durezza
13話目で「魔王」を出せてうれしい
約2か月ぶりにリタルダンド家で夕食を食べた。毎日食べていた味なのに、2か月空いただけで『懐かしい味』になってしまうのだと思った。貴族の食事にしては質素だけれど、シェフの腕は確かで、これがわたしにとっての故郷の味なのかな、なんて思った。ヴェンさんにとっての故郷の味が、あのあたたかく優しい味のシチューだったように。
夕食前には父も帰ってきて、夕食の席では、父と母と、それからツヅミお兄ちゃんとたわいもない会話をした。ツヅミお兄ちゃんとも、普段どおりに話せていたと思う。……なんとなく、お互い少しだけ気まずさがあったようにも感じるけれど。
お風呂にも入って、あとは寝るだけだ。セツラはリタルダンドのわたしの部屋にある三面鏡にも同じ魔法をかけて、鏡の向こうに部屋を作り出していた。なんて便利なのだろう。
『エアリちゃんのご両親、とてもいい人たちだね。女性の君に、「魔導士」の夢を追いかけさせてくれるだけあって』
「そう。……わたし、自分で言うのもなんだけど、家族には恵まれてると思う」
『まぁ、リタルダンドの人間ですからね』
『なにそれ。べつにセツラは「いい人」ではなくない?』
セツラとイスナは少し会話をすると、鏡の向こうのそれぞれの部屋に帰って行った。それぞれの部屋で、彼らはいつもどんなふうに過ごしているのだろう。わたしも、鏡の向こうの彼らの部屋に入ることはできるのだろうか。
灯を消して、わたしはベッドの上の布団に入る。明日も書庫へ行ってみようかな、なんてことを考えながら。
「えあり」
まただ。遠征任務から帰ってきてから、いつもこの夢。
「えあり」
違う。そうじゃなくて。わたしがこの夢を見るのはいつも、
「えあり」
夜に、『彼』と会話をした日––––––……
また『夢』を見た気がするけれど、目覚めるといつも忘れてしまう。まぁ、『夢』というのはそんなものだろう。
「なに読んでるんだ?」
朝食を食べ終え、また書庫で伝記を読みあさっていると、ツヅミお兄ちゃんがやって来た。
「ここ、書庫か。はじめて入る」
「ツヅミお兄ちゃんは読書とかしないもんね」
「教本なら読むけどな」
彼は、部屋の奥にいるわたしのところまで歩いてくると、わたしが読んでいる本の背表紙を見た。
「セツラ・ルーノ・リタルダンドの伝記か」
「そう」
「……お前は、セツラ・ルーノ・リタルダンドみたいな魔導士になりたいのか?」
壁に飾られた大きな肖像画を見あげて、彼は尋ねる。
「わからないけれど……でも、セツラみたいに、人のために魔法を使える魔導士になりたいと思ってる」
ツヅミお兄ちゃんの目を見てそう言えば、横からセツラの視線を感じた。
「随分親しげに名前を呼ぶんだな」
「え?」
「『セツラ』って。数百年前に死んだ大魔導士に対して」
「親しげに聞こえた?」
「ああ」
それはまぁ、普段呼び慣れている名前だから––––……伝説の大魔導士が、わたしにとっては随分と身近な存在になってしまっている。
「わたし昔から、大魔導士セツラ・ルーノ・リタルダンドの大ファンだからね」
「……そうか」
わたしが微笑んでそう返せば、ツヅミお兄ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「セツラ・ルーノ・リタルダンドねぇ……オレたちのご先祖様ってやつだろ?」
ツヅミお兄ちゃんは、本棚から伝記を1冊手に取ると、ペラペラと頁をめくる。
「伝記、よんだことない?」
「ないな」
彼は前のほうのページをすっ飛ばし、伝記を後半部分から読み始めた。
「そこから読んでわかる?」
「魔王について書かれてるのって後半だろ? お前の闇属性の魔法について、なにかわかるかもしれないと思って」
「えっ」
「いや、お前の魔法を魔王と同じだって言ってるわけじゃなくて」
慌てて言い繕う彼に、わたしは首を横に振った。
「そんなふうにセツラの伝記を読んだことなかった。そうだよね、魔王について書かれた部分を読めば、闇魔法についても、なにかわかるかも」
