第五話 旦那様が元気になって安心しました。
それからしばらくアレクシスの高熱は続いた。
意識は朦朧としており、呼びかけても反応が鈍い。ときおり目を開けることはあったものの、こちらの声が届いているのかどうかも分からなかった。
「アレクシス様、私が分かりますか?」
「…………」
「お水をお持ちしました。少し飲めそうですか?」
「……ん……」
返ってくるのは、曖昧な呻き声ばかり。あれほど人を寄せつけず、冷たい言葉を浴びせてきた人が、今は何も言わずに横たわっている。嫌なことを言われなくて済むのは助かるけれど、ここまで何も話せないと心配しかなかった。
いっそ、いつものように「出ていけ」と睨みつけてくれたほうが安心できるかもしれないと思うほどに。
汗をかいたら体を拭き、寝間着や寝具を取り替える。熱で苦しそうにしていれば額の布を交換し、医師の指示に従って水分を与えた。
少しでも意識がはっきりしているときには、調理場で用意してもらった栄養のあるスープを口に運んだ。
「アレクシス様、少しだけ召し上がってみましょうか」
フレアがスプーンを差し出すと、アレクシスは薄く目を開けた。けれど、口を開く気力もないのか、ぼんやりと見つめるだけだ。
「……一口だけでも。体力をつけないと、毒にも負けてしまいますよ」
根気よく声をかけると、ようやく唇がわずかに開いた。スープを飲み込むのを確認してから、次の一口を差し出す。けれど、三口ほど飲んだところで、アレクシスは顔を背けてしまった。
「……もういらないのですね」
フレアは小さく息を吐き、スプーンを置いた。
――……こんなに大きな体なのに、これだけしか食べられないなんて。
これでは体力が落ちてしまう。けれど、無理に食べさせることもできない。
今はとにかく、体を休ませることが大切だ。
フレアはアレクシスの額に浮かんだ汗を拭い、そっと掛け布を整えた。
昼も夜も、そんな看病が続いた。もちろん、使用人たちも交代で世話をしてくれる。でもフレアは使用人に完全に任せて、自分は寝室を離れるということができなかった。
自分が見ていない間に容体が急変してしまうのではないかと、怖かったから。
「奥様も、少しお休みください」
「ありがとう、メリー。でも、もう少しだけ……」
「奥様、それは先ほども仰っていましたよ」
「あら……そうだったかしら」
苦笑してみせるものの、体には少しずつ疲労が溜まっていた。夜中に何度も起きてアレクシスの様子を確かめていたせいで、まとまった睡眠も取れていない。
それでも……アレクシスから離れようとは思えなかった。
*****
そして――帰還から三日目の夜、アレクシスの呼吸がようやく少し落ち着き始めた。
額に触れてみると、まだ熱はあるものの、これまでのような焼けつく熱さではない。今日は水を飲める量も増えている。
――良かった。これなら明日は、もう少し食べられるかも……。
穏やかになったアレクシスの寝顔を見つめながら、フレアは小さく微笑んだ。
――……このまま、元気になってくれますように。
*****
その翌日――アレクシスの帰還から四日後。
朝の着替えを手伝っていたフレアは、久しぶりにはっきりとした声を聞いた。
「……そんなに俺に気に入られたいのか?」
「…………」
フレアは手を止め、アレクシスの顔を見た。
寝台に上半身を起こした彼は、まだ顔色こそ悪いものの、しっかりとこちらを見据えている。眉間にはいつものように深い皺が寄り、その目には不機嫌そうな光が宿っていた。
――あらあら。嫌味が言えるくらい元気になったのね。
フレアは思わず苦笑した。胸に刺さる言葉を投げつけられたというのに、一瞬ほっとしてしまったなんておかしな話だけど。
「……アレクシス様に気に入られたくてやっているんじゃありませんよ」
フレアは穏やかに答えながら、彼の寝間着の袖を整えた。
「屋敷の誰が体調を崩しても、私は同じように看病します」
「は……?」
アレクシスの眉がぴくりと動いた。
「……使用人もか?」
「はい」
フレアは当然のように頷いた。
「リドルもメリーもユアも、他の使用人でも、調理場の皆さんも庭師の皆さんも、誰でもです」
「…………」
「アレクシス様を特別扱いしているわけではありませんので、どうぞお気になさらず」
そう付け加えると、なぜかアレクシスの表情がさらに険しくなった。
「…………なぜ、そこまでする?」
「え? 親しくなった人たちが病気になったら、心配ですから」
「………………」
わざわざ何を聞くのだろうと思いながら答えると、アレクシスはしばらく黙っていた。
それから、低い声で問いかけてくる。
「……いつの間に、屋敷の者たちとそんなに親しくなったんだ?」
「……アレクシス様が遠征に行かれていた間にですが?」
「たった一か月だろう」
「一か月もあったのですよ?」
お茶を飲みながらお喋りしたり、屋敷を案内してもらったり、庭園に咲く花の名前を教えてもらったり……皆、とても親切にしてくれた。もちろん、まだ知らないこともたくさんあるけれど、少なくとも彼らが具合を悪くしたら心配する程度には親しくなれたと思っている。
しかし、アレクシスは納得がいかない様子だった。眉間の皺をさらに深くし、じっとフレアを見つめている。
――なんでそんな顔をするのかしら? 使用人たちと仲良くなったことが、何か問題なの……? でもアレクシス様は、この屋敷で自由に過ごしていいと言ったわよね……?
