第3話 : 毎週、手紙を書くから
サギリが帰ってきた翌日の午後、三人はフィオナの部屋に集まっていた。
レティが持ってきてくれた花の本を、フィオナは寝台の脇に座るサギリと覗き込んでいた。
「これ、似てない?」
「花は似てるね。でも、葉っぱはもっと細かったと思う」
当てられなかったのは残念だった。でも、また別の花を見つけたら、兄さんに聞ける。
フィオナが栞を挟んで本を閉じると、サギリはレティへ顔を向けた。
「さて。レティの話も聞かせて。冒険者になって、どんなことをしたいの?」
レティは椅子の脇に立てかけた剣へ、一度目をやった。
「困っている人を、自分で助けに行けるようになりたいの」
声ははっきりしていた。レティは膝の上で手を重ね、サギリを見た。
「……あんたがいなかった間、戦争の知らせは何度も来たのよ。そのたびに、お父様に聞いたわ。サギリはそこにいるのかって。でも、分からないことばかりだった。私が剣を振っても、あんたが無事かどうかは分からなくて」
レティの視線が、フィオナへ移る。
「フィオナの具合が悪い日も、そう。何かできないかと思っても、何も思いつかなかった」
「姉さんは、そばにいてくれたよ」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「眠れないとき、本を読んでくれたでしょう。私、うれしかった」
姉は唇を少し開き、それから笑った。
「……ありがとう。でもね、待っているだけじゃなくて、自分から助けに行けるようになりたいの。そのために、冒険者になって経験を積もうと思ってる。高いランクになれば、任せてもらえる仕事も増えるでしょう。もっといろんな場所で、困っている人の力になれると思うの」
「うん。俺は応援するよ」
サギリは、姉の顔を見て言った。
「私も、応援してる。姉さんが毎日頑張ってたの、知ってるから」
稽古を終え、額に汗を残して部屋へ来る姉を思い出す。うまくいかなかった日も、翌朝にはまた剣を下げていた。
「……ありがとう、フィオナ」
「最初は、どこで仕事をするつもり?」
サギリが尋ねた。
「近くの都市で冒険者登録しようと思ってる。いきなり難しい仕事を受けるつもりはないわ」
行き先が決まると、出発する姉の姿がはっきり浮かんだ。
毎朝この部屋へ顔を出してから、姉は庭へ稽古に向かう。その足が、いつか門の外へ向かうのだ。
フィオナは次の言葉を、少し身構えて待った。
「レティ。俺も一緒に行くよ」
レティは、すぐには答えなかった。
「……一緒に、来てくれるの?」
サギリが頷く。途端に、姉の口から長い息がこぼれた。膝の上で握っていた手がほどけ、肩が下がる。
「よかった……」
さっきまで行き先も仕事もはっきり話していた姉が、今は確かめるようにサギリの顔を見ている。
「宿って、どうやって選べばいいのかしら。そんなことまで考えてたら、分からないことばかりで」
「一緒に探そう。道中のことも、準備しながら話せるよ」
「何を持っていけばいいかも、聞いていい?」
「夢と希望だけを持っていけばいい」
サギリがやけに真面目な顔で答えた。
レティはきょとんとして、それから吹き出した。
「それじゃ、着替えも持っていけないじゃない。……もう。ちゃんと教えてよ」
そう言いながらも、姉は笑っていた。
姉も、心細かったのだ。
フィオナは初めてそう思った。一人で行くつもりでいた姉は、今までこんなふうに分からないことを口にしなかった。
「ありがとう。……一緒に来てくれて、嬉しい」
「うん。俺も、薬のことをもっと勉強したいと思ってたんだ。都市に行けば、ここでは手に入らない本もあるだろうし」
サギリがフィオナへ顔を向けた。
「フィオナに合う薬、絶対に見つけてくるから」
フィオナは小さく頷いた。
兄さんも、行く。
知らない町でも、姉は一人ではない。よかった、と思った。
そのすぐあとで、向かいの椅子も、寝台の脇の椅子も空いてしまうことに気づいた。
「いつ、出るの?」
「まだ決めてないわ。お父様とお母様にも話さないといけないし、準備もあるから」
まだ、一緒に過ごせる日がある。それでも、視線は膝へ落ちた。帰ってきてくれたことを、もう少し喜んでいたかった。
「フィオナ」
顔を上げると、サギリの右手が、花の本の栞を軽く押さえていた。
「明日も、一緒に続きを見ようか」
「……来てほしい」
「うん。じゃあ、そうしよう」
フィオナは、顔を伏せずに頷いた。
◇
それから数日、サギリは時間を見つけては部屋へ来てくれた。姉も加わると、話はなかなか終わらなかった。
二人は父と母にも話し、出発の日を決めた。旅の支度も少しずつ進んでいた。まだ何日かあると思っていた朝が、いつの間にか、明日の朝になっていた。
「起きてる?」
扉からレティが顔をのぞかせ、寝台のそばに椅子を寄せた。今日は腰に剣を下げていなかった。
「支度、終わったの?」
「だいたいね。何か忘れてる気がして、何度も確かめちゃうんだけど」
膝の上で組んだ親指が、ゆっくりと擦れ合っている。
「姉さんも、落ち着かない?」
「……少しね。自分で行くって決めたのに、明日だと思うと」
「寂しくなるね」
口にすると、思っていたよりはっきりと聞こえた。
「朝、姉さんが顔を見せてくれるの、楽しみだったの」
レティは手を伸ばし、掛け布の上にあったフィオナの手を、そっと握った。
「私もよ。今日はこんなことができたって、フィオナに話すのが」
「帰ってきたら、聞かせてね。うまくいったことだけじゃなくて、うまくいかなかった話も」