わたしは、手に持っている伝記の後半部分を開いた。魔王の詳細についても、作者によってかなり内容が異なる。––––––セツラは、魔王は時間魔法の使い手であったと言っていた。時間魔法について触れている伝記があれば、その伝記の内容は信憑性が高いかもしれない。
手に持っていた伝記を本棚に戻し、別の本を手に取る。伝記の後半部分を開いて……
「禁忌とされる時間魔法の研究を始めた『魔王』は、国を脅かす可能性のある危険人物と判断され、国の処分の対象になった……」
セツラから聞いた話と一致する。頁をめくり、わたしは伝記を読み進めた。
「魔王はそのまま姿を消したが、数百年後、再び姿を現し、当時のリタルダンド家当主であったセツラ・ルーノ・リタルダンド伯爵に倒される。…………え、伯爵?」
『なってませんよ。伯爵位、断りましたから』
『功績が認められて国王から爵位を授かることってたまにあるからね。ヴェンとか、ほんとは何度も国王に爵位の話持ちかけられてるけど、恐れ多いとかいって断ってるみたいだよ』
セツラとイスナが横で喋っている。つまり、魔王を倒した功績が認められ、子爵から伯爵にしてあげると国王に言われたけれど、実際のセツラはそれを断ったってこと?
「リタルダンドはずっと子爵家だろ? その伝記、間違ってるな」
「うん……」
でも、セツラが伯爵の位を授かる話が出ていたのは本当らしいし、先ほど読んでいた伝記よりは信憑性があるかもしれない。先ほど読んでいた伝記は、セツラの死没が80歳になっていたから。
わたしは、魔王に関する描写をもう一度読み返すことにした。
「長い黒髪、漆黒の瞳、彼の名を…………え、名前?」
『魔王』の『名前』の表記なんて、他のどの伝記にもなかった。そもそも、わたしはここにある伝記は全て読み尽くしたと思っていたけれど、『魔王』の『名前』が書かれた本なんてあっただろうか。
「名前が書いてあるのか?」
横からツヅミお兄ちゃんがわたしが持っている本を覗き込んでくる。
「あ、でも、読めない……」
魔王の名前が書いてあるはずの部分だけインクが滲んでいた。
「こんなことあるか? ここだけインクが滲んでるなんて」
ツヅミお兄ちゃんは訝しげな顔で本を覗き込んでいる。
『その本、よくない気配を感じます』
セツラの言葉に、わたしは顔を上げる。話しかけたいけれど、ツヅミお兄ちゃんがいる前でセツラと会話をするわけにはいかない。
『その本に、そんな記述はなかったはず。最近になって誰かが書き加えたとしか思えません』
『でも、後から書き加えた痕跡なんてないよね?』
わたしの疑問をイスナが代弁してくれる。
『ですから、魔法で』
『今のリタルダンドに魔導士なんていないでしょ? 一体誰が……』
どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じた。わたしは本を閉じると、そっと本棚に戻す。
「その伝記、そもそも間違ってそうだったし、あんまり気にしないほうがいいんじゃないか?」
「うん……そうだね」
「…………書庫で本読むのもいいけどさ、たまには外に出てみないか?」
明るく笑うツヅミお兄ちゃんを見て、気分転換に誘ってくれているのだとわかった。
「そうだね。少し、庭でも歩こうか」
ツヅミお兄ちゃんと二人で庭を歩く。薔薇の季節を終えた冬の初めの庭には、色とりどりのサイネリアやパンジーが植えられていた。
リタルダンドの屋敷にいた頃も、わたしは部屋で本を読むか森で魔獣を倒すかで、こうして庭を歩いたことはほとんとなかったなと思い出した。
「ツヅミお兄ちゃんは、いつまで経済の学校に通うの?」
「んー……オレのいる学校は、何年で卒業とか、特に決まってないんだが……でもまぁ、卒業に必要な単位は今年中には取れそうだし、受けたい授業もほとんど受け終えたから、今年で卒業しもいいかな、とは思ってる」
「そっか、単位制なんだね」
わたしは、転生前に自分が通っていた大学を思い出した。
「卒業したら、どうするの?」
「アラルガンドを継ぐよ。まずは父の下で働いて……ゆくゆくはオレがアラルガンドの当主を継ぐ」
「そっか」
