第2話 : 薬の話は、あとで
廊下の向こうで、聞き覚えのある声がした。
語尾に混じる笑い声に、フィオナは膝の上の本を閉じた。
兄さんだ。
枕から背を起こし、肩から滑った赤い髪を払おうとして、指を止める。朝、整えてもらったきりだった。後ろへ手を回すと、一か所だけ毛先が絡んでいる。
会いたい。でも、あと少しだけ待ってほしい。
ほぐし終えるより早く、扉が叩かれた。
「フィオナ。入ってもいい?」
「はい」
返事が早すぎた気がして、唇を閉じる。掛け布を撫で、両手を重ねた。
サギリが顔をのぞかせ、こちらを見つけて目元を和らげた。
「よかった。起きてたんだね」
顔を見たら、最初の言葉はすんなり決まった。
「おかえりなさい、兄さん」
「ただいま、フィオナ」
名前を呼ばれると、重ねていた指が少し緩んだ。
窓からの光が黒い髪に触れ、右の赤い瞳を明るく見せる。フィオナはつい自分の髪へ手を伸ばしかけ、途中で戻した。
「どうかした?」
「ううん。何でもないの」
ちゃんと笑えているだろうか。
サギリは寝台の脇の椅子を、右手で引いた。反対側の袖口からのぞく継ぎ目に、フィオナの息が浅くなる。
「ここでいい? 近すぎない?」
「そこがいい」
思ったより、はっきりとした声になった。
サギリが笑って腰を下ろす。顔が、さっきより近くなった。
「姉さんには、もう会った?」
「うん。門の外まで迎えに来てくれたよ」
「私も、迎えに行きたかったな」
「今、迎えてくれたじゃない。おかえりって言ってもらった」
「それだけでいいの?」
「それがうれしいんだよ」
最後まで目を見ていられなくなって、膝へ視線を落とした。髪よりも、今の顔を見られるほうが恥ずかしかった。
「……帰ってきてくれて、うれしい」
「うん。俺も、会えてうれしいよ」
サギリは、フィオナの顔を少し覗き込んだ。
「今日は、具合どう?」
「今日は、楽なの。朝から本も読めたし」
「それならよかった」
サギリは小卓の薬の包みを手に取り、外側の文字へ目を通した。
「飲んだあと、つらくなることはない?」
「ないと思う。でも、効いているのかは、よく分からないの。……起きていられる日は、増えた気がする」
「うん。それも覚えておこう」
包みを戻し、少し困ったように笑う。
「薬の本って、知りたいところほど短いんだよ。だから、フィオナの話も聞きたかったんだ」
「向こうでも、調べてくれていたの?」
「うん。本が見つかれば読んでたし、薬草に詳しい人がいれば話も聞いた」
出発する前にも、彼はこの椅子に座っていた。
『ここにいるだけじゃ、分からないこともあるからさ。外で薬のことを調べてみたいんだ』
フィオナは掛け布をつかみ、その話を聞いていた。行ってほしくなかった。けれど、彼が探そうとしているのは、自分の病を治す薬だった。
「……ずっと、探してくれていたんだね。ありがとう、兄さん」
「まだ、調べてる途中だよ」
「それでも、ありがとう」
サギリは一度口を閉じ、小さく笑った。
「兄さん、疲れてない? 帰ってきたばかりなのに」
「大丈夫。フィオナが起きてるって聞いたから、先に顔を見たくて」
先に。
その言葉を、うれしいと思ってしまった。
「フィオナこそ、横になりたくなったら言ってね。俺、話し始めると長くなるから」
「長くても、いいよ」
本当は、長いほうがいい。もう少し声を聞いていられるから。そこまでは言えず、フィオナは微笑んだ。
「じゃあ、あとで薬の記録も見せてもらおうかな。今の包みに書いてあった薬草で、一つ確かめたいことがあって――」
調べてくれることは、うれしい。けれど、せっかくここに座ってくれたのだから。
帰る道で、どんなものを見たのか。薬に関係のないことだって、聞いてみたかった。
「兄さん」
「ん?」
フィオナは、彼の目を見た。
「薬の話は、あとでもいい? 今は、兄さんの話が聞きたい」
サギリは小卓へ向けていた身体を、フィオナのほうへ戻した。
「そうだね。何から話そうか」
指先の力が抜けた。
「綺麗な景色とか、見た?」
「帰り道に、白い花が一面に咲いてる丘があってね。遠くから見たときは、雪が残ってるのかと思った」
「全部、白いの?」
「ほとんど。真ん中だけ黄色くて、一つ一つはこんなに小さいんだよ」
右手の指で作った小さな輪を、フィオナは身を寄せて見た。
「風が吹くと一斉に揺れるんだ。少しだけ寄り道するつもりが、なかなか下りられなかった」
「何ていう花だったの?」
「それが、分からなかった」
「兄さんでも?」
「うん。見覚えはあったんだけど、名前までは出てこなかった」
「うちの本に、載っているかな。探してみたい」
「見つかったら教えて。俺も気になる」
彼が分からなかったことを、自分が見つけられるかもしれない。フィオナは、白い花びらと黄色い真ん中を覚えておこうと思った。
「葉っぱは、どんな形だった?」
「細くて長かったよ。絵があれば、それも一緒に見てみよう」
指で示す形を目で追ううちに、髪が一房、肩から前へ落ちた。今度は気にせず、耳の後ろへ払った。
