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agitato

 イスナに、唇を奪われている。

 ぼんやりとした意識で、そう思った。

 青い空を取り込んだような深いサファイアの瞳が、目の前にある。


「…………?」

 

 彼のひんやりと舌が、咥内に入ってくる。あ、これ、魔力、奪われてる。彼は、魔法の知識なんてないはずなのに。彼に深く求められて、わたしは彼に、魔力を奪われていた。


 ––––あなたは、あなたのことだけを考えて。


 ふと、頭に浮かんだ言葉。切り抜けなきゃ。なにを利用してでも。

 生前のイスナは、剣術が得意だったと言っていた。それなら、彼の剣を、わたしが作ればいい。

 イメージして。剣––––––……戦いとは無縁な世界で育った子爵令嬢だから、剣なんて、見たこともない。それなら、転生前は?


 彼に奪われているのは、わたしが隠蔽している闇属性の魔力だった。表面には見えない、わたしの裏側から、膨大な闇属性の魔力が流れていく。今なら、できるかもしれない。


 詠唱もせずに、わたしは闇魔法を具現化する。剣なんて、わたしにはわからない。咄嗟にイメージしたのは、わたしにとって、もっと馴染みのある形。


 爆発音がして、イスナの背後にある土の壁が砕け散った。広がる青空。イスナの瞳と同じ、あたたかい青。空から差し込む太陽の光を、眩い金色の髪が照らし返している。


『任せて。サクリは僕が斬り殺してあげる』


 金髪碧眼の王子様は、誰もが見惚れてしまうようなとびきりの笑顔で、最高に物騒な言葉を放った。



 爆発に巻き込まれないように少し距離をとっていたサクリに向かって、降り注ぐ土片の中を駆け抜けていく。その右手には、わたしの魔力を具現化した見えない武器を握って。

 わたしの体に溜め込まれた闇属性の魔力がイスナに流れ込むときに、わたしの体を魔力が循環したからか、少しだけ、わたしにかけられたサクリの闇魔法が緩和されている気がする。必死に瞼を持ち上げて、彼の後ろ姿を目で追う。