彼の赤い瞳は真っ直ぐ前を見ていた。それを、なんとなく眩しく感じてしまう。
わたしがこのまま「エアリ・アラルガンド」という魔導士として生きていくとしたら、リタルダンドの家はどうなってしまうのだろうか。この家の娘は、わたししかいないのに。
「いつまでも男の子のままじゃいられないのかも……」
魔導士として活躍して、実力を認められて、国に必要とされる宮廷魔導士になれたら、そのときは女であることを公表してもいいだろうか。––––––イスナはああ言っていたけれど、王子に身分を偽り宮廷に入るなんて、通常であれば大罪のはず。宮廷魔導士団長で第三王子でもあるサクリは、どんな反応を示すのだろう。
「オレは、エアリが笑顔で過ごせるのならなんだっていいよ」
わたしの呟きを聞いてか、ツヅミお兄ちゃんはそう言って笑った。
「頼むから、オレが見ていないところでも、そうやって笑っていてくれよ」
その笑顔はどこか切そうで、傲慢かもしれないけれど、わたしはどうしても申し訳なさを感じてしまうのだった。
なんとなくもう書庫へ行く気にはなれなくて、わたしはその日、厨房に行ってシェフを手伝ったり、母の部屋で母とお喋りをしたりして過ごした。ちょっと母との距離が近いかなとも思ったけれど、サクリがどのタイミングで透視しているかなんてわからないし、このくらいは許してほしい。
リタルダンドの屋敷で過ごすのもあと一日。明日の夕方には馬車でアラルガンドの屋敷へ戻ることになっている。
書庫にあった伝記のことは気がかりだけれど、久しぶりに実家に帰って、両親ともたくさん話せて、よい時間を過ごせたと思う。
いつものように、セツラとイスナと「おやすみ」を交わして、彼らは鏡の向こうのそれぞれの自室へ去っていく。わたしは部屋の灯を消すと、ベッドの上の布団へ潜り込み、目を閉じた。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
『えあり』
名前を呼ばれて、はっと目を覚ます。––––––今のは?
いつも、夢の中でわたしを読んでいた声。––––––夢? わたしはいつも、夢を見ていた?
『リリー』
ベッドから上半身を起こし振り向けば、暗闇の中、焦った表情でわたしを見つめるセツラがいた。
「セツラ……? どうしたの?」
『書庫のほうから…………魔力の気配が…………』
死んでいるはずの彼の首筋に冷や汗が伝う。
『嫌な予感がします。……私が様子を見てくるから、あなたは寝ていて』
「そんな、わたしも行くよ。この屋敷に住んでいる人のことも心配だし」
『…………わかりました』
渋々頷いたセツラと、鏡の向こうから起きてきたイスナを連れて、わたしはそっと部屋を出た。
書庫の扉のドアノブに手をかける。脈打つ心臓を少しでも落ち着かせようと、静かに深呼吸をする。
「魔力の気配……って言ったよね。……属性は?」
『…………闇』
ぼそりと呟いたセツラの言葉に、大きく心臓が跳ねる。
『本当に、魔力の気配は僅かなんです。でも、これは––––––……』
『大丈夫? エアリちゃん』
ドアノブを握る手は震えていた。なにがこんなに怖いのだろう。わからない。わからないけれど、怖い。
『えあり』
扉の向こうから、声がする。わたしを呼ぶ声。何度も聞いた声。よく知っているはずの声。
けれど、忘れてしまった声。
震える手を無理やりに動かして、わたしは書庫の扉を開けた。
部屋の奥、肖像画の前に、誰かが立っている。
小さな窓から差し込む月明かりが、彼の顔を照らす。
「ツヅミお兄ちゃん……?」
震える足をなんとか動かして、彼のほうへ歩み寄る。
宙を見つめる虚ろな瞳は黒く濁っていた。
「どうしたの? ツヅミお兄ちゃ……」
わたしの声に反応し、黒く濁る瞳がわたしを見た。
『えあり』
名前を呼ばれた瞬間、感じたこともないほどの恐怖が襲い掛かり、体の力が抜けた。
思わず膝をつきそうになったわたしの身体をセツラが支える。
『大丈夫ですか!?』
わたしは呆然と、目の前にいるはずの彼を見つめる。
彼の口から溢れる、彼のものではない声。あなたは誰? どうしてわたしの名前を知っているの?
