dehors(Ven・Rito②)
スマートフォンのホーム画面には、たくさんのアプリのアイコンが並んでいた。
SNSや写真加工アプリが多い気がする。先代聖女が召喚されたときの年齢が今代の聖女の優理と同じくらいだとするなら、スマートフォンがこの世界に持ち込まれた時点で中高生くらいのはず。今時の女子高生のスマートフォンは、こんな感じなのかもしれない。
「ホーム画面上にアイコンは残ってるけど、再インストールが必要なアプリが多くてほとんど起動できないかも……」
「この世界じゃアプリのアップデートもできないからな……画像フォルダ見せろよ」
「そうだね」
理十の要求に頷いて、優理は画像フォルダを開く。
画像フォルダにはたくさんの写真が入っていた。
「先代聖女の子供……いや、孫か……」
画像フォルダをスクロールしていく優理の横で、理科十が呟いた。
「家族写真……だね。すごい量の写真。このへんは娘さんじゃない?」
「子供の成長記録を逆再生して見てる感じだな……」
写真の中にはヴェンさんの面影のある人物も何人か写っていたけれど、夢中で写真を眺める優理と理十は気づいていないようだ。髪色も瞳の色もヴェンさんとは違うから、ヴェンさんが先代聖女の血縁であると知らなければ、案外気づけないものなのかもしれない。
ヴェンさんはわたしの横で、スマートフォンの画面を無言で覗き込んでいる。
スクロールしていくにつれ、写真の中の、先代聖女と思われる女性の姿が、少しずつ若返っていく。
そして……
「あ、」
高校の制服だろうブレザーに身を包んだ数人の少女。その中心で、若い頃の聖女と思われる人物が楽しそうに笑っていた。
「これ……先代の聖女さんとそのお友達、だよね? 元の世界……日本の」
「これより前の写真は全部元の世界の写真だな……先代の聖女がこの世界に召喚されたのも高校生の頃か」
理十の呟きを聞きながら、優理は大きな瞳で画像をスクロールさせていく。
「友達と一緒に遊園地行ってる……」
ふっと、優理の表情が消えた。
「いいな」
その小さな呟きを、わたしも、きっと理十も、聞き逃さなかった。
「わたしもちょっと触ってみてもいい?」
わたしが声をかけると、優理はぱっと表情を取り戻した。彼女らしい、いつもの明るい笑顔。
「もちろん! 操作の仕方わかる?」
「たぶん……優理がやるの見てたから」
わたしは優理からスマートフォンを受け取ると、画像をスクロールさせていく。このスマートフォンは2025年モデルのものなので、当然ながら2025年より前の写真はなく、元の世界の写真の数はとても少なかった。スマートフォンを買いかえてから1年もしないうちに、先代聖女はこちらの世界に召喚されたのだろう。聖女は日本の中でもずいぶんと都会に住んでいたようで、学校の帰り道に友達とクレープを買って食べた写真とか、制服のまま友達とカラオケに行った写真とか、街で遊ぶ写真がたくさん残されていた。元の世界でのわたしの地元はどちらかといえば田舎のほうだったので、こんなふうに友達と遊ぶようになったのは大学に入学して街に出るようになってからだったな、と思い出した。
わたしはホーム画面に戻ると、ホーム画面に残っているアプリを一つずつ起動させようと試みた。しかし、ほとんどのアプリがホーム画面上にアイコンが残っているだけで、起動するには再インストールが必要だと表示される。さっき理十が言っていたとおりだ。
もちろん、起動可能なアプリもある。メモ帳アプリを開けば、そこにはたくさんの『メモ』が残されていた。
「優理……読める?」
わたしが日本語を読めてはおかしいので、隣にいる優理にスマートフォンを手渡す。
「読めるよ! えーと……豚肉、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ……なにこれカレーの材料?」
