第八話 旦那様と夜会に出席することになりました。
アレクシスが謝ってくれた。それは、フレアにとって大きな一歩だった。
あの日を境に、アレクシスに対する苦手意識も少しだけ薄れた気がする。
だがもちろん、だからといって何かを期待するようになったわけではない。
『俺は君を愛するつもりはない』と、アレクシスは結婚式の夜、はっきりと言った。そしてその言葉を、フレアはきちんと受け止めている。
だから彼が少し優しくなったからといって、夫婦としての愛情が芽生えるのではないか、などと期待するつもりはなかった。
アレクシスが動けるようになり、騎士団の仕事に復帰して二か月……。
あれからも、アレクシスのほうから話しかけてくることはほとんどない。
でもフレアは毎朝かかさず挨拶をした。
「アレクシス様、おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「……」
アレクシスは黙ったまま、赤い瞳をフレアのほうに動かした。
「よいお天気ですね。今日もお忙しいと思いますが……どうぞお気をつけて」
「……」
これでも前より、話しかけたときに目が合うようになったと思う。特に返事がないことに関しては、気にしないことにしていた。
こんな関係を夫婦とは呼ばないのかもしれない。でも、フレアは妻としてできることは、率先して行った。
食事の好みを料理人に確認したり、帰宅時間に合わせて湯浴みの準備を整えたり、疲れているようなら無理に話しかけず、静かに休める環境を用意したり……。
もちろん、屋敷の使用人たちとの交流も欠かさない。皆が気持ちよく働けるように気を配り、ときには一緒にお茶を楽しみ、困っていることがあれば相談に乗る。
そんな日々を重ねるだけで、フレアは満足していた。
しかしそんな穏やかな日常だけを続けられるわけではない……ある日のこと、フレアはアレクシスと共に夜会へ出席することになった。
それは王城で催される騎士団関係者の祝賀会。北方の毒鳥討伐をはじめ、各地で任務を果たした騎士たちの功績を称えるためのもので、騎士団の幹部には家族同伴での出席が求められていた。
アレクシスも第一騎士団長として参加しなければならず、当然、妻であるフレアも同行することになったのだ。
――アレクシス様と、夫婦揃っての社交の場……って、結婚式以来じゃない?
フレアは姿見の前に立ち、ドレスの裾をそっと整えた。身に纏っているのは、落ち着いた淡い青色のドレスだ。光沢のある絹地には繊細な刺繍が施されているが、装飾は控えめで、華美すぎない上品な仕上がりになっている。髪もすっきりと結い上げ、小粒の宝石がついた髪飾りを添える程度に留めた。
夫婦として初めて参加する大きな夜会だが、なんとなく目立ち過ぎないようにしたほうがいいのかと考えてしまう。アレクシスは華やかな社交を好む人ではないし、必要以上に人目を集めたり、夫婦仲についてあれこれ詮索されたりするのも、きっと嫌だろう。
でも騎士団長の妻として恥ずかしくないよう、礼儀と愛想だけは欠かさずにいなければ。
フレアが鏡の中の自分に小さく頷いたところで、扉が叩かれた。
「奥様、旦那様がお待ちでございます」
「ありがとう、リドルさん。すぐに参ります」
フレアは最後にドレスの皺を整え、部屋を出た。
玄関ホールへ向かうと、すでに正装したアレクシスが待っていた。
濃紺の騎士団礼装に、銀糸の刺繍が施された肩章。胸元にはいくつもの勲章が輝いている。
普段から威厳のある人だが、こうして正装すると、その堂々たる体格と精悍な顔立ちがいっそう際立った。
……今更だが、すごい人と結婚したものだ。この人の隣に立つのだと思うと、急に緊張してくる。
「……お待たせいたしました、アレクシス様」
アレクシスはフレアへ視線を向けた。その目が、ドレス姿のフレアを上から下へとゆっくり辿る。
「……行くぞ」
「はい……」
褒めてもらえなかったが、文句も言われなかった。
特に何も言われないのであれば、この格好は問題なかったということだろうか。
フレアはアレクシスに気づかれないようにこっそりと深呼吸して、馬車に乗り込んだ。
*****
王城の大広間に到着すると、すでに多くの貴族や騎士たちが集まっていた。
楽団が奏でる優雅な音楽と、談笑する人々の声。和やかな雰囲気だったが、アレクシスが姿を現すと、周囲の空気がわずかに変わった。
「……第一騎士団長だ」
「アレクシス団長がお見えになったぞ」
近くにいた騎士たちが、すぐさま背筋を伸ばす。
それまで賑やかに話していた者たちも、アレクシスの姿を認めると姿勢を正し、敬意を込めて頭を下げた。
アレクシスは彼らに視線を向けることもなく、広間の奥へと進んでいく。フレアはその半歩後ろを、穏やかな笑みを浮かべながら歩いた。
「……おい。あの方が団長の奥方か?」
「ああ。結婚したばかりだというのに、団長がすぐ遠征に出て一か月放置されたという……」
「遠征って団長が自ら総指揮官に志願したんだろう? 新婚とか関係なく国のために動くのは団長らしいが……奥方は堪ったもんじゃないよなぁ」
「……しかし奥方は嫌な顔ひとつせず送り出して、団長が帰ってくれば献身的に看病したと聞いたぞ」
「……その噂、本当だったのか」
通りすがりに、ひそひそと囁き合う声が聞こえる。
ちょうどアレクシスが足を止めたので、フレアもそこで立ち止まり、声の聞こえたほうへにこっと会釈をした。
「皆様、こんばんは。いつも主人がお世話になっております」
フレアが声をかけると、ひそひそと囁き合っていた騎士たちが弾かれたように背筋を伸ばした。
「はっ……! こ、こちらこそ!」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。私も皆様とお会いできるのを楽しみにしておりました」
「き、恐縮です、ブレンダム公爵夫人!」
周りの騎士たちまで、驚いたようにこちらを凝視してくる。
フレアは周囲の少し大げさなまでの反応に緊張し、何か話さなければと焦った。
「えぇっと……北方の討伐では、皆様も大変だったそうですね。無事にお戻りになって、本当によかったです」
「い、いえ! 我々など、団長に比べれば……!」
「アレクシス様も、皆様がご無事だったことを喜んでいらっしゃると思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたしますね」
そう言って優雅に会釈すると、騎士たちは一斉に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
それがもう……会場のほとんどの騎士たちがフレアを向いて頭を下げていたと言っても過言ではなかった。
思わぬ注目を浴びてしまい、フレアは勝手な挨拶をしたことを今更ながらに不安になり、ぎこちなくアレクシスを見上げる。
するとアレクシスはいつもと変わらぬ顔で、じっとフレアを見ていた。
「……す、すみません……。勝手に、挨拶を……」
「……いや、問題ない」
そっけない返答だったが、フレアは大いにホッとした。
安堵で顔が少し緩むと、またどこかからかひそひそと声が聞こえてくる。
「……すごいな。団長があんなに近くにいるのに、ずっと微笑んでいらっしゃるぞ。あの奥方、ただ者ではないな」
「……確かに。俺だったら、いつ叱られるか気が気じゃない」
「なんて肝の据わった御方なんだ……」
「屋敷の使用人たちにも、とても優しく接していらっしゃるそうだ」
「……団長にはもったいないほど、気遣いのできる御方だな」
騎士たちは顔を見合わせ、深く頷き合っている。
しかしアレクシスが冷たい視線をすっと向けると、騎士たちはピシッと固まって口を閉ざした。
全20話です。続きます。