『死になよサクリ!!』


 笑いながら、イスナは勢いをつけてサクリに斬りかかった。

「––––––っ!?」

 なんとそれを、サクリはすんでのところで身を翻してかわして見せた。避けきれなかった切先が、彼の頬を切り裂いて、一筋の血が流れる。

「これは……剣?」

 サクリは目を見開く。彼の笑顔以外の表情を初めて見た。––––––あきらかに、驚いた表情を浮かべている。

『避けた!! サクリには見えてないはずでしょ!? マジでなんなの腹立つ!!!!』

 叫びながら体の向きを変え、イスナがもう一度斬りかかる。

 水魔法を短く詠唱し、サクリは氷の壁でその斬撃を防いだ。

「さっきとは別のなにか……見えない剣を持った『誰か』かな? 殺気がダダ漏れだよ。それと、僅かな闇属性の魔力の気配……君は、本当に面白いね」

 頬に流れた血を拭って、サクリはまた笑った。ぞっとするほど美しい笑顔。見開かれたアイスブルーの瞳に、初めて温度を見た。

 力の入らない腕で無理やり杖を振って、火属性の魔法を詠唱する。溶けかけた氷をイスナが武器で打ち壊す。もう一度、サクリに斬り込む。

 サクリは気配を察して避けようとするけれど、避けきれなかった斬撃が、今度は彼の服を切り裂いた。

『っ…………!! 8年前なら、接近戦でサクリが僕にかなうはずないのに!!』

 悔しそうに唇を噛むイスナ。サクリは目を見開いて、切り裂かれた服の袖を見つめる。

「…………」

 サクリの顔から表情が消えた。気にせず、イスナがまた斬りかかる。

 サクリは気配だけをたどり咄嗟にかわすが、またも避けきれず、切先は彼の腕を掠めた。再び服が切り裂かれ、血が滲む。

「はっ……」

 サクリは、大きく息を吸い込むと

「はは、はははははははははは!!」

 次の瞬間、声をあげて笑った。

『な、なに!?』

 驚いたイスナが動きを止める。

 大声で笑い始めたサクリに、観戦していた周りの人間もざわついている。

「忘れるはずがないよね。その太刀筋。あぁ、本当に––––––本当に君は面白いね。最高だ」

 心の底から面白いといったように彼は笑って、目元に滲んだ涙を指で拭う。

「光の魔導士の亡霊と、第一王子の亡霊を君は引き連れているわけだ!? はははは、本当に、また彼に『会える』なんて、思ってもみなかった」

「なにを言って……!」

 ひとしきり笑って、サクリはもう一度深く息を吸う。じとりと、温度のある瞳がわたしを見た。

「あのとき、イスナを殺しておいて本当によかった」

『っ……!!!!!!』

 怒りに身を任せ、イスナが武器を振り上げる。

「だからさ、殺気がダダ漏れなんだよ。イスナ」

 今度こそ綺麗に攻撃をかわし、サクリは楽しそうに言った。

『うるさいな。死ねよサクリ』

 聞いたこともないような低い声でイスナが呟いた。

 


「いいよ。終わろうか。君を殺すのはもったいない」

 軽く左手を挙げてサクリはこちらに歩いてくると、杖を小さく振るってわたしにかけられた魔法とセツラにかけられた魔法を解いた。

「これで、君の亡霊は動けるようになったかな?」

「……なんのことですか?」

「まだ誤魔化すの?……いいよ。今はまだ秘密にしておいてあげる」

 サクリは腰をかがめると、長い人差し指をわたしの唇にあててそう言った。

『現世の物に干渉できるようになったからには、いつでも殺してあげるよサクリ』

 イスナはわたしの横でブチギレているが、もう武器を振り上げることはなかった。

「ここまで僕と闘えたんだから、もう君を『見習い』にしておくことはできないね。ここにいるみんなが証人だ」

 はっと気づいて、わたしは周りを見渡す。気づけばあたりは静まり返り、わたしたちの様子を見守っていた。

「心配しなくても、ぼくとの会話は聞こえていないよ。君の秘密を彼らに教えてあげるつもりはない」

 ふふ、と、彼は目を細め、うれしそうに微笑んだ。

「君はこれで『宮廷魔導士』の一員、ぼくの管轄だ。君の秘密も『君』も、ぼくがもらうよ」

 そして開いた彼の瞳は、元の氷のようなアイスブルーに戻っていた。


 サクリが訓練場から去ると、慌てた様子でヴェンさんが駆け寄ってきた。

「途中からなにが起こってんのか全然わからなかったが……大丈夫か? 怪我は?」

 ヴェンさんに言われ、わたしは自分の体を見下ろす。そういえば、特に怪我はない。窒息させられそうにはなったけれど。

「団長が血流してるのなんて久しぶりに見たよ。……すげーなアンタ。団長に怪我負わせて自分は無傷とか」

「いえ……あと少しで殺されるところでした」

 明らかに押し負けていた。あのまま決闘が続いていたら確実にわたしは死んでいただろう。

「とにかく、アンタが無事で本当によかったよ。……アンタ、強いな」

 もう実力を誤魔化せないと悟ったわたしは、ヴェンさんの言葉に、苦笑いを返した。



 わたしに話しかけようとしてくる他の魔導士たちをなんとか押し切って、わたしは寮の自分の部屋に戻ってきた。

 今日はもう疲れた。まだ昼過ぎだし夕食も食べていないけれど、もうこのまま眠ってしまいたい。

『………………あれ、なんなんですか?』

 水魔法で全身を清め、ベッドの上に腰を下ろすと、決闘が始まったときからずっと黙っていたセツラが口を開いた。

「あれって?」

『あの、武器』

 セツラはわたしの横に腰掛ける。そこ、イスナの定位置では?と思っていると、わたしの眷属になり物に干渉できるようになったイスナは、机から椅子を引いて椅子に座った。

『それ僕も思ってた! 変わった形の剣だよね』

「あー……あれは、日本刀っていって……わたしが元いた世界の国で、大昔に使われていた武器なんだけど……」

 なにを隠そう、わたしは前世で所謂『刀剣女子』だったのだ。全国各地の美術館や博物館に赴き、何振もの日本刀を見てきたわたしにとっては、西洋の剣なんかよりもずっと馴染みがある。