優理はアプリ内のメモを一つずつ開いて確認していく。
「これはその日の買い物リスト……これは料理のレシピ……これは……掃除、洗濯、農作業の手伝い……その日のやることリストかな?」
「どれもこれも日常生活の『メモ』って感じで重要な情報はなさそうだな……」
理十は小さくため息を吐いた。
「でも……先代の聖女さんがどんな人生を送ったのか、わかった気がする……。わたしと同じ高校生のときにこっちの世界に来て、こっちの世界の男性と結婚して……きっと、幸せな気持ちで一生を終えたのね」
そう話す優理は微笑んでいたけれど、その桃色の瞳はどこか切なげだった。
「おれはこの世界で一生を終える気なんてねぇけどな。それにしても……先代の聖女が召喚されたのって千年前だろ? 高校のときの写真とか、どう見たって現代人だろ」
「しかもこのスマホも2025年の最新モデルだしね……」
優理は首を傾げてうーんと唸った。
「えっと……聖女召喚は、いつ行ったとしても異世界の同じ時間同じ国から召喚される……とか?」
わたしがそう言えば、理十は「そうかもな」と頷いた。先代の聖女が召喚されたのも、今代の聖女の優理が召喚されたのも、……わたしが殺され、転生したのも。すべてが2025年だ。
「先代の聖女様も、今の聖女様のような方だったんですかね」
ずっと黙っていたヴェンさんがぼそりと呟く。ブラウンの瞳は、どこか遠くを見ているようだった。自分の先祖に思いを馳せているのかもしれない。
「先代聖女の遺品…………聖女様が持っていてくださいますか?」
「えっ」
優理が驚いた声を出す。わたしも驚いていた。だってそれは、千年間ずっとヴェンさんの村の蔵にしまわれていた、誰にも知られてはならないヴェンさんの『秘密』のはず。
「先代の聖女様が……千年後も使えるように大事に魔法をかけてしまっておいたのは、次の聖女様に渡したかったからなんじゃないかと……聖女様の姿を見ていてそう思ったんです」
「嬉しいけど……でも、本当にいいの?」
「はい。ただ……この件は極秘なので、誰にも見つからないようにしていただきたいです。侍女はもちろん、レイル殿下やサクリ殿下にも」
「わかった! 必要なとき以外は厳重にしまっておくし、一人のときしか取り出さないようにする!」
優理は特に疑問を抱いた様子もなく、素直に頷いた。
たしかに、遺書を読む限り、先代聖女は日本からこの世界へ迷い込んでしまった人間に遺品であるスマートフォンを託したかったようだから、ヴェンさんは遺書の内容を知らないとはいえ、優理に託すという行動は先代聖女の意向に沿っている。
それでも、警戒心の薄い優理に渡してしまうのは、かなりリスクがあるように思えた。
「いいんですか?」
わたしが思わず尋ねれば、ヴェンさんはどこか困ったように笑った。
「ああ……。聖女召喚は千年に一度だろ? 千年間一度も開かなかった箱が、ちょうどこのタイミングで開いたんだ。偶然とは思えない」
ヴェンさんは銀色の小箱を優理に差し出す。
「この中に入れて、大切にしまっておいてください」
優理は銀色の小箱を受け取ると、スマートフォンの電源を切り、箱の中にそっとしまって蓋を閉じた。
「施錠の魔法かけたほうがいいんじゃね?」
その様子を見守っていた理十は、パーカーのポケットから杖を取り出すと土属性の呪文を唱え始めた。
土属性の魔力が小箱を包み、溶け込んでいく。
「ありがとう理十。でもこれ、魔法かけた本人か、高度な解除魔法使える人じゃないと開けられないやつだよね?」
「必要なときはおれが開ける。優理に大事なもん預けとくの心配だし」
理十のもっとも(?)な指摘に、優理は「たしかに?」と納得した顔をしていた。
