理解した。エルラス汗はたしかにすごい男だな。しかし自分の栄光のことしか考えておらぬ。たしかに天才には天才の論理があろう。だが、一億八千万人の帝国臣民の頂点に立つ皇帝としてはその人々の全ての幸福を考えねばならぬ。皇帝には皇帝としての義務と責任がある。これがエルラス汗に対して予の拠って立つべき大義名分だ。正義は帝国の上にあり。これでどうかな」
「お見事です。そのお考えをお持ちになれば、エルラス汗に対して何ら臆することはありません」
「そう、たとえ本心はどうあれ、戦いには大義名分が必要だ」
ラシアスは皇帝の次のことばを待った。
「たとえ、予の本心がルーレアート及びそなたたちと同じであったとしてもな」
「ところでラシアス。相談したいことがある。別室に来てくれ」
「は」
「シュアンとイリューシュトのことだ」
「畏まりました」
「アル・ラーサも来てくれるか」
「は」
「なあアル・ラーサ、お前も少しは喋れ」
「生来の口下手、申し訳ございません」
「いや、詫びることはない。無言で屹立するそなたの姿。見応えがあるぞ。たがたまにはそなたの声も聴きたいものだ」
ルーセイラ陛下と仲睦まじくなられ、シュアン様をそのまま寵姫として遇する。
本来であれば、それで問題はない。が、陛下は常にひとりの女性しか愛することができない方なのだ。この帝国を統べる皇帝陛下が、そういう方とはな。
ラシアスは、苦笑した。今、この部屋にいる三人の男の中でまともなのは俺だけではないか。
さっきの陛下のお言葉もある。陛下とアル・ラーサは、結構うまがあいそうだ。
ラシアスは、ナル・アレフローザに報告した。
シュアン様の前夫、スオウは商いで大きな成功を収め、今、アイランでも有数の財を成していること。
ルーラの十大弟子のひとりとなっており、ルーラ教の財政を支えていること。
ルーラも、今はスオウが用意した会堂に居住し、そこを拠点に、その教えを説いていること。
必然的に、アイランは、今、ルーラ教徒の割合が最も高い地方となっており、住民の六割が教徒となっていること。
さらにラシアスは、数人の監視官の派遣により、調べあげたルーラ教の教義について説明した。
崇拝する対象を持たないので、宗教教団とは言えない、むしろ、人としての生き方を説いたものであること。
初期は反国教的言辞もあったが、今は既成宗教に対して宥和的な姿勢で臨み、むしろ超越的な世界を人間に理解できる言葉で語るための教えであると、敬する姿勢に転じていること。
他の宗教、思想に対する批判の姿勢はないこと。
ラシアスは、三人での会議の最初にひとつの提案をした。その提案は帝国の根幹を揺るがすものであり、ナル・アレフローザとアル・ラーサは、驚愕した。
その提案の説明として、以上の報告がなされたのであった。
ラシアスの提案は、アイラン地方を帝国内における独立の国家とし、その統治をルーラと彼を支えるものに委ねるというものであった。
さらにラシアスは、今、アルトハープ地方において信奉者が激増しているアインセーラについても、いずれその地を独立の国家として統治を委ねたい、と言った。
何故か、ナル・ アレフローザは理由を問うた。
ラシアスは、先日、アル・ラーサに語った、歴史家ツインビーの「歴史における法則」のその要旨を述べた。
皇帝は、熱心に耳を傾けた。
「過去の歴史において、内的プロレタリアートが、世界帝国において発生し、広がるとき、そこには、弾圧、犠牲といった流血を伴う出来事が不可避でした。
我らは、ルーラとアインセーラに、こう突きつけるのです。
その教えが真に優れているというのなら、多くの民びとを幸福にするというのなら、その教えで国を治めてみよと。もし、その教えによる統治が、今の帝国よりも、民びとを幸せにするのであれば、帝国はやがてルーラの教えを奉じる国に、あるいは、アインセーラの教えを奉じる国となるでしょう。
私は、帝国の根幹をなす思想。彼らの教えの根幹をなす思想を、あらゆる角度から、過去の歴史が生んだ、宗教、哲学、歴史の古典となったひとの世が生んだ最もすぐれた書物に説かれていることと合わせて、考察いたしました。
何れの思想にも、異なる思想に対する攻撃、批判、排除の要素はありません。仮に帝国がとって代わられたとしても、そこに流血の事態はありません。」
「では、彼らの統治を受ける、新たな国を構成する民びとが、帝国における民びとよりも幸せではないと判断したら」
「再び、帝国がその地を治めます。彼らは民びとを幸福にすることができなかったのですから。陛下、これから帝国は、小なりと言えども、ふたつのライバルを持つことになります。どちらの政治がひとびとをより幸福にできるか、その戦いです」
「ラシアスよ。そなた、とんでもないことを考えたものだな。帝国が草原を除く世界を統一して三百年。その領土を割譲した皇帝はいない。
予はラグーンの歴史上、最も愚劣な皇帝、後世、そう呼ばれることになるかもしれんな」
「おいや、ですか」