『へぇ! エアリちゃんの元いた世界の武器なんだね!』

 そう言ってイスナは、鞘から刀身を少しだけ抜いて眺める。

『闇属性の魔力の具現化……ですか。あなたの闇属性の魔力は今隠蔽されていますから、その刀剣は、あなたと、あなたの眷属にしか見えない、ということですね』

「なんか、必死になってなんとかしなきゃなんとかしなきゃ、って思ったら、日本刀、作れちゃったんだよね」

 カシャンと、イスナは刀身を鞘におさめると、刀を机に立て掛けた。

『剣握ったのなんか8年ぶりだったからさ〜〜〜〜ブランクで思ったより体動かなくてすごくショックだったし……なによりサクリ殺せなかったのがめちゃくちゃ悔しい……』

『まぁ、サクリ殿下はイスナ殿下が殺されてからの8年間で実戦を積んでますからね』

「でも、イスナのおかげでなんとか決闘を終えることができたよ?」

 本当にイスナには感謝しているのでそう伝えたのだが、イスナは唇を尖らせて悔しそうな表情を浮かべる。

『でもさぁ。サクリにもっと目をつけられちゃったよね絶対。てか普通太刀筋だけで僕だってわかる!? しかも剣見えてないのに!! 気持ち悪いんだけど!!』

『確かに……私の存在にも気付かれてしまいましたし、少し彼のこと、あまく見ていたかもしれません』

『あーーーーもう。次は絶対殺す』

 イスナはサクリが関わると人が変わったように思考が物騒になる。

『その気持ちはわかりますが、王子が死んだら一大事ですからね。まぁ、殺すのは、しばらくは無しかと』

 しばらくしたら殺してもいいんだ?……なんだか、レイル殿下の騒動のときとセツラとイスナの立場が逆になっていて、少し面白い。

『とにかく、この剣は大事にするよ。ありがとう、エアリちゃん。いつかこの剣で、サクリを殺してあげるからね』

 青い瞳を細めてにっこりと微笑むイスナが、少しだけ恐ろしく感じた。



 昼食はいらないから夕食の時間まで寝たいと死霊二人に伝えると、彼らは鏡の中のそれぞれの自室へ帰って行った。

 だけど、少し予感がして、眠らずに待っていると、思った通り、鏡の中からセツラが現れる。

『眠らないんですか?』

「来るんじゃないかと思って」

 セツラは、ベッドに腰掛けるわたしの隣に座る。膝と膝が触れ合いそうなほど距離を詰めて。

「…………イスナを眷属にしたこと、怒ってる?」

『いいえ。「あなたは、あなたのことだけを考えて」と、そう言ったのは私ですから。……でも彼、舌まで入れてましたよね? 舌抜いてやろうかと思いました』

「あの状況でそんなところまで見えてたの!?」

 あのときのことを思い出して、今さら顔が熱くなる。あのときはとにかく必死で、それどころじゃなかった。

『リリー』

 甘く名前を呼ばれて、彼の手がわたしの頬に触れる。次の言葉は、聞かずともわかった。

『キスをしても?』

 触れるだけのキスではすまないとわかっていて、けれど、拒むことなんてできるはずがない。

『上書きさせて』

 わたしが頷くと、彼は深く口付ける。わたしを見つめるペリドットの瞳に耐えきれず、わたしは目を瞑ると、彼に身を任せる。

 歯列の隙間からひんやりとした舌が咥内に入ってきて、上顎をなぞられ、内側から歯列をなぞられる。そのまま舌を絡められ、わたしの呼吸ごと貪られる。

 ぞくりとしたものを感じ、次第に身体に力が入らなくなると、セツラの腕に抱き止められた。

 彼は舌を絡ませて、冷たい唾液を送り込む。思わずその唾液を飲み込むと、ようやく唇が解放された。そっと目を開ければ、目の前のペリドットの瞳は濁っていた。

『かわいい』

 軽い力で、ベッドの上に押し倒された。彼の長い銀色の髪が、カーテンみたいにわたしの顔へ落ちる。

「それ以上は、だめ」

『わかってますよ。私のかわいいリリー』

 切そうに、ペリドットの瞳が揺れる。

『あなたの体に傷がつかなくてよかった』

 そう言って、彼は指先でわたしの首から肩をなぞった。冷たいその感触に、体がぴくりと反応する。

『誰よりもあなたのこと応援していたいのに––––––……あなたのこと、閉じ込めてしまいたくなる。誰かに傷つけられるくらいなら、今すぐにでもあなたを呪い殺して、あなたの魂を、私のものにしてしまいたい』