『えあり。あぁ、ようやく会えたね』
虚ろだった彼が、うっすらと口角を上げる。彼は、そっと腕を伸ばし、わたしの頬に触れようとした。
それをセツラが払いのける。
『…………セツラ・ルーノ・リタルダンド』
どうやら、彼の濁った黒い瞳には、セツラのことが見えているらしい。
『ツヅミ・アラルガンドの身体を乗っ取るつもりですか?』
『あぁ……それも悪くないかもしれないね』
そう言って、彼はうっそりと笑った。胸元で、闇色のペンダントが揺れる。
「それ、どうして……!? 置いてきたはずなのに」
『彼は置いて行こうとしたよ。でも、俺が持ってきた』
彼は大事そうにペンダントトップに触れた。闇色のペンダントは、彼の瞳と同じ色をしている。
『セツラ、こいつ誰なの? ツヅミの身体を乗っ取ろうとしてるって…………まさか』
『金髪碧眼……王族の血筋かな? その歳で死霊だなんて、可哀想に』
クスクスと笑う知らない男。言いようのない恐怖が体を包み、セツラに支えられて立っているのがやっとだった。
『今日はきみを迎えに来たんだ。さぁ、おいで。えあり』
ガクガクと恐怖で身体が震える。あぁ、思い出した。わたしは、わたしは––––––
『リリー、落ち着いて』
後ろから、ギュッとセツラがわたしの肩を抱いた。そのひんやりとした体温に、飲まれかけていた意識が浮上する。
『俺のものに手を出す気?』
『リリーはあなたのものじゃありません』
『リリー…………ねぇ』
冷めた表情で彼はセツラを見た。
知らない。こんな男知らない。どうして知らない声でわたしを呼ぶの。その黒い瞳はなんなの?
「ツヅミお兄ちゃん……!ねぇ、ツヅミお兄ちゃん!!」
透き通るようなルビー色の赤い瞳に戻ってきてほしくて、気づけばわたしはそう叫んでいた。
彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
『俺以外の男の名前を呼ぶんだ?』
「あなたなんて知らない!! ツヅミお兄ちゃんを返して!! ツヅミお兄ちゃん!!」
震える身体を押さえ込んでわたしは名前を叫んだ。名前を呼ぶだけで意識が戻ってくるなんて、アニメやゲームの世界だけかもしれない。でもわたしには、これしか思いつかなかった。
『っ…………』
まるで頭痛を抑えるかのように、彼が眉間に指をあてた。
その隙を見て、横でセツラが光魔法を発動させようとする。
『いいよ。今日は諦めてあげる』
彼は目を細めて笑った。その濁った黒い瞳はただただ、わたしだけを見ていた。
『俺が迎えに行くまで、誰のことも好きになっちゃダメだよ、えあり』
わたしの耳元で囁いて、彼は、ふっと身体から力を抜く。
「……!! ツヅミお兄ちゃん!!」
あわてて彼の体を受け止めようとして、でも、力が入らずセツラに支えてもらっているわたしが彼を受け止めきれるはずもなく、咄嗟にイスナが彼の体を受け止めてくれる。
目を閉じてぐったりとしている彼を、イスナはそのまま床に寝かせた。
「ツヅミお兄ちゃん!! ねぇ起きて!! ツヅミお兄ちゃん!!」
わたしは床に膝をついて、彼の体を揺さぶる。うっすらと、彼が目を開いた。
「…………エアリ……?」
「ツヅミお兄ちゃん!!!!」
開かれた瞳は綺麗なルビー色をしていて、わたしは心の底からほっとした。
「よかった……ツヅミお兄ちゃんが戻ってきて……」
涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、わたしは彼の身体に抱きついた。
「わ……! エアリ!? どうしたんだ!?」
彼は顔を赤くして驚いているけれど、わたしは構わなかった。ぎゅうぎゅうと彼の身体を抱きしめる。
『リリー。…………今後に備えて、彼にはちゃんと、何があったか話しておくべきかと』
『へぇ。セツラのことだから、ツヅミには何も教えない方向でいくのかと思っていたけれど』
『また簡単に体乗っ取られたら迷惑でしょう?』
二人の死霊の会話に、わたしは小さく頷く。抱きしめていたツヅミお兄ちゃんを解放すると、顔を赤くしながら彼は床から立ち上がった。