優理と理十は、スマートフォンの入っている銀の小箱を部屋の金庫にしまってくると言って宮廷内にある優理の部屋に行ってしまったので、わたしとヴェンさんは屋内訓練場に戻ることにした。はずだったのだけれど。
「たまには気分転換に他の場所で練習すっか」
ヴェンさんに連れてこられたのは、宮廷の敷地内にある湖だった。
「敷地内にこんな場所があったんですね……!」
冬の湖。冷たい空気がキンと張っている。それでも、王都はこの国の中では比較的あたたかい地域だから、昼過ぎの気温が上がるこの時間帯は湖の表面に張った氷はほとんど溶けていた。
「アンタの得意魔法は水属性だから、こういう場所ならいつもより魔法使いやすいだろ?」
『たしかに……この場所は宮廷の敷地内で最も水属性の魔力元素が多い場所ですが』
『あー……そういうのあるんだ? じゃあ火の近くにいたら火属性の魔法が使いやすかったりするの?』
『まぁ、そうですね』
わたしの左右でセツラとイスナが喋っている。わたしはその場にしゃがむと、水面を見つめた。
「きれいな湖ですね」
湖の水は透き通っていた。錦鯉でもいないかなと思ったがいなかった。当然だ。ここは日本じゃない。
「なんか魔法、使ってみ?」
ヴェンさんに言われ、わたしは胸ポケットから桜の枝の杖を取り出した。これだけ水がたくさんあるのだから、シンプルに……
水属性の魔法を詠唱する。大量の水を持ち上げる。高いところまで持ち上げて、そのまま––––––開く。中央から真っ直ぐ持ち上げられて、高い位置で大きく開いた水が、湖全体に降り注いだ。
「随分大きな噴水だな……この湖の直径何メートルあると思ってるんだか」
そう言って笑うと、ヴェンさんは風属性の魔法を唱えた。風の力を受け、水がうねる。噴水の流れに変化が生まれる。
こういうオシャレな噴水、元の世界にもあった。さすがにこれほど大きなものは見たことがないけれど。
わたしは簡単な光属性の魔法を唱え、大きな噴水に大きな虹を架けた。優理と初めて会ったときに優理に見せたい虹よりも、ずっとずっと大きな虹。
「へぇ……きれいだな。……アンタの魔法見てると、アンタは魔法が好きなんだな、って思うよ」
「ヴェンさんは違うんですか?」
「いや……俺も魔法が好きだよ。だからこそ、秘密がバレるリスクを承知で魔導士になった」
ヴェンさんは、わたしたちの魔法で作った大きな噴水をただ見つめていたが、しばらくして、魔導士の長いマントでふわりとわたしの肩を包んだ。
「……水飛沫かかるし、寒くないか? あっちでちょっと休もう」
『『距離が近い!』』
ヴェンさんに肩を抱かれ、近くの東屋に移動する。
わたしを椅子に座らせると、ヴェンさんは火属性の魔法を唱えた。周辺が一気にあたたかくなる。
「ありがとうございます」
「いや……」
ヴェンさんは向かいの椅子に座ると、わたしの顔をじっと見た。
「髪、伸びたな。……俺に言われて伸ばしてんの?」
「え!? えっと……伸ばしたほうが便利かなって思って。魔法の触媒になるっておっしゃってたじゃないですか」
「そうだな。……なぁ」
ブラウンの瞳に、わたしの顔が映っていた。
「アンタさ……異世界から来たん?」
「え…………」
どくり、と心臓が大きく跳ねた。
「なんで……ですか? わたしはエアリ・リーン・リタルダンドです。この世界で生まれて、18年間、子爵令嬢として過ごしてきました」
「そうだよな。知ってる。……でも…………スマホ、だっけ? 操作すんの、ずいぶん慣れてたよな、アンタ。いくら聖女様が操作すんの先に見てたとはいえ、俺だったらあんなふうにすぐ使いこなせない」
「そんなこと……」
ヴェンさんの真っ直ぐな瞳に射抜かれて、喉がかわく。
「それに…………スマホを眺めるアンタの顔が、寂しそうだったから」