「それは……困るな」

 わたしがそう言えば、彼も困ったように、切そうに笑った。

『わかってます。だから私は、あなたが死ぬまで待ちます』

 たとえ何十年でも、何百年でも。そう言った彼の瞳は、もう濁っていなかった。


 

 1週間後、わたしは朝から宮廷魔導士団長の執務室に呼び出された。

「おれがいない間にいろいろと大変だったみたいだな……まぁ、無事でなによりだ」

 執務室の机で手を組んで待っていたのは、サクリではなくファロ副団長だった。サクリが執務室で執務をするなんて想像できないし、実際ほとんどしていないと聞いていたから、予想はしていた。

「いやもう本当に大変なんて言葉じゃ片付けられないくらい大変だったんですからね」

 ヴェンさんの言葉に、まぁそうだろうなとファロ副団長は苦笑した。

「副団長も、遠征任務お疲れさまです。今回はどこに行ってたんです?」

「北のほうだ。ちょうど、お前の故郷があるあたりだな」

「あ、」

 ヴェンさんがなにか思い当たったように声を上げる。

「お前も聞いているだろう? 北のほうで、魔獣に襲われる村が多発していると。それで少し、団長の命令で偵察に行っていた」

「長い間留守にしてるなーーと思ったら、そんな遠くまで行ってたんですね」

 ヴェンさんは納得したように頷いた。

「村が魔獣に襲われているんですか? どうして……」

 リタルダンドの屋敷の裏の森にも魔獣はいたけれど、森から出てくることなんてなかったのに。

「魔獣っていうのは魔法元素が獣の形に具現化したものだからな。その地の魔法元素のバランスが崩れれば、そういうこともある。特にここ数年は、『千年に一度の大厄災』が、いつ来てもおかしくない状態だから……」

