第四話 形だけの妻ですが、旦那様の看病をさせていただきます。
さっきまではようやく帰ってきたアレクシスとどう接しようかと悩んでいたが、そんなの全部吹き飛んでしまった。
フレア自身も水を張った桶とタオルを受け取り、アレクシスの寝室へと向かう。
妻として夫を助けなきゃいけない。その想いだけで体が動く。
「アレクシス様、フレアです。失礼いたします」
寝室の扉を軽く叩くと、返事も待たずにそっと扉を開いた。
室内は日の光が入って明るく――ベッドに力なく横たわっているアレクシスがハッキリと見えた。
「……アレクシス様っ」
鎧は床に無造作に脱ぎ捨てられ、寝台の脇には手甲や剣帯が散らばっている。フレアはそれらに躓かないように避けながら、ベッドに駆け寄った。
長い手足を投げ出し目を閉じているその姿には、いつもの威圧感がなかった。荒い呼吸が、静かな寝室に響いている。まるで全力疾走をした直後のようだった。呼吸のたびに大きく胸が上下し、ときおり苦しげに眉間の皺が深くなる。額には玉のような汗が浮かび、顔色はくすんで、唇の血色は失われていた。
フレアはすぐに桶を床に置き、アレクシスの額に手を当てた。
――ひどい熱だわ。
するとフレアの手に反応して、アレクシスの眉がピクリと動いた。
ゆっくりと目が開き、視線がフレアを捉える。その目は充血しているが、手負いの獣のように鋭かった。
「……部屋を、出ろ」
掠れた低い声だった。
「俺に……構うな」
――……これが一か月ぶりに会った新妻への第一声なのね。
思わず苦笑しそうになる。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「マルク様から事情をお聞きしました。まずは体を拭きたいのですが……私が嫌でしたら、他に誰を呼びましょうか」
「誰も入れるな……君も、出ていけ……」
アレクシスは苦しそうに息を吐く。
「ですが、そのままでは……」
「……聞こえなかったのか」
アレクシスは険しい顔でフレアを睨んだ。
こんなに弱っているのに、全力で拒絶しようとしている。
でも……。
フレアは一瞬考えたあと、静かに口を開いた。
「……アレクシス様、ひと月前、私に仰いましたよね? 『君はこの家で自由にしていい』と」
アレクシスの眉がわずかに動いた。
「……それが、どうした」
「ですから、私は自由にさせていただきます」
フレアはそう言って、洗面器の中にタオルを浸した。水を含ませた布をきゅっと絞り、丁寧に広げる。
「汗で濡れた服のままでは、お体に障ります。せめて御着替えさせていただきますね」
「……余計な世話だ」
「動くのがお辛いのでしたら、そのままでどうぞ。私がやりますので」
できるだけ穏やかな声で告げる。けれど、アレクシスは苛立たしげに顔を歪めた。
「……なぜ、そこまでする」
「なぜって……」
フレアは少し首を傾げた。
「自分の夫の具合が悪いのですから、放っておけませんわ」
「…………点数稼ぎか?」
「……え?」
「そんなことをしても……俺は、君を愛することは、ない……」
さすがに手が止まってしまった。
胸の奥に、ちくりと小さな痛みが走る。
――また、それを言うのね。
ひとつ言葉を発するだけでもつらそうなのに、それでもアレクシスは、フレアを拒絶する言葉を口にする。
アレクシスが自分を愛するつもりなどないことは、最初にはっきり告げられた。夫婦だからといって、無理に距離を縮めようとは思っていない。ただ、具合の悪い彼を少しでも楽にしてあげたいだけなのに……その善意さえ疑われてしまうとは。
――……そんなに私のことが嫌いなのかしら。
ここまで拒まれると、さすがに少し悲しくなる。
けれど――フレアはそっと息を吐き、タオルを握り直した。
「……承知しております」
アレクシスは毒のせいでいつも以上に気が立っているんだ。そう自分に言い聞かせ、フレアは努めて平静な声で答える。
「私はアレクシス様に何も期待しません。見返りは求めていませんよ」
「…………」
「ですから、どうぞお気になさらないでください」
フレアは小さく微笑んだ。
アレクシスは着替える気がないのか、本当に体を動かせないのか、フレアが体を拭くのに協力する素振りも見せない。服も脱がせたいのだが……体の大きなアレクシスをフレアがひとりで脱がすのは難しい。寝ているならなおさら。
――仕方ない。服を切るしかないわ。
「旦那様、まずはこちらを脱いでいただきたいのですが……動けないようですので、私のほうで切らせていただきますね」
「……」
返事はない。目を閉じているが、寝てしまったのだろうか。
だが寝たなら寝たで好都合。嫌な言葉を言われる心配もないのだから。
フレアはハサミを持ってくると、脱がすためにその服を切ろうとした。
「では、失礼します……」
――服にハサミを入れようとした、その瞬間だった。
寝ていると思ったアレクシスが突然動き、驚いたフレアはハサミが当たらないようにとっさに反対の手で刃を握った。
アレクシスの大きな手が、フレアの手をベッドに押し付ける。その勢いでフレアはベッドに顔をぶつけた。
「――何を、しようとした……?」
「…………え?」
「まさか……君が、俺の命を狙うとは、思わなかったな……。……誰の……差し金だ?」
