第二話 新婚なのに、旦那様が一か月遠征に行くそうです。
『結婚に何も期待してはいけない』
それはフレアの母の教えだった。
フレアの母は、まさに良妻賢母だった。娘のフレアから見てもおっちょこちょいでしばしばとんでもないミスをやらかす父を、母はいつも笑顔で支えていた。事業に失敗して伯爵家として存続するのが危うくなったときも、母は父を責めることなく、けなげに励ましていた。
そんな母は多くの人から、「あの人にもったいないほど良い人だ」と褒めたたえられていた。どこに行っても母の評判はよく、そんな母が父のことをうまく言っているおかげで、父も信用が保たれていた。
だがそれは、母のほんの一面でしか過ぎない。
『――いいですか、フレア。結婚に何も期待してはいけません。多くの貴族の女性にとって、心から愛し合える人と結ばれるなどほんの僅かな確率でしかありえません。それゆえ誰もが本当に愛する人と結ばれることを夢見ますが、そんな夢はいずれ己を苦しめることになるだけですよ』
そろそろ結婚の話を意識するようになった15歳の頃、突然母が真剣な顔で語った日のことをフレアはよく覚えている。
『……お母様は、お父様と結婚したくなかったですか?』
『そうですね、出来るならひとりで自由に暮らしたかったかしら』
『結婚したくなかったなら……どうしてお母様はいつも、お父様を支えているのですか? よそでは、夫に干渉しない妻もいると聞きます』
『フレア、そんな妻は世間からどう見られると思いますか? 冷たい女だと陰で噂され、評判も落ちるのですよ。たとえそれが、夫がものすごくどうしようもない人間で、妻に冷たくされて当然の人間だとしてもね』
『……つまり逆に、どうしようもない夫でも健気に支えている妻は評判がいいということでしょうか』
フレアがそう言うと、母は微笑んだ。
『望まぬ結婚をしたからって、そこで腐って自分の人生を棒に振るのは愚かだと思いませんか? 良妻であれば、いずれ夫ともいい関係を築けるかもしれない。そこまでいかなくても、いざというとき世間が自分の味方になってくれるかもしれない。正しく生きていれば、神様はきっと見ていて、幸せに導いてくださるわ』
フレアは自分が母親似の自覚があった。きっと感覚や思考も似ているのだろう。母の言ったことは簡単に腑に落ちた。
『……お母様は、お父様を心から愛していらっしゃると思っていました』
『えぇ、愛してるわ。愛するということは、相手を慈しみ大事にすることです。私は確かにあの人を愛していますよ。そしてあの人も、私を愛してくれています。私の想いに応えようとしてくれる、優しい人なのですよ』
母は家同士の取り決めで父の妻になったから、父を愛することにしたのだ。
気持ちの話ではなく、行動の話だった。
母は穏やかな微笑みの裏で、計算高く生きていたようにも聞こえた。良妻賢母であることが世間体の為であり、いずれ巡り巡って自分の評価や幸せに繋がるから……というように。
でもそれは母の心持ちの話だったんじゃないだろうか。確かに母は多くの人に愛されていて、良き妻であり良き母だった。母から深い愛情を感じる人はいても、計算高さを感じる人を見たことはない。
母の気持ちは母にしか分からない。でも……不幸には見えなかった。
それに……母は言わなかったが、フレアは母が父を愛する感情があると思っていた。
父がおちょこちょいをやらかす度に、そのしりぬぐいをテキパキとしながら微笑む母。そのとき母は、「この人は私がいないとダメなのよね」と言っているように見えた。なんだかんだ、父の世話を焼くのが母は好きだったんじゃないかと思う。
母がただ本当に計算高い人なら、結婚以外の道だって選べただろう。結婚した後、父の傍で苦労しないで、もっと自由に生きる方法も編み出せたかもしれない。
でも母はそうしなかった。それが母の愛以外の何物でもないと、フレアは感じていた。
かつて――そんな母の話を聞いて「うちの両親に愛がなかったなんて……」とショックを受けることなく、「なるほど確かに、どんな望まぬ相手と結婚したとしても、良き妻であることは大事だ」と思ったフレアである。
よってアレクシスに「君を愛するつもりはない」と言われたところで、腐ったり凹んだりする気は微塵もなかった。
むしろ良好な関係の構築さえ拒絶しているアレクシスに対して抱いたのは、悲しみより怒りより呆れ……であった。
*****
翌朝、朝食をとるアレクシスの前に出ていったフレアは、昨日感じた呆れを全く表に出さない完璧な微笑みを浮かべていた。
「おはようございます、旦那様」
「……その“旦那様”というのはやめろ。受け入れがたい」