「いや、面白い、面白いぞラシアス。
予は、史上最も愚劣な皇帝となろうではないか」
この方は変わった。
以前であれば、今の提案、一笑に伏されたろう。とても受けることのできる提案ではない。
が、ルーセイラ陛下に愛されていると分かったことがこの方を変えた。この方はとても大きくなられた。アル・ラーサと、この私を包み込むほどに。
「アル・ラーサ。そなた、また何も喋らなかったな」
皇帝のアル・ラーサに向ける笑顔を見て、ラシアスは、陛下はアル・ラーサがお好きなのだな、と思った。
女性に対する、よく似た価値観をもっているからかもしれない。
そして、陛下は、
ラシアスは思う。
私のことも愛してくださっている。
十二歳から十年間。恋い焦がれたルーセイラ様が愛した男。
皇帝、ナル・アレフローザ。
忠誠はルーセイラ様に誓った。
もう言葉として発することはできない。
ラシアスは、心に誓った。
陛下、ラシアスは、生涯、あなた様にお仕えいたします。この身の全てをあげて。
ラシアスの提案は、アレフローザとアル・ラーサの同意を得た。
が、その提案は、ルーラとスオウがいかなる人物であるか、実際に謁見してのち、その実行の可否を決める。これが会議の結論となった。
その夜、ナル・アレフローザは、シュアンのもとに赴いた。
前夜、陛下と皇后がともにやすまれたというのは、その日、皇宮内に知れわたっており、シュアンの耳にも、既に入っていた。
アレフローザがシュアンを見た。アレフローザはシュアンを見つめたあと、黙したまま、深く頭を下げた。
「陛下、良かったですね」
これが、シュアンが最初に発した言葉だった。
「私は、スオウとメイリンのもとに戻りたく存じます」
「分かった。それが本当であったのであろう。四年前、そなたは、スオウではなく、予を選んでくれた。だが、それは、あのとき、まだ二歳にしかならないイリューシュトをいとおしんでのことだということは分かっていた。だが、あの時の予には、そなたしかいなかった。イリューシュトにすがってでも、そなたにわがもとにいてほしかった」
ナル・アレフローザはシュアンを見つめた。七年間をともに過ごしたのだな、シュアン。
「シュアン、予は、スオウに激しく、嫉妬しておるぞ」
「はい、私は、皇后陛下に激しく、嫉妬しております」
もう一度、ふたりは見つめあった。
「陛下、用意ができ次第、早々にアイランに発ちます」
「いや、それには及ばぬ。先ほど使いを発した。スオウをこちらに呼び寄せる。むろんそなたの娘も一緒にな。
ふたりにこの都を見物させ、都から三人で一緒にアイランに向かうがよい。それに、予もスオウがどういう男か見てみたいのだ」
それは、シュアンの夫だからというだけの理由ではない。だが、それはまだ言えない
「陛下、ありがとうございます」
三人で一緒にアイランに向かう。八年ぶりに家族がもとに戻る。だが三人、そう三人なのだ。
「陛下、イリューシュトのこと、あの子はまだ六歳です。どうか、どうかよろしくお願いいたします」
「分かった。安心してくれ」
アイランに向かうのは、三人ではないかもしれない。
だが、それもまだ言えなかった。
二ヶ月後、スオウと、その師、教主ルーラが、都に到着。
ナル・アレフローザ、ラシアスと面談した。
この者たちであれば、託するにたる。
それがふたりのだした結論だった。
ラシアスがその構想を説明したとき、ルーラはむろん自信がないと断りはしなかった。
そして、大袈裟な感激の意を示すこともなく、淡々ともいいえるような態度で、その構想を受け入れた。
ルーラはラシアスの意図、どちらの統治が人びとをより幸せにするかの闘いが始まるということを精確に理解した。
そしてラシアスは、近く草原との闘いが行われるので、アイラン独立国の発足は、その闘いが終わったあととするとの希望を述べ、ルーラはこれを了解した。
さらに、両者はどちらが言い出すということもなく、独立国発足後の住民の相互国家間の移動の自由、どちらの国民となるかの選択の自由も合わせて合意した。
こうして、アイランはルーラ教が中心となって治める国となることが決まった。
ルーラは、その場で独立国発足後の政務の最高責任者として、スオウを任じた。
ナル・アレフローザは、スオウに依頼した。
イリューシュトが成人するまで、養父となってイリューシュトを育ててほしいと。
スオウは喜びと感謝とともに、この依頼に応じた。
ルーラ教の姫君メイリンと、皇子イリューシュトの異父姉弟は、一緒に暮らす家族となった。
ナル・アレフローザは、スオウとシュアンに告げた。
イリューシュトが成年となった際は、やがて産まれるであろう皇太子の兄として、弟を助ける道をいくか、アイランに留まるか、あるいは別の人生を選ぶか、自分で選ばせてやってくれ、と。
アイランへの帰途、メイリンは、ルーラに「お手ほどき」のお相手をお願いいたしたく、と便りした。
ルーラからの返信は
「喜んでお受けいたします」
というものだった。