窓から入った風に、サギリがそちらへ目をやる。会話が途切れても、もう迷わなかった。フィオナは彼の袖へ指先を伸ばした。
「兄さん。もう少し、ここにいて」
触れてから、子どもみたいだっただろうかと思った。
けれど手を引く前に、サギリの右手がそっと重なった。
「うん。まだ話してないこと、あるしね」
押さえられているわけではないのに、動かせなかった。手の甲から、じんわりと温かさが伝わってくる。
「……上のほうは、もっと風が強くてね。花がみんな同じほうへ傾くんだ」
話を聞きたいと頼んだのは、自分なのに。重なった手の温かさは、目を離しても消えなかった。
ふと目が合うと、彼が微笑んだ。
その目元に、幼い日の顔が重なった。
◇
幼いころ、帰り道が分からなくなったことがある。
木々の間を戻っても、見覚えのある場所へ出られなかった。
茂みが揺れた。低い唸り声。枝の間からのぞいた牙。
後ずさって木の根につまずき、地面についた手に力が入らない。魔獣が身を沈めた。
その姿を、黒い髪の少年が遮った。
サギリが手を上げる。目の前に淡い光の線が走り、幾重にもつながって、見たことのない模様を描いた。飛びかかってきた魔獣はその手前で止まり、次の瞬間には遠くへ弾き飛ばされていた。
光の模様が消えると、サギリはフィオナの前にしゃがんだ。
「見つけた」
そう言って、笑った。
涙がこぼれて止まらなくなった。ようやく立ち上がれたとき、差し出された手を握り、家へ着くまでずっとつかんでいた。
◇
今、自分に添えられている手は、あのころより大きい。
「フィオナ? 眠くなった?」
「ううん。迷子になったときのこと、思い出してたの」
「ああ、あのとき。顔を見たときは、ほっとしたよ。手は、なかなか離してくれなかったけどね」
今も、自分から袖に触れたのだった。
「……覚えてたの?」
「うん」
サギリは、それ以上からかわなかった。フィオナも手を引かなかった。
あのころは、家まで連れて帰ってほしかった。今は、話に出てきた丘が見たい。白い花の間を、彼と並んで歩いてみたい。
「元気になったら、私も見に行きたいな」
誰かに連れていってもらえれば、それでよいわけではない。
フィオナは彼の目を見た。
「兄さんと、一緒に」
サギリの口元が和らいだ。
「いいね。あの丘なら、ゆっくり歩くのがよさそうだ」
窓から入る風が、頬に触れた。その風が、話に聞いた丘にも吹いているような気がした。
扉を叩く音がしたのは、そのときだった。
「フィオナ、入ってもいい?」
姉の声だった。
今になって手を引くのも不自然な気がして、フィオナはそのままでいた。
扉を開けたレティが、二人を見る。
「何の話をしてたの?」
「兄さんが帰り道に見た花の話。白い花が、丘いっぱいに咲いていたんだって」
レティはサギリへ目を向けた。
「やっぱり。あんた、寄り道してたのね」
「少しだけね。ちょうど花が見頃だったから」
「その少しが長いのよ」
言葉のわりに、姉の口元は笑っていた。
「それで、何の花?」
「兄さんにも分からなかったの。本で探してみようと思って」
「花の絵がたくさん載ってる本があったでしょう。あれ、持ってきてあげる。見つけたら、私にも見せてね」
「ありがとう、姉さん」
レティは頷いた。それから、フィオナとサギリを順に見た。
「ねえ。二人に、話しておきたいことがあるの」
姉の声が改まって、フィオナは顔を上げた。
「私、冒険者になるつもりなの」
迷いのない声だった。
「今日すぐにって話じゃないわ。お父様たちにも、ちゃんと話してからよ」
フィオナは、姉の腰の剣へ目をやった。毎日、稽古へ行く姿を見ていた。けれど、これからは庭で剣を振るだけではない。家から離れた場所へ行くのだ。
「そっか」
サギリが言った。
「あとでゆっくり聞かせて。どんなふうに始めたいかも」
「ええ」
レティの表情が少し緩んだ。姉はもう、先のことを考えている。
どこの町へ行くのだろう。一人で行くのだろうか。
兄さんは。
やっと帰ってきたばかりなのに。
フィオナはサギリを見た。彼は穏やかな顔で、姉の話に耳を傾けている。その横顔からは、何を思っているのか読み取れなかった。
フィオナは、彼の袖に触れていた指先に少し力を込めた。
「俺も、そろそろ着替えてこないと。帰ってきたままだった」
添えられていた右手が、ゆっくりと離れた。手の甲が、急に外の空気に触れる。
もう少しと言いかけて、こらえた。旅から帰ったばかりなのだ。フィオナは、手を伸ばす代わりに微笑んだ。
サギリが立ち上がる。フィオナは彼を見上げた。
「花の絵が見つかったら、見に来てくれる?」
「もちろん。どれだか分かるといいね」
今聞きたかったこととは、少し違った。それでも、フィオナは頷いた。
二人の声が廊下へ移り、扉が閉まる。フィオナは手の甲へ、もう片方の手をそっと重ねた。
あの丘へ行けるのは、まだ先でいい。
まずは花の名前を調べよう。兄さんと本を開いて、違う、これかもしれないと話したい。
今日全部見つからなくても、明日また続きを探せばいい。
そんなふうに過ごせる日が、もう少し続いてほしかった。