フレアが不思議に思っていると、アレクシスは不意に視線を逸らした。
「……もういい。部屋を出ろ」
「……承知いたしました。何かありましたら、遠慮なく使用人をお呼びください。それでは、失礼いたします」
自分から質問しておいてその反応は何なのか。相変わらずよく分からない反応をする人である。しかしその理由を尋ねても、きっとまともな返事は返ってこないのだろう。
フレアは静かに一礼し、寝室をあとにした。
そして扉を閉めたところで、思わず噴き出してしまう。
「……ふふ」
元気になった途端にあの調子に戻るなんて笑ってしまう。でも高熱が下がったのは本当によかった……。
そんなことを考えながら歩き出した、そのときだった。
「……っ」
ふわりと視界が揺れた。
廊下の景色が一瞬遠のき、足元がふらつく。
フレアは慌てて壁に手をついた。しかし、頭の奥がぼんやりして、うまく力が入らない。
「奥様……!」
どこにいたのか、メリーが駆け寄ってきた。
「奥様、大丈夫ですか!?」
「えぇ……大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ」
フレアは安心させるように微笑んだ。けれど、メリーの表情は晴れない。
「お顔が真っ青です! 旦那様の看病でお疲れなのでしょう。どうかお休みください」
考えてみれば、この三日間、ほとんど寝ていなかった。食事も慌ただしく済ませるばかりで、落ち着いて休む時間はなかったように思う。
アレクシスの熱が下がり、安心した途端に疲れが出てしまったのかもしれない。
「ごめんなさい……そうするわね。あ……一時間くらいしたら、誰かアレクシス様にお水をお持ちしてあげるように伝えてくれる?」
「はい、承知いたしました」
「それから、まだ熱があるから、額の布も取り替えて……ああ、食事の準備もそろそろ……」
「奥様!」
メリーが珍しく強い口調で遮った。
驚いて目を瞬くと、彼女は真剣な顔でフレアの両手を握り締める。
「奥様は旦那様のことを考えず、まずはしっかりお休みください。奥様はこの三日間、ずっと旦那様に付きっきりだったではありませんか。奥様もご自分を大切になさってください。奥様が倒れたら、リドルさんもユアも、屋敷の皆が心配しますよ」
その言葉に、フレアははっとした。
確かにアレクシスの看病に夢中になるあまり、自分のことを後回しにしていた。それで周りに心配をかけてしまっては本末転倒だ。
「……えぇ、そうね。ありがとう、メリー。じゃあ少し休ませてもらうわ」
「はい! どうぞゆっくりお休みくださいませ!」
メリーに付き添われ、フレアは自室へ向かった。
*****
自室に戻ったフレアは、少し横になるだけのつもりだった。けれど、自分が思っていた以上に疲れていたらしい。
あっという間に深い眠りに落ちて、次に目を覚ましたときには、窓から差し込む日差しが少し傾いていた。
――眠ったらラクになったわね……。
頭の重さはすっかり消え、先ほどまでの眩暈もない。
フレアがすっきりした気持ちで寝台から降りようとしたとき、扉が控えめに叩かれた。
全20話です。続きます。