「数十年前と比べて、魔獣の数増えてるっていいますもんね」

 二人の会話にわたしも頷く。

「そっか、千年に一度の大厄災、っていっても、『この年に大厄災が来る!』って決まっているわけじゃないですもんね」

 じわじわと、国の魔法元素のバランスが崩れ、じわじわと、魔獣の数が増え、いずれこの国を揺るがす大厄災が––––––……なんだか恐ろしい。

「……ヴェンさんの故郷は無事なんですか?」

「たぶんな。誰かが襲われたって連絡は、特に来てないから……」

 ヴェンさんはそう言ったけれど、その表情はどこかかたかった。

「地方の魔導士じゃ魔獣討伐も限界があるみたいでな。おれたちに要請がかかった。出発は三日後だ」

「……や、待ってください副団長。この話をするためにエアリも呼び出した、ってことは……」

 ファロ副団長は一つため息を吐く。

「団長の指示でな。エアリ・アラルガンドは今日から正式な宮廷魔導士だ。今回の任務にも連れて行くと」

「まだ実戦訓練も2回しかしていないのに?」

「だが、あの団長と互角に闘ったんだろう? 宮廷魔導士の中にも、団長と互角に闘えるやつなんているかどうか……」

「いや全然互角じゃないですよ死にそうでしたもん」

 二人の会話に慌てて突っ込む。わたしのことを過剰評価しないでほしい。できれば目立ちたくないのに。もう今さら遅すぎるけれど。

「今回の任務、団長も行くんですか?」

 ヴェンさんが尋ねると、ファロ副団長は頷いた。

「団長がこの程度の任務に乗り気なのも珍しいがな」

「それきっと、エアリを連れて行けるからですよね?」

「大丈夫ですよヴェンさん。ボク、魔獣は倒し慣れてますし」

「……そういえばそうだったな」

 ヴェンさんは苦笑する。

「それに、サクリ団長も……ボクのこと殺そうとしてきたりは、しないと思うので」

 殺すのはもったいない、とか言われたし。

「なにかあったら俺に言えよ?」

 わたしを心配するヴェンさんに、わたしは素直に頷いた。



『魔獣退治かー! 僕、北のほうって行ったことないなぁ』

『あのヴェンという魔導士、平民だとは聞いていましたが随分と田舎に住んでいるんですね』

 アラルガンドの家も平民ではあるけれど、元はリタルダンドの分家だし、『アラルガンド』という苗字をもつ、限りなく貴族に近い身分の平民だ。屋敷も王都にあるわけではないが、商いに支障が出ないよう街中にある。

 ヴェンさんの苗字は聞いたことがないので、きっと彼は苗字をもたない、遠い地方の平民なのだと思う。この国では魔力は身分に比例して高くなる傾向があるので、やはり彼の存在は宮廷魔導士の中では異例なのだろう。

『眷属になったから僕も宮廷を出てエアリちゃんについて行けるね! 眷属になっておいてよかった!」

『……ついてくるからには、役に立ってもらいますからね』

『もちろん!』

 死霊二人と会話をしながら、廊下を歩いて訓練場に向かう。ヴェンさんはファロ副団長と任務の打ち合わせがあるらしく執務室に残った。

 訓練場の広場に着くと、屋内訓練場の入り口に、薄紅色の少女が立っているのが見えた。


「エアリ!」


 彼女はわたしの姿を目に留めると、こちらに駆け寄ってくる。


「大変だったって聞いたけれど、大丈夫? 怪我とかない?」

「大丈夫だよ。ありがとう優理」

 わたしがそう言うと、彼女はほっとしたように微笑んだ。

「よかった。……ねぇエアリ、今、少しだけ時間ある? 宮廷の庭園を、エアリとお散歩できたら嬉しいのだけれど」

 もちろん、レイルの許可はとってあるから!と言う彼女に、わたしは頷いた。



 宮廷に来てから、基本的に寮と訓練場の往復しかしていなかったので、庭園に来るのは初めてだった。

「エアリは何のお花が好き? わたしはチューリップ! いまは秋だから咲いてないけど」

 楽しそうに話す優理。なにもなかったのではないかと錯覚するほど、彼女はいつも通りだった。

「ボクは……紫陽花、かな」

「紫陽花! すてき!! この世界には紫陽花もあるのね!」

 優理にそう言われて、しまった、と思う。この世界に転生してから、紫陽花なんて見たことがない。そもそもこの世界には梅雨もないし、紫陽花なんて花も存在しないのかも……

「今はちょうど薔薇の時期なのよ! 薔薇は、春と秋、一年に2回咲くんだって。この先に薔薇園があるから、そこに行きましょう!」

 優理はそう言って、わたしの手を掴む。彼女に手を引かれ白いアーチをくぐると、その先には、色とりどりの薔薇が咲き誇る『薔薇園』が広がっていた。

「ね、綺麗でしょ?」

 彼女はくるりと振り返ると、小首を傾げて尋ねた。

 赤、白、ピンク、黄色、紫––––––たくさんの薔薇が咲き誇る庭園の中央には噴水があり、水が流れ出ている。その周りには、細やかな装飾の施された白いベンチがいくつかあった。

 彼女はベンチに駆け寄って座ると、その横を叩いてわたしを促す。わたしが優理の隣に座れば、うれしそうに微笑んだ。

「エアリ……あのね」

 優理は口を開いて、また閉じた。そしてまた口を開く。

「わたし、いらない聖女みたいなの。みんなは、聖女様聖女様って、わたしのことを呼ぶけれど。本当に大事なら護衛くらい常につけるって、こんなふうに一人で動くことを許したりしないって、誰かが言ってた」

 優理の顔から笑顔が消えて、その深い桃色の瞳が翳る。彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。

「突然知らない世界に呼び出されて、世界を救えるのは聖女であるわたしだけだって聞かされて、それならせめて、元の世界に戻れるまではこの世界で頑張ろう!って思って、頑張ってきたけれど、でもやっぱり、悲しくなってしまうこともあって」

