第三話 不機嫌な旦那様が帰ってきました。
一か月後……アレクシスの帰還の予定日を迎えた。
今日は朝からよく晴れて、心地よい風が庭の木々を揺らしている。そんなうららかな天気とは裏腹に、フレアは落ち着かない気持ちだった。
つい何度も窓のそとに目を向けては、屋敷へと続く道を確認してしまう。
何も知らない人から見れば、夫の帰りを心待ちにしている新妻に見えたかもしれない。しかし本当は、夫をどんな顔で迎えればいいか分からず緊張していた。
何しろ、あの人は何を考えているか良く分からない。
自分のことを冷たく突き放すくせに、こちらが物わかりのいい返事をすると怪訝そうな顔をする。
どう接したらいいのか、掴めない。
そんな事を考えながらまた窓の外を見ると、背後から穏やかな声が掛かった。
「奥様……ずっと窓辺に立っていますと足が疲れてしまいますよ。馬が見えましたらお声掛けしますので、どうぞお掛けになってお待ちください」
振り返ると、執事のリドルが心配そうにこちらを見ていた。
「……ありがとう、リドルさん」
促されるままにソファーに腰を下ろすと、今度は侍女のメリーが明るい声を上げる。
「奥様、紅茶を淹れましょうか。美味しい焼き菓子を取り寄せたんです」
「まぁ、嬉しいわ。メリー」
「ふふ……奥様のお口に合うといいのですが」
メリーは嬉しそうに微笑んで、茶器の準備を始めた。
この一か月で、フレアは屋敷の使用人たちともすっかり打ち解けていた。最初こそ皆、どこか遠慮がちだったものの、フレアが気さくに話しかけているうちに、笑顔を見せてくれるようになった。そして今ではこうして、他愛のない会話を楽しむことも珍しくない。それどころか、屋敷の主のちょっとした愚痴まで話せる仲になっていた。
「……しかし、旦那様がお帰りになると思うと、ちょっと緊張しますね。旦那様がいるとお屋敷中の空気がピリピリしますから……」
メリーが温かい紅茶をカップに注ぎながら苦笑した。それを聞いていたもう一人の侍女、ユアが慌てて咎める。
「ちょっとメリー。そういうこと言わないの」
「ユアだって朝からそわそわしてるじゃない」
「それは……まぁ」
言い返そうとしたユアは言葉に詰まり、困ったように眉を下げた。
「奥様しかいないこの一ヶ月、なんだかふわふわして楽しかったし……」
「あら? そう?」
思いがけない言葉に、フレアは目を丸くする。
「はい奥様。奥様がこの屋敷に来てくださって、空気が軽くて明るくなったと思います。何と言いますか……ずっとカーテンも窓も閉めっぱなしだった部屋に、光と風が入ってきたような……」
「あぁ分かるわ~。呼吸がしやすくなったし、肩の力が抜けるようになったわ」
ユアが少し照れくさそうに笑い、メリーも大きく頷いた。
そんな二人の様子を見て、フレアは思わず小さく笑ってしまった。
軍の人間ですらアレクシスを恐ろしいと言うのだ。アレクシスの前で緊張しない使用人なんていないだろう。
戦場ならともかく、どこにいても眉間には深いしわが寄り、何かを警戒するように鋭い視線を周囲に向けている。いつも敵と対峙しているかのような表険しい表情なのだ。
……実際、いつ何が起きても動けるように気を張ってるのかもしれない。そんなに神経を使っていたら、アレクシスだって疲れてしまうだろうに……。
「……アレクシス様も、お屋敷で少しでも肩の力が抜けるようになるといいのですけれどね……」
フレアのことが嫌いなだけなら、距離を取ってあげれば済むことかもしれない。でもアレクシスの場合、フレアに限ったことではない。
人を寄せ付けず、何もかも一人で背負い込もうとしているようにも見えて、あれでは気が休まる暇もないだろうと心配になる。
考えながら紅茶を一口飲んだフレアは、自分が使用人たちの視線を集めているのに気づいて「ん?」と首を傾げた。
「皆、どうしたの……?」
するとメリーが両手を胸の前で握りしめ……。
「奥様……本当にお優しい御方……」
「え?」
なぜかメリーの目がうっすらと潤んでいる気がする。隣のユアもしみじみと頷いていた。
「旦那様にあんな態度を取られても、旦那様のお体を心配なさるなんて……。私は、お優しい奥様にお仕え出来て幸せです……」
「そんな……おおげさよ。私はただ――」
「――奥様!」
そのときだった。
窓際に控えていたリドルが、不意に声を上げた。
「騎士団の一行が見えました。旦那様がお戻りになったようです」
フレアは弾かれたように立ち上がり、窓へ向かった。
屋敷の門に向かって、数騎の馬が駆けてくる。
先頭を行くのは、黒い馬に跨がった男。間違いなく、アレクシスだ。
「お出迎えの準備を!」
リドルの指示で、使用人たちが慌ただしく動き出す。先ほどまで和やかだった部屋の空気も、一瞬にして引き締まった。
フレアも軽くドレスの裾を整えると、まっすぐに玄関ホールへと向かった。
*****
出迎えのために並んだ使用人たちとフレアの前で、アレクシスが馬から下りてきた。