「……!」
ヴェンさんがスマートフォンに映る聖女の写真を見て自分の先祖に思いを馳せていたように。
わたしも、スマートフォンの中に入っていた写真を見て、元の世界に思いを馳せていたのかもしれない。
「俺、こういう勘は当たるんよ。アンタが女だってことも当てただろ?」
ヴェンさんの大きな掌が、わたしの頭を撫でた。
「わたしは……エアリ・リーン・リタルダンドです」
今のわたしには、そうこたえることしかできなかった。
夜になり、寮の食堂で理十と合流した。
「小箱は金庫にしまったし鍵もかけたしさらに施錠の魔法もかけといたから」
「うん、ありがとう理十。それなら安心だね」
「…………聖女の召喚ってさ、どうやってやってんだろうな」
ナイフで上手に切った肉をフォークで口に運びながら、理十が呟いた。いつも思うけれど、理十はナイフとフォークの扱いが上手だ。日本の中学生なのに。
「たしかに。それがわかれば元の世界に帰るヒントになりそうだよね。……理十はどうやって召喚されたの? 召喚されたときはなにしてたの?」
「べつに……休日の午後、優理と二人でコンビニにおやつ買いに行こうと思って家から出たら、急に地面が光って、魔法陣みたいなのが現れて……気づいたら宮廷の大ホールにいた」
二人でコンビニにおやつ買いに行こうとしてたのか。あいかわらず仲の良い姉弟だ。
「魔法陣か……聖女召喚の魔法陣なのかな? その魔法陣で向こうの世界とこちらの世界を繋げたりできないのかな?」
魔法学校編入試験のときに床に書かれていた6色の大きな魔法陣を思い出した。
「どうだろうな……おれもいろいろ調べたけど、聖女召喚以外で向こうの世界とこっちの世界を繋げたって記録は一切なかったから……」
「調べたの? どうやって?」
「宮廷の図書館で。おれ、本読むのわりと好きだから。ジャンル問わず」
そういえば、理十はこう見えても本の虫だと、優理が言っていたっけ。
「さすがだね。聖女召喚の方法についてはなにか書かれてた?」
「いや……どの魔導書にも書かれてなかった。千年前や二千年前に聖女が召喚されたっていう記載はあっても、召喚の方法は……」
『聖女召喚の方法は国王と宮廷魔導士団長しか知らないからね……そのへんの書物には載ってないと思うよ』
『二つの世界を繋ぐ…………時間魔法と同じくらい未知の領域ですからね……』
二人の死霊が呟く。わたしは小さく溜息を吐くと、決意をかためた。
「サクリ殿下にきいてみる」
『本気!?』
理十の横に座っていたイスナが驚いたように立ち上がった。
「サクリって、おれと優理を召喚したやつだろ? 召喚されたあと一度様子を見に来たっきり会ってないけど、どこにいるかわかんの?」
「わからない……けど、なんとかしてみる」
『自分からサクリと接触はかろうなんて危険だよエアリちゃん!!!!いないならいないほうがいいんだよサクリなんて!!!!いつか僕が殺すけど!!!!』
『ですがたしかに……実際にこちらの世界と向こうの世界を繋いだことがある人物に尋ねるのが、いちばんの近道かもしれませんね……』
『ちょっとセツラ!!!!』
「大丈夫なのかよ? 2回しか会ってないけど……サクリってなんか、レイルとは別の意味でやばそうだろ? 何考えてるかわかんないっていうか」
宮廷魔導士の集まる食堂で堂々と王族を侮辱する理十にわたしは思わず苦笑した。まぁ、これだけ賑わっていたら、誰にも聞こえていないだろうけれど。
「大丈夫。わたしに任せて」
理十を安心させるように、わたしは明るく笑ってみせた。
「というわけで、なんとかサクリ殿下に会う方法を考えます!」
自分の部屋に入るなりたからかに宣言したわたしに、イスナはまだ納得していない様子だった。