「……失礼いたしました。ではどのようにお呼びすれば……?」
「普通に名前で呼べ」
「では、アレクシス様と呼ばせていただきます。改めまして、おはようございます、アレクシス様」
「…………」
挨拶をしてもアレクシスは返さない。
しかしフレアは表情を変えず、そっと自分の席について食事を始めた。
アレクシスは昨日「俺に何も期待するな」と言った。
だから期待しない。
いろいろ思うところはあっても、期待しない。
大事なのは気持ちではなく、どう行動するか。
母の教えを胸に、フレアは「挨拶も返せないのかこの人は……」という苛立ちをスープと一緒に流し込んだ。
「……今日から北へ遠征に行く。ひと月は帰らないから、そのつもりでいろ」
突然話しかけられて、フレアは食事の手を止めた。
新婚なのに、夫となった人は遠征へ……しかも一か月も不在になるらしい。
一般的な貴族なら、新婚からの一週間はどこかで新婚旅行をするらしいが、第一騎士団長であるアレクシスに一般的な貴族の感覚がなくても仕方ない。団長不在で遠征に行くこともできないだろうし……。
「承知いたしました。無事のお帰りをお待ちしております」
当たり障りのない言葉を口にすると、アレクシスはなぜか眉間に皺を寄せた。
良き妻ならこう言うんじゃないかと思ったのだが、無事のお帰りをお待ちすることになにか問題があったのだろうか。
何か疑うような目つきでじろりと見られ、さすがにフレアも困惑した。
この国で一番強いと言われる騎士団長にこんな目で見られて、平然としていられるほどフレアも肝は据わっていない。自分は何も悪いことをしていないはずだが、怒られている気分だ。
「……君は、簡単に承知するんだな」
「……はい?」
「……いや、何でもない」
アレクシスはなぜか不機嫌そうに立ち上がり、そのままダイニングを後にした。残されたフレアは首を傾げる。
――承知しちゃ、ダメだったのかしら……? 新婚なのにすぐに遠征に行っちゃうなんて寂しいです……行かないで……ってしたほうが良かった? でもそれって、アレクシス様にとってただ面倒くさい展開になるだけよね?
思っていたより、良き妻になるのは難しいことのようだ。
こういうときに良き妻ならどう答えるべきか、その模範解答を選んでいるつもりなのに、どうもアレクシスの反応は悪い。その言葉ひとつで関係を改善できるとは思っていないが、こちらは喧嘩を売る気がないから不快には思われないようにしたいのに。
考えながら食事を再開すると、執事頭を務める初老のリドルがフレアに近づいてきた。
「……紅茶のお代わりはいかがですか?」
「ありがとう。いただきます」
「……あの、奥様」
「はい?」
「旦那様は大変、気難しい方でいらっしゃいます。どなたに対しても厳しく、あのような態度をお取りになるのは奥様に対してだけではございません。どうか、あまりお気になさらないでください……」
紅茶を注ぎながら、リドルは申し訳なさそうにそう言った。アレクシスの態度の悪さはフレアのせいではないとフォローしてくれる。
フレアはリドルにむかって微笑んだ。
「大丈夫です。何も気にしてません」
「奥様……」
リドルの顔に「なんて健気な奥様……」と書かれている気がする。あぁこれが夫を立てて自分の評価が上がるというやつなのだなと、フレアは理解した。
もしここでフレアがアレクシスの態度に不満を爆発させていたら、気難しい主人と扱いに困る女主人の間で板挟みになり、屋敷の人たちが困るだろう。
しかし丁寧に仕事をしている屋敷の人たちに迷惑をかけようとは思わない。むしろ優しくしてくれる人には優しくしたい。
「アレクシス様がご不在の間に、お屋敷のことを把握しなきゃ。リドルさん、手伝ってくれますか?」
「……っ! はい、私にできることでしたら何なりとお申し付けください」
リドルの笑顔を見て、フレアもホッとした。
友好的な人は好きだ。優しい気持ちで接すれば、優しい気持ちが返ってくる。仲良くできる。
フレアは元々人と話すのが好きだし、知らない人にも自分から積極的に話しかけられる性分だった。慣れない社交界でひとりぼっちで立っているご令嬢に自分から話しかけ、そのまま仲良くなることもしばしばだった。
――よし、お屋敷の皆さんとは仲良くなれるように頑張らなきゃ。
どうせアレクシスは仕事で屋敷にいることが少ない。屋敷の人たちと親しくなっていれば暮らしも楽しくなるはずだ。
割り切ったフレアははりきって行動し、それから一か月のうちに、屋敷の人々の名前と顔、好きな食べ物と趣味まで全員分把握するほど親しくなっていった。
全20話です。続きます。