鎧は土埃にまみれ、肩には黒ずんだ汚れが付着している。額にかかった髪も汗で湿っているが、彼の威厳は微塵も損なわれていなかった。いつものように背筋を伸ばし、前だけを見て堂々と歩いている。家に帰ってきたはずなのに、またこれから戦地に向かうような緊張感が漂っていた。
フレアは一歩前へ進み、丁寧に頭を下げる。
「アレクシス様、お帰りなさいませ。長旅、お疲れ様でした」
使用人たちも一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「…………」
しかし――アレクシスは何も答えなかった。
不機嫌そうな顔でもはやフレアのほうを見ることすらなく、その横を通り過ぎていく。
足を止めることなく階段へ向かい、重い足音を響かせながら二階へと上がっていった。そのまま、廊下の奥へ姿を消してしまう。
「…………」
玄関ホールに、気まずい沈黙が落ちた。
使用人たちは顔を見合わせ、どう反応すればよいのか分からない様子だった。
確かにアレクシスは普段から無愛想だ。しかし、だからといって帰還の挨拶すら無視するとは……。
フレアも思わず眉を下げる。
――……まぁ、そうよね。そういう人よね。
なんとなく想像できていたことだ。しかし実際に目の当たりにすると、せめて一言くらい返してくれてもよいのではないだろうかと思ってしまう。
気が重くなりつつ、これからどう接しようか考えようとしていると、突然「公爵夫人」と声をかけられた。
アレクシスと共に帰還した側近のマルクだ。彼もまた鎧に土埃をつけ、顔には疲労の色を滲ませている。
フレアは気を取り直し、マルクを気遣うように微笑んだ。
「マルク様。お帰りなさいませ。大変お疲れ様でした」
「ただいま戻りました。……公爵夫人、実は団長のことでご説明しなければならないことがございます」
マルクは申し訳なさそうに頭を下げた。
その表情を見て、フレアの胸に嫌な予感が広がる。
「……何かあったのですか?」
「はい。アレクシス団長の指揮により、北方の毒鳥討伐は無事完了いたしました。しかし……想定より毒鳥の数が多く、厳しい戦いになりまして……アレクシス団長は仲間を庇い、毒羽を受けてしまいました……」
「毒羽……?」
フレアの表情が強張る。
北方に生息する毒鳥のことは、聞いたことがあった。猛毒を持つ羽を飛ばして攻撃し、その毒は少量でも人間を衰弱させるという。
「では、アレクシス様は、今……」
「はい。帰還途中から発熱し、今も高熱が出ています」
「……!」
「解毒剤は飲みましたが、毒鳥の毒は強力で、薬が効きにくく……。あとはこのまま毒が自然と抜けるのを待つほかありません」
マルクは苦しげに眉を寄せた。
「本当なら、自力で動くこともできないほど重態のはずなのですが……あの方はその……あまり周囲に頼ることを好みませんので、家に帰ると聞かなくて……」
「馬に乗っているだけでも相当お辛かったはずです」と聞いて、フレアは先ほどのアレクシスの姿を思い出した。いつもと変わらぬように歩いていたが、それは彼の精一杯で、無視されたのではなく、挨拶を返す余裕すらなかったのかもしれない。
「……承知いたしました。アレクシス様の看病はお任せください。お医者様にも診ていただいたほうがよいでしょうか?」
「すでに軍医の診察は受けております。ただ容体が急変するようでしたら、すぐに医師を呼ぶようにと」
「分かりました。では、まずはゆっくり休んでいただこうと思います」
フレアが落ち着いた声で答えると、マルクは深々と頭を下げた。
「……結婚したばかりで、このようなことになってしまい、申し訳ございません」
「マルク様が謝ることではありません」
フレアは首を横に振った。
「アレクシス様も覚悟の上で遠征に行ったはずです。それに……部下の方を庇ってお怪我をされたのでしょう? きっと、守られた方も無事に帰ってこられたのですよね?」
「……はい。団長のおかげで、部隊に死者は出ませんでした」
「それなら、よかったです」
フレアはほっと胸を撫で下ろし、微笑んだ。
「マルク様もどうぞゆっくり体を休めてくださいね。無事に帰ってきてくださってありがとうございます」
「あ……ありがとうございます」
フレアに気遣われたのが意外だったのか、マルクは少し驚いたように目を見開いた。
それから、何か言いたげにフレアを見つめ……結局、何も言わず、もう一度深く頭を下げた。
フレアはそんな彼に軽く会釈すると、すぐに使用人たちへ指示を出した。
「メリー、清潔なタオルと着替えを用意してくれる? ユアはお水をお願い。熱が高いようだから、冷たい水もあると助かるわ」
「は、はい!」
「リドルさん、アレクシス様がお食事を召し上がれそうだったときのために、消化の良いお食事の準備をお願いします」
「かしこまりました、奥様」
フレアの声掛けで、使用人たちは一斉に動き始めた。
全20話です。続きます。