『本当にサクリに会わなきゃダメ????仕事で一緒になっちゃうのは仕方がないけど、自分からわざわざ会いに行く必要なくない????』
「心配かけてごめんなさい、イスナ。でも元の世界とこの世界を繋ぐ方法をサクリ殿下だけが知っているのなら、どうしても話を聞かなくちゃいけないの。優理と理十のためにも」
イスナは深く溜息を吐くと、懇願するように、その碧い瞳でわたしを射抜く。
『サクリは自分が面白そうだと思えば簡単に人を殺すような人物だからね。それを絶対に忘れないで。僕は、サクリに殺されたんだから』
「うん、わかった」
そんなイスナに少しでも安心してほしくて、わたしは強く頷いてみせた。
「……ねぇセツラ。サクリ殿下がやってる『透視魔法』ってやつ、わたしもできないかな?」
『サクリ殿下が今どこでなにをしているのか透視する、ってことですよね? サクリ殿下ができるのですから、もちろんあなただってできますよ。少しコツは必要ですが』
わたしは桜の枝の杖を取り出すと、セツラに教えてもらいながら、水属性の魔法を詠唱する。
『水属性の魔法を透視に使うなら、作った水の球体を、どこまでも透明に保つこと。一つの不純物もなく。一つの泡もなく。水晶のように、すべてを見通す透明さを保って』
魔法で水晶玉ほどの大きさの水の球体を作り、胸の前に浮かべる。
『透明さを維持して。真球を維持して。詠唱しながら強く願って。見たいものを「見たい」と』
セツラに言われるがまま、わたしは願った。優理と理十を元の世界に帰す方法を見つけるために。ヴェンさんの先祖である先代聖女がどんな方法でこの世界に召喚されたのか知るために。サクリ・ピユウ・グラツィオーソに会わなくてはいけない。だからどうか、彼の居場所を映し出して––––––……
ポウッ……と、水の球体が光った。
離れた場所の映像を映し出すモニターのように、その球体に映し出されたのは––––……
「海……?」
暗くてはっきりしないけれど。海だ。夜の海。砂浜で、サクリは一人海を眺めていた。
やがて、懐から杖を取り出すと、短く詠唱する。音は聞こえないから、何の魔法かはわからない。
すると、水球の向こう、目に見える範囲の海の水面が、途端にパキパキと凍り始めた。
『海を凍らせてる……』
『海を凍らせてますね……』
イスナとセツラがほとんど同時に呟く。……サクリは、なにがしたいのだろう。
わたしはサクリの表情を見ようと、水球の向こうを凝視した。
その瞬間、
「………………!!」
サクリは振り向いた。その凍えるように冷たいアイスブルーの瞳と、目が合った。気がした。
集中力が途切れ、水球がパンッと音を立てて弾けた。
どくどくと心臓が激しく脈打つ。次の瞬間。
コンッと、部屋の窓ガラスになにかがぶつかる音。
急いで窓を開ければ、窓の外の暗闇から、青色の蝶が部屋に滑り込んできた。
『それ、まさか……』
呟くイスナを横目に、わたしは青い蝶に指でそっと触れる。蝶はふわりと羽を翻し、一枚の、レター用紙サイズの青い紙になった。書かれている文字を、わたしは読み上げる。
「外に出ておいで、って……」
『こんな時間に女の子を外に呼び出すなんて……まぁサクリは君が女の子だって知らないかもしれないけど……』
『まぁ、勝手に部屋に現れるよりはマシなのでは……? どうします?』
視線を向けてきたセツラに、わたしは頷いた。
「行ってみよう」
火属性の魔法で全室暖房が完備されている室内と違い、寮の外は凍えるほど寒かった。昼間に行った湖も、きっと今は凍りついているのだろう。
闇の中目を凝らせば、寮の玄関の近く、木にもたれかかるようにしてサクリが立っていた。
「やあ、エアリ・アラルガンド。いい夜だね」
「……お久しぶりです。サクリ殿下……」