 レースとリボンとフリルがいっぱいの、クリーム色のドレスを着た彼女は、そのドレスの上で手を握りしめていた。

「レイルは、図書館ではあんなに怒ったけれど、でもべつに、わたしのこと、好きでもなんでもなくて。ランチやディナーに遅れると怒るけれど、それも、自分の思い通りにならないわたしに腹を立ててるだけだし。サクリさんも、わたしを召喚してから一度だけ様子を見にきてくれたけど、それっきり」

 彼女は顔を上げると、その桃色の瞳でわたしを見つめた。

「だから、エアリとお友達になれて、本当にうれしかったの。エアリだけは、わたしのこと、普通の女の子として見てくれた。わたしの従者も侍女も、ヴェンも、みんなわたしのことを『聖女様』って呼ぶけれど、レイル以外で初めて、わたしのこと『優理』って呼んでくれた。レイルの『ユーリ』は彼の所有物としての名前だけれど、エアリだけは、わたしのこと、対等な関係として呼んでくれた」

「理十は?」

「うん、そうだね。正直わたしは、理十の存在にもすごく救われてた。理十とエアリだけは、この世界で、わたしと対等でいてくれると思ってた。同じ魔導士見習いとして、これからも頑張っていこう、って」

 彼女は桃色の瞳を細めてにこりと笑う。

「自分でも不思議だったんだ。エアリがヴェンと互角に魔法で闘う姿を見て、なんであんなにショックだったのか。いつもだったらきっと、『エアリすごい!』って、喜べたはずなのに」

 ドレスの上で握り込んだ手にぐっと力が込められた。

「エアリが遠くに行っちゃうみたいで、寂しかったんだ。わたし––––––エアリのことが、好きみたい」

 照れるように言って、彼女は微笑んだ。

「え…………」

 優理の言葉がうまく飲み込めない。

 好き? 優理が? わたしを?

「もちろん、恋愛的な意味でだよ」

 濃い桃色の瞳がわたしを見つめる。その瞳から、先ほどの哀愁はすでに消えていた。

「ごめん、急にこんなこと言っても困るよね。……レイルもいるし」

 そう言って、優理は立ち上がる。

「でも、覚えておいてほしかったんだ。わたしの気持ち」

 彼女の瞳は真っ直ぐにわたしを射抜いていた。どこまでも揺るぎなく。

「3日後から、遠征任務なんだよね。見習いのわたしはついて行けないけれど、応援してるから。エアリの無事を、心の底から祈ってる」

 そう告げた優理の笑顔は、どこか晴れ晴れしかった。




 優理のこと、ずっと乙女ゲームの主人公のようだと思っていたけれど。

 彼女は、わたしのことを『好き』だと言った。男装をして男だと偽る、『女』であるわたしを。

 もっと他に、すてきな人がたくさんいるはずなのに。セツラやイスナは死んでいるし優理には見えないから除外、レイルは例外として、サクリ––––も置いておくとして、そう、ヴェンさんとか。いやもしかして、ヴェンさんくらいしかいないか?

 そこまで考えて、ふと気づく。

 セツラに、イスナ、サクリ、ヴェン、それから、ツヅミお兄ちゃんと、年下だけれど、理十と。

 わたしという存在は少し、顔のいい男に囲まれすぎてはいないか?

 いや、わたしは今『男』なので、恋愛に発展する予定など、これっぽっちもないのだけれど––––––イスナとは眷属の契約でキスしてしまったし、セツラとは4回も唇を重ねてしまっている。他にも、いろいろな男性とフラグを立てまくっている気がしなくもない。

 まるで、自分こそが乙女ゲームの主人公のようだ。なろう系小説の主人公というより、今の自分は乙女ゲームの主人公に近いのかもしれない。いや、女であることをバラす予定はないけれど!

 ––––––この世界の誰とも、恋愛をする気はない。もちろん、優理とも。だって、わたしには––––––……わたしには?


 なにか、忘れている?

 

 そんなはずはない。前世の記憶も、しっかりと残っている。わたしが殺されたあの日のことも。


 もやもやとした気持ちを抱えたまま、わたしは訓練場へと戻るため、足を進めた。

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