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第七話 旦那様から初めて、気遣いと謝罪を受けました。

「……俺の看病で疲れていると聞いた。無理をするな。俺のせいで君が倒れたと言われたら困る」


 いつものように険しい顔で、少々ぶっきらぼうな口調だった。しかし、怒っているようには見えない。言葉の端々には棘があるし、純粋な心配というより、責任を負わされたくないという意味にも聞こえる。


 けれど、それでも……気遣ってくれたようにフレアには聞こえた。


 驚きのあまり、アレクシスの顔をまじまじと見つめてしまう。何しろアレクシスから気遣う言葉をかけられたとしたら、これが初めてになる。これまでの彼といえば、挨拶をしても返事をせず、何か話しかければ冷たく突き放すばかりだったから。

 

 ――旦那様が、私の体調を心配してくださるなんて……。もしかして、リドルさんが言ってくれたおかげかしら? 普段はあれほど偉そうにしているのに、リドルさんに叱られて、渋々ながら妻を気遣うことにしたのなら……ちょっと可愛いわね。


 どれほど気難しい主人であっても、長年仕えた使用人の言葉なら、多少は耳を傾けるものなのか。

 

 フレアの口元が自然と緩む。


「……何がおかしい?」


 すぐさま、アレクシスの低い声が飛んできた。どうやら笑っていることに気づかれてしまったらしい。


「い、いいえ。何でもありません」


 フレアは慌てて表情を整えた。


「……お気遣いありがとうございます。少し休みましたので、もう大丈夫です。今後、体調を崩さないように気をつけますね」


 そう答えると、アレクシスは何とも言えない表情になった。眉間に深い皺を寄せ、何か言いたげに唇を引き結んでいる。


 また何か気に障ったのだろうか。


 気になったが、アレクシスはそれ以上何も言わない。だからフレアも深く考えないようにした。


「今日は調理場の皆さんが、栄養のあるスープを作ってくださいました。お肉も柔らかく煮込んでありますから、きっと召し上がりやすいと思います」


 フレアは明るく話しながら、ワゴンを寝台のそばへ寄せた。銀の蓋を外すと、湯気と共に食欲をそそる香りが広がる。


 ……そのときだった。


「……待て」


「はい?」


 台に添えていた左手を、突然ぐいっとアレクシスに掴まれた。


 アレクシスの大きな手が、フレアの手首を握りこむ。病み上がりとは思えないほど力強く、びくりとも動かせない。


 心臓がどきんと跳ねた。


 ――な、何……?


 フレアが動揺してるのに気づいていないのか、アレクシスはフレアの手を持ち上げ、じっと見つめる。

その眼差しは、先ほどまでとは明らかに違っていた。鋭く、真剣だ。


「……この手の傷は?」


 アレクシスは低い声で言った。


「手の傷……?」


「掌の、だ」


 アレクシスはフレアの左手を返し、掌を上に向けた。


 そこには、斜めに走る細い傷があった。傷口はすでに塞がりかけているものの、まだ赤みが残っている。


「結婚式のとき、こんな傷はなかっただろう。どうした?」


「えっと……」


 フレアは自分の掌を見下ろし、言いよどむ。


 ――……な、なんて説明すればいいのかしら。


 フレアは内心で冷や汗をかいた。


 まさか、あなたに取り押さえられて怪我をしました、などとは言いにくい。意識が混濁していたアレクシスは、フレアが刃物で自分を襲おうとしていると錯覚したようだったし、フレアにはそれを責めるつもりがまったくなかったから。