凍えそうに冷たい冬の夜の空気の中、凍えそうに冷たいアイスブルーの瞳で、彼はわたしを見た。口元には、あいかわらず、口角を上げただけの貼り付けたような笑み。
『さっきまで海にいたんじゃないわけ!? 王都から海って、かなりの距離があると思うんだけど!?」
『移動魔法……空間魔法の応用ですかね。馬車など使わなくても、彼は国中飛び回れるのかもしれない』
『移動魔法!? それセツラはできないの!?』
『彼にできて私にできないわけないじゃないですか。やったことはありませんが』
わたしの後ろでセツラとイスナが騒いでいる。この一瞬で海から移動してきたサクリの魔力にぞっとしたものを感じながら、わたしは尋ねた。
「こんな時間にどうされたんですか?」
「それはこちらのセリフだよ、エアリ・アラルガンド。まさかきみのほうから透視されるなんて思わなかった」
口角をにっと吊り上げて、サクリは笑う。
「すみません……。サクリ殿下が今どこにいらっしゃるのか、知りたくて」
「透視なんて使ったのは初めてなんじゃない? 随分と上手に使えていたね。気配を隠すのはまだまだだけれど……きみの熱い視線を感じて驚いたよ」
そう言って、サクリはフッと笑った。あいかわらず、彼が何を考えているのか、わたしにはわからない。
「それで? ぼくに何の用事? こんな時間にぼくの姿を盗み見てまで、ぼくに聞きたいことがあったんじゃない?」
気がつけば、大きく一歩踏み出したサクリに、至近距離から顔を覗き込まれていた。思わず後ずされば、彼は面白そうに笑った。
「聖女を召喚した方法について……お聞きしたくて」
「……へぇ」
すっと、サクリが目を細める。その表情に本能的な恐怖を感じた。
「ぼくが召喚した聖女を逃すつもり?」
サクリの言葉に、わたしはなにも返せなかった。ヴェンさんや理十の前では、流れるように嘘をつくことだってできるのに。不用意なことを言えば殺されるかもしれない。そう本能が告げていた。
「責めているわけじゃないよ。ただ……聖女を帰すなんて前例がないからね。あちらの世界から『連れてくる』ならまだしも、こちらの世界から『送り出す』なんて」
サクリは懐からガラスのように透明な杖を取り出すと、短い詠唱とともに軽く振るった。ぽんっと、杖を持っていないほうの手––––サクリの左手に、1冊の本が落ちる。魔導書だろうか。
「やれるものならやってみたらいいよ。代々宮廷魔導士団長に受け継がれているこの魔導書、貸してあげるから」
サクリは左手に持った魔導書をわたしに向かって差し出した。
「え……いいんですか? こういうのって普通、極秘とかなんじゃ」
「もちろん。聖女召喚の方法は、歴代の宮廷魔導士団長しか知らない極秘事項だ。でもいいよ。第三王子であるぼくの権限で、きみに貸してあげる」
差し出された魔導書をおそるおそる受け取れば、サクリは満足そうに笑った。
「そこに書かれているのはあちらの世界からこちらの世界に聖女を召喚する方法のみだよ。こちらの世界からあちらの世界に送り出すなど不可能だ。その『不可能』を、ひっくり返せるものなら、きみがひっくり返してごらん」
うっそりと微笑むサクリにぞくりとしたものを感じ、わたしは思わず受け取った魔導書をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます……」
寒さからなのか、恐怖からなのか。震えた声でお礼を言えば、彼は「頑張って」とだけ言って、去って行こうとした。
「待ってください」
それを、思わず呼び止めていた。少しだけ迷って、けれどわたしは言葉を続けた。
「夜の海で……なにをされていたんですか?」
彼は少しだけ間をあけて、それから言った。
「水のそばは心地がいいから。きみも水魔法の使い手ならわかるだろう?」