「……格好つけられないわね」
「私には、つけなくていいよ」
姉が笑った。
姉の手のひらは、指の付け根が少し硬かった。毎日握っていた剣の柄を思い、そこへ自分の指をそっと添える。
明日から、この手が知らない場所で剣を振る。
「姉さん、無理はしないでね」
「ええ。気をつける」
レティはすぐには手を離さなかった。フィオナも、そのままでいた。
◇
部屋に灯りがともってから、サギリが訪ねてきた。
右手に、小さな箱を持っていた。
「明日の朝も、出る前に顔を見に来るよ。それと、毎週、手紙を書くから」
「毎週? 忙しくない?」
「旅なんて、暇な時間のほうが多いものだよ。どんな町だったか、何を見たか書く。今度は花の名前も聞いてくるからね」
「長くなっても、全部読むよ」
「じゃあ、遠慮なく書こうかな」
まだ届いていない手紙を、もう待ち遠しく思った。
「それから、これも」
サギリは卓に箱を置き、蓋を開けた。
中にいたのは、小さなうさぎだった。丸い身体に、長い耳。背中には、生き物の毛並みとは違う、滑らかな艶がある。
飾り物だろうかと思ったとき、片方の耳が動いた。
「……動いた」
うさぎは箱の縁に前脚をかけて外へ出ると、卓の上でちょこんと座った。
「小さなゴーレム。うさぎにしてみたんだけど、どうかな」
「これも、兄さんの魔法なの?」
「うん。動くようにしてみた」
サギリは何でもないことのように答えた。
フィオナは、うさぎの頭へ指先をそっと下ろした。硬い感触なのに、うさぎは自分から額を寄せてきた。フィオナの指が止まると、もう一度押しつけるように頭を動かす。
「もっと、ってこと?」
「たぶんね。気に入ったみたいだ」
背中まで撫でると、耳がゆっくりと倒れた。
「かわいい」
「耳は、少し迷ったな。長すぎても、短すぎても、何だか違ってさ」
明日には旅立つ人が、耳の長さまで迷いながら、ここに残すものを作ってくれた。
「ありがとう、兄さん」
いつ覚えたのか、もっと聞いてみたかった。けれど、兄が自分から話していないことまで尋ねるのは、ためらわれた。
そういえば、戦争の間に一度、この部屋へ来てくれた夜にも、不思議に思ったことがあった。
◇
眠りの向こうで、母の声がしていた。それに答える、聞き覚えのある低い声。
目を開けると、母の隣に、長い外套を着た人が立っていた。
縁に細かな模様のある、見慣れない魔道士の装い。黒い髪の下から、赤と黒の瞳がこちらを向いた。
「兄さん……?」
「起こしちゃった? 少しだけ、顔を見に来たんだ」
伸ばした手に、外套の縁の模様が触れた。見慣れない装いでも、声はいつもの兄さんだった。
「ここにいて」
「うん」
フィオナは今日読んだ本の話をした。何の話だったかは、今でははっきり覚えていない。戦争のことも、見慣れない服のことも、その夜はほとんど聞けなかった。
「兄さん」と呼べば、すぐに返事がある。それがうれしかった。
◇
うさぎが、先ほどまで指のあった場所へ鼻先を向けていた。
「寂しくなったら、この子に話してもいい?」
「もちろん。俺にも、帰ったら聞かせてね」
フィオナは空いているほうの手を、彼へ伸ばした。サギリの右手が、その手を受け止めた。
「ちゃんと、帰ってきてね」
「うん。また、ここで話そう」
握り返してくれた手が温かかった。
明日の朝、手を離すときは寂しいだろう。でも今夜は、兄さんがそばにいる。卓には小さなうさぎがいて、まだ決めていない名前のことを、二人で話す時間があった。
朝、扉が叩かれる前から、フィオナは起きていた。
「フィオナ、入るわね」
レティに続いて、サギリが顔を出した。姉の腰には剣があり、サギリも上着を着ていた。それだけで、昨日とは違って見えた。
「行ってくるわ、フィオナ」
「気をつけてね」
レティが少しかがんで、軽く抱き寄せる。離れるとき、フィオナは姉の服をつかみかけた指を、ゆっくり伸ばした。
「俺も、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい、兄さん」
彼の右手が、フィオナの手をそっと握る。
「手紙、待っててね」
「待ってる」
手が離れてからも、フィオナは顔を伏せずにいた。
「窓から、見てるね」
「うん。じゃあ、そっちを見るよ」
母に手を貸してもらい、窓辺の椅子へ移った。膝の上に、うさぎも乗せてもらう。
庭を横切る二人の姿が見えた。レティが何か話すと、サギリがそちらへ首を傾ける。
庭を抜ける手前で、サギリが足を止めた。
こちらを見上げる。
右手が高く上がった。
フィオナは窓へ向けて手を振った。レティも振り返り、姉の手が上がった。
二人が歩き出しても、フィオナは手を下ろせなかった。やがて二人の姿は、庭の先へ消えた。
「もう少し、ここにいる?」
「うん」
母も隣で、庭を見ていてくれた。
うさぎが手の下へ頭を差し入れてきた。撫でると倒れる耳に、その形に迷ったという声を思い出す。
「行っちゃったね」
うさぎは返事をせず、指へ額を押しつけた。
笑いかけたが、うまくいかなかった。フィオナは唇を結び、小さな身体を両手で包んだ。
寂しかった。
明日の朝は、姉の稽古前の挨拶も、兄さんの来る足音もない。
手紙が届いたら、聞きたいことがたくさん浮かぶだろう。忘れないように、書いておこう。帰ってきたとき、今度は自分から話せるように。
「最初の手紙、何が書いてあるかな」
そう言ってから、もう一度、二人が歩いていった庭の先を見た。