 あれはアレクシスのせいではない。ただの事故だと思っている。


 だからフレアは曖昧に微笑んだ。


「……不注意でちょっと切ってしまいまして。大した傷ではありませんので、お気になさらず……」


 できるだけ何でもないことのように答える。しかし、アレクシスは納得しなかった。


 むしろ、その表情はさらに険しくなる。


「……不注意でこんなところを切るか? 傷の治り具合からして三日ほど前か。俺が帰ってくる前か、後か? ……誰にやられた? 屋敷の人間か?」


 アレクシスの声が一段低くなり、フレアの手を掴む指にわずかに力がこもった。


 目は鋭く、顔つきも先ほどまでとはまるで違う。もはや病人の面影はなく、部下の不始末を追及する騎士団長そのものだった。


 ほんの少し傷を見ただけで、いつ頃のものなのかまで推測してしまうとはさすが、数々の戦場を経験してきた騎士団長……なんて感心してる場合じゃない。


「誰だ。名前を言え」


 フレアの背筋に冷たいものが走る。まさか、手の傷ひとつでこんな尋問が始まるとは思わなかった。


「……私がお屋敷の誰かに苛められたとでも? そんなひどいことをする人はいませんわ」


 フレアは何とか平静を装い、やんわりと首を振った。


 けれど、アレクシスはまだ納得していないようだった。


「……じゃあ、どうして……?」


 低く呟きながら、アレクシスが今度はフレアの手首へ視線を移す。


「……よく見たら、手首にも誰かに掴まれたような痣が……」


 アレクシスの指が、フレアの袖口をわずかにずらし……そこで言葉が途切れた。


 痣を見つめたまま、ぴたりと動きを止めている。


「……アレクシス様?」


 フレアが恐る恐る気遣うように声をかけると、彼の顔からすっと血の気が引いていった。


「……っ」


 突然、掴んでいた手が離された。


 アレクシスはひどく動揺した様子で、片手を口元に当てる。眉間には深い皺が刻まれ、視線は宙を彷徨っていた。


 そして――。


「…………俺、か」


 ぽつりと、低い声が漏れた。


「……え?」


「……その傷をつけたのは……俺なのか」


 フレアは目を見開いた。


「……も、もしかして思い出したんですか? あのときのこと……」


「…………」


 アレクシスは答えなかった。だがわずかに強張った肩と、険しく歪んだ表情が、何よりも雄弁に物語っていた。


 どうやら、あのときのことを思い出したらしい。


「ど、どうかお気になさらず……」


 フレアがフォローの言葉を口にしようとしたとき、アレクシスは深く息を吐いた。


「……っ…………すまない」


「…………え?」


 掠れた声だった。


 アレクシスはフレアと目を合わせないまま、絞り出すように続けた。


「……悪……かった……」


「…………」


 フレアは、ぱちぱちと瞬きをした。

 

 アレクシスはひどく苦々しい表情を浮かべていた。過去の過ちを、酷く悔いているような顔……。


 ――今、アレクシス様が、謝った……?


 信じられなかった。あまりの驚きに、フレアは言葉を失った。


 正直なところ、彼は絶対に謝らない人だと思っていた。


 けれど……どうやらそうではなかったらしい。アレクシスは自分が悪いと分かれば、きちんと謝罪できる人だったみたいだ。


 ――……なんだ。そういうところは、ちゃんとしているのね。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 もちろん、傷をつけられたこと自体は怖かった。けれどアレクシスも、好き好んでフレアを傷つけたわけではない。それが分かっているからこそ、彼が自分のしたことを気に病んでいる様子を見ると、何だかこちらまで申し訳ない気持ちになってしまった。


「……どうぞお気になさらず。毒でお辛かったのですから、仕方ありませんよ。私こそ、あのときは驚かせてしまってごめんなさい。脱がすのが大変だからって、ハサミで切るというのは、ちょっと大胆でしたよね……。もう少し慎重にすればよかったです。今度から気をつけますね」


 フレアはアレクシスを安心させたくて、できるだけ明るい声で答えた。


 ところがアレクシスはぐっと眉根を寄せ、唇を固く引き結んでしまった。


 ――えぇ……? どうしてもっと怖い顔になるの……?


 許すと言われて気に入らないことなど、あるのだろうか。それとも、まだ自分のしたことを思い出して、腹を立てているのか。


 ただ俯いたまま、ぎゅっと片手を握り締めている。


 フレアはアレクシスの気持ちが分からず、内心で困り果てた。


 もう今はこれ以上何も言わず、そっとしておいたほうがいいのか……。


「……お、お食事は自分でできますか?」


 フレアは話題を変えることにした。


 アレクシスはしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。


「……あぁ」


「そうですか。では、こちらに置いておきますね」


 フレアは料理の載った台を、アレクシスが手を伸ばしやすい位置へ移動させた。スープはまだ温かい。パンも小さく切り分けてあるので、食べやすいはずだ。


「無理に全部召し上がらなくても大丈夫ですよ。食べられる分だけで結構ですから」


「…………」


「それでは、お食事が済んだ頃に人を寄こしますね。何かありましたら、呼び鈴を鳴らしてください」


 アレクシスは答えなかった。


 フレアもこれ以上話しかけるのを諦め、静かに一礼した。


「……失礼いたします」


 フレアは扉に向かい、そっと廊下へ出た。


 そして、扉を閉めたところで――。


「……はぁ」


 大きく息を吐いた。それから、片手を胸元に当てる。


 まだ胸はドキドキしていた。


 ――アレクシス様が、謝ってくれた……。


 思い返して、アレクシスの言葉を噛みしめる。


 今までの扱いがひどすぎて、謝ってくれただけでこの感動。あまりに単純という自覚はあるが、人として当然のコミュニケ―ションが取れたのは嬉しかった。


 それができる人なのだと分かっただけで、少し安心した。


 もちろん今日のような会話がそう何度もできるとは限らないし、明日になればまた冷たく突き放されるかもしれない。


 でも淡い期待が胸に芽生えてしまった。


 夫婦として愛し合いたいなどという大それた望みは持たないつもりだ。ただ、必要な会話を交わせる程度の関係にはなれたらいい……。フレアにとっては、それだけでも十分な進歩だから。


「……奥様?」


 ふいに声をかけられ、フレアは顔を上げた。


 廊下の向こうから、メリーがこちらへ歩いてきたところだった。どうやら、アレクシスの寝室から出てきたフレアに気づいたらしい。


「どうなさったんですか? なんだか、とってもいいお顔をされていますけど……」


 メリーは不思議そうに首を傾げた。


「ふふ……少し、いいことがあったの。それだけよ」


 フレアはそれだけ言って、微笑んだ。


 アレクシスの新しい一面を知れたことは、何となく、自分の胸の内にしまっておきたい気がした。

全20話です。続きます。

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