わたしも立ち上がると、彼の透き通ったルビー色の瞳を真っ直ぐ見据える。
「話したいことがあるの」
「体を乗っ取られた……? オレが……?」
わたしの話に、彼は信じられないとでもいうように大きく目を見開いた。
「ほんとだよ。目は真っ黒になってたし、知らない男の人の声で喋ってた」
「本当に?……お前に危害とか加えなかったか?」
こんなときでも自分の心配よりわたしの心配をする彼に、わたしは微笑んで返す。
「わたしは大丈夫だよ」
「本当か……?」
それでも心配そうにわたしを見つめるツヅミお兄ちゃんの手を、わたしはぎゅっと握った。––––––よかった。ツヅミお兄ちゃんは、ちゃんとここにいる。
「たぶん、そのペンダントが原因だと思うの。ツヅミお兄ちゃんの身体を乗っ取っていたのは、きっと……」
横目でちらりとセツラを見る。セツラは明言しなかったけれど、わたしは確信していた。
「魔王」
その言葉に、彼はもう一度大きく目を見開く。
「嘘だろ……なんで」
「わからない。でもたぶん、そのペンダントは魔王にゆかりのあるものなんだよ。魔王を倒したのは、わたしたちの先祖の『セツラ・ルーノ・リタルダンド』でしょう?」
「それは、そうだけど……」
彼は、首元のペンダントに触れる。
「このペンダント、置いてきたはずだったのに……」
「ねぇツヅミお兄ちゃん、そのペンダントは危険だよ。アラルガンドの家宝かもしれないけれど、どこかに捨てて……」
「こんな危険なもの、そのへんに捨てられないだろ。……やっぱり、オレが肌身離さず持っていないと」
ルビー色の赤い瞳は、わたしのことを見据え返していた。ツヅミお兄ちゃんらしい、強い瞳。
「わかった。……でも、少しでも身体が変だなと思ったら、すぐに教えてね」
「ああ。……オレは大丈夫。お前がここにいる限り、魔王に体をあけ渡したりなんてしないから」
「うん」
彼が力強く笑うから、わたしも力強く頷き返すしかない。
『……今回のトリガーはおそらく、この「書庫」、もしくは、朝見たあの「伝記」でしょう。しばらく、ツヅミ・アラルガンドはこの屋敷に近づかないほうがいい』
どうせ明日の夕方にはアラルガンドの屋敷に帰ることになっていた。馬車が迎えに来たらすぐに出発することにすればいい。
「帰ろう、ツヅミお兄ちゃん。アラルガンドの屋敷に」
「ああ。…………こわい思いをさせてごめん」
そう言って、彼はわたしの背中を優しく撫でた。
ツヅミお兄ちゃんと別れ、わたしは自分の部屋の扉を開くと、はーーーーっと、大きく息を吐く。
「さっきの、『魔王』、だよね」
セツラを見て尋ねれば、セツラは少し気まずそうに視線を逸らした。
『…………あなたがペンダントに触れさえしなければ、大丈夫だと思っていたんですが』
「でも、ペンダントを警戒していたから、アラルガンドの屋敷に置いていくように言ったんだよね」
『…………そうですね』
気づけば、ペリドットの瞳がじっとわたしを見つめていた。
『対のペンダントを持つツヅミ・アラルガンドとは距離を取れ、と言っても、あなたは困ってしまうでしょう?』
そう言って、彼は苦笑いを浮かべる。
「それは、そうだよ。……だって、『彼』は、わたしの名前を呼んでた」
『……そうだよセツラ。数百年前に倒されたはずの魔王が、どうしてエアリちゃんの名前を呼ぶの』
イスナの問いに、セツラは黙ってしまう。そもそも、魔王は本当に、セツラの手によって『倒されて』いたのだろうか。
「わたしのせいなんでしょ? ツヅミお兄ちゃんの身体が魔王に乗っ取られそうになったのは––––」
『それは違います!』
きっぱりと告げたセツラの言葉。揺らぐことなく真っ直ぐとわたしを見据えるペリドットの瞳。
『あなたはなにも悪くない。これだけは本当です』
「でもわたしは、」
なにもわからないけれど。でもたった一つだけ、思い出したことがある。
「あの人のことしか、好きになっちゃいけないの」
そう約束した。いつかどこかで。
『そんな「呪い」に、あなたが縛られる必要なんてない』
どうしてセツラは、そんなに悲しそうな顔をするのだろう。セツラは、なにを知っているの?