何とかフレアは顔を上げて、ひゅっと息を呑んだ。
体を起こしたアレクシスの目は鋭く、獲物を狙う猛禽類のようだった。
「ち……違います! 服を脱がして体を拭きたいのにあなたが動けないから、服を切って脱がせようとしていたんです! 命を狙うなんてしませんよ! 変な勘違いしないでください!」
「……そんな、嘘を、今更……」
言いながら、アレクシスの体がフラッと揺らぐ。
ハッとしたフレアはその体を慌てて支えた。
「ダメ! せっかく体を起こしたなら、そのまま脱いで!!」
「脱……ぐ……?」
――ダメだわ。この人、まともに会話できる状態じゃないのね……。
マルク様が本当なら動くこともできないと言っていたから、こんなに動けるだけ凄いのだろうけど……いっそ完全に動けないほうが看病しやすかったのにとフレアは思った。
「アレクシス様~お着替えしましょうね~汚れた服のまま寝たら毒が良くなりませんよ~はい、着替えますよ~着替えて体を綺麗にしたら寝ましょうね~」
アレクシスに敵対の意思がないことを伝えるため、声をかけながら上半身の服を脱がす。
するとどうやったらこんなに鍛えられるのかってほど逞しい筋肉が現れて、フレアはドキッとした。厚い胸板に、引き締まった腹部。腕にも肩にも、鍛え抜かれた筋肉がついている。
貞淑に育てられたフレアには十分な衝撃を与えたが……。
――い、今は何も考えないことにしよう……。
フレアは一旦、心を無にすることにした。
毒羽が刺さったらしい肩には、もう処置がしてある。ここはそのままで良さそうだ。汚れた服をまとめていると、その服に血がついていることに気づいた。
アレクシスの血かと慌てたが、切れていたのは自分の左手。先ほどアレクシスに手を押さえられたとき、ハサミで傷つけてしまったらしい。
フレアは何も言わずにハンカチを取り出し、自分の手に巻きつけてきゅっと止血する。その間にアレクシスは上半身裸のままでベッドにまた倒れたので、フレアはその体を濡れたタオルで拭き始めた。
体が熱いから、タオルまですぐにぬるくなってしまう。それでも丁寧に汚れと汗をぬぐっていると、無数の傷跡が目についた。
新しいものから、古いものまで。この傷のひとつひとつに、命を落としていてもおかしくない戦いがあったのだろう。
「……痛むところがあったら、仰ってくださいね」
「…………」
返事はなかった。アレクシスは眉間に皺を寄せて目を閉じたまま、苦しげな呼吸を繰り返している。
フレアはそっと視線を落とし、再びタオルを動かし始めた。
――ずっと戦って生きてきた人なんだわ。
ブレンダム公爵家の先代当主、アレキサンダー・ブレンダム……つまりアレクシスの父親も、第一騎士団長を務めた人だ。数々の恐ろしい魔獣を狩って、王国を守っていた偉大な英雄は、その技のすべてを息子のアレクシスに継がせたと聞いたことがある。
アレキサンダーは邪蛇との戦いで亡くなってしまったが、戦いの英才教育を受けてきたアレクシスはその邪蛇を討ち取り、父の仇を討って英雄の座も継いだ。
今ではアレキサンダーを超える実力を持つと言われるが、その裏にはたゆまぬ努力があったに違いない。
そんな仕事と戦いのことばかりの人生だったなら……周りに言われたからって、いきなり恋愛とか結婚とか、受け入れられないのも分かる気がするけど……。
――だからって、最初から「愛するつもりはない」と拒むのはどうかと思いますよ。
フレアは割り切ろうと思いつつ、なんだかんだ根に持っている自分をそっと笑った。
しばらくして、ようやく上半身を拭き終えた。
ここまででかなりの時間がかかってしまっている。アレクシスの体に負担をなるべくかけないためにも、早く全部綺麗にしてあげたいところだが……。
そこでフレアは重大な問題に気づいた。
――……下の服は、どうしましょう。
汗と汚れにまみれたズボンも、本当なら脱がしてあげたい。しかしまだ結婚して間もない夫の下半身を脱がせるというのも、少々気が引ける。
困り果てていると、ちょうど扉を叩く音がした。
「奥様、失礼いたします。何かお手伝いできることはございませんか?」
「リドルさん! ちょうどよかったわ!」
様子を見に来てくれたリドルに事情を話すと、彼はすぐに袖をまくり、手伝いを申し出てくれた。
「それでは僭越ながら私が……。奥様は今のうちに、どうぞ桶のお水を換えてきてください」
「はい」
水換えを言い出したのは、きっとリドルなりの気遣いだったのだと思う。
フレアが部屋に戻ったとき、リドルはフレアが困っていたアレクシスの下半身の服を脱がすどころか、上下に清潔な服を着せるところまで既に終わらせていた。
「ありがとう……リドルさん。とても助かりました」
「いえいえ、奥様、お疲れ様でございました。あとは私どもにお任せいただいても……」
「ありがとう。でも、もう少しだけ様子を見させて」
フレアはリドルに微笑み、寝台のそばへ腰を下ろした。
アレクシスはすっかり寝ている。今は体を清めただけだが、部屋に入ったときよりほんの少し表情が和らいだように見えた。
――良かった。
フレアはほっと胸を撫で下ろした。
けれど、その安堵も束の間のことだった。
夜が更けるにつれて、アレクシスの熱はさらに上がっていったのだ。
全20話です。続きます。