『思い出さなくていいんです、全部』
「でも……」
『難しいことはよくわかんないけどさ、前からエアリちゃんに感じてた「誰のことも好きになっちゃいけない」っていう強迫観念の原因は「魔王」ってこと?』
黙って話を聞いていたイスナが口を挟んだ。
「強迫観念……?」
『そう。ヴェンのときとかさ、全力で否定してたじゃん』
そうなのかもしれない。わたしは自分が「乙女ゲームの主人公のような立場」にあることを否定したかった。何故なら、わたしは誰のことも好きになってはいけなかったから。
『それが「魔王」の「呪い」だって言うなら、僕のこと好きにさせてあげるよ』
「え」
サファイアの瞳が、目の前にあった。金色の髪が触れそうな距離で、わたしの顔を覗き込んでいる。
『こんな秘密だらけのセツラじゃなくて、僕のことを好きになって。……僕は「死んでる」けど、でもきっと、「魔王」よりはマシだと思うから』
キラキラと輝くサファイアの瞳は、夜の闇とはほど遠い、澄んだ青空の色をしている。
『イスナ殿下』
低い声で言って、セツラがイスナをわたしから引き剥がした。
『なにさ。いつも思わせぶりな態度ばかり取って、彼女に「好き」の一つも言えない「臆病者」のくせに』
『私たちは死霊でしょう』
『そんなの僕がいちばんわかってるよ。でも僕だって、エアリちゃんが大切なんだよ』
『私は……!』
先ほどまで真っ直ぐにわたしを見ていたペリドットの瞳が、どこか不安げに揺れていた。
『彼女の幸せだけを、なによりも願っているだけです』
翌日。昼前にはアラルガンドから迎えの馬車が来ていたので、わたしたちは少し早めの昼食を食べ、アラルガンドの屋敷に帰ることにした。
「たまにでいいから、帰ってきてね。あなたのこと、いつでも思っているから」
「うん。また来るね、お母様」
「きっと、そのネックレスが、あなたのことを守ってくれるから」
「……うん」
玄関まで見送りに来てくれた母に別れを告げて、わたしは馬車に乗り込んだ。首元にネックレスのチェーンが見えていることに気づいて、わたしはネックレスを服で隠れるように付け直す。
馬車が進み出す。遠ざかっていく屋敷と、玄関前に佇む母に手を振る。前を見れば、向かいの席に座るツヅミお兄ちゃんも、同じように手を振っていた。
「お前はなにも心配しなくていいから。自分の心配だけしてろ」
小さな声で、ツヅミお兄ちゃんが呟く。その言葉に、わたしはむっとした。
「ツヅミお兄ちゃんがわたしの心配をしたいように、わたしだってツヅミお兄ちゃんの心配がしたいんだよ」
ツヅミお兄ちゃんははっとしたように目を見開いて、それから、優しく微笑んだ。
「……そうだな。このペンダントのことは、二人で考えていこう。お前のペンダントと『対』のペンダントなんだから」
彼がそう言って笑ってくれたことがうれしくて、わたしは強く頷き、微笑み返す。
『俺が迎えに行くまで、誰のことも好きになっちゃダメだよ』
昨夜聞いた『彼』の言葉が、ずっと耳に残って消えてくれないけれど、わたしはそれに、気づかないふりをした。




