第十五話 旦那様の帰りが待ち遠しくなりました。
その夜……フレアはアレクシスが屋敷に帰ってくるのを心待ちにしていた。
――今日も、一緒に寝ようって言われるのかしら。
考えただけで頬がじんわりと熱くなり、落ち着かない気持ちになった。
少し前までアレクシスと顔を合わせることさえ緊張していたというのに、今は彼の帰りがこんなにも楽しみで仕方ない。
「奥様、今日はなんだかそわそわしていらっしゃいますね」
メリーにそう指摘され、フレアは慌てて首を振る。
「そ、そんなことないわ」
「そうですか? 先ほどから何度も時計をご覧になっていますけれど」
「……き、気のせいよ」
誤魔化すように微笑むと、メリーは何かを察したように口元を緩めた。フレアはその笑顔から逃れるように、窓の外へ目を向ける。
――はしたないわ、私。ちゃんと落ち着かなきゃ……。
そのとき――屋敷の外から、複数の馬が近づくのが見えてきた。
待ちに待っていた人の帰宅に胸が高鳴る。
……しかしフレアはすぐ違和感に気づいた。
アレクシスは甲冑を着込み、愛馬に乗っている。普段、アレクシスが帰宅するときは馬車を使うことが多い。騎乗して戻ってくることもあるが、遠征帰りでもないのに甲冑を着て帰ってくるのは珍しい。とても、通常の帰宅とは思えなかった。
――何かあったんだわ。
先ほどまで頭の中を占めていた甘い考えが、一瞬にして吹き飛ぶ。
フレアは急いで玄関へ向かった。
*****
玄関の扉を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んできた。前庭では騎士たちが馬を止め、慌ただしく言葉を交わしている。
アレクシスはすでに馬から下りており、フレアを見つけて大股で近づいてきた。
「アレクシス様……!」
「……すまない。すぐにまた行く」
「何かあったのですか?」
「南の国境付近に魔獣が出た」
「……魔獣、ですか?」
「あぁ、現地の守備隊だけでは対処しきれない数だという報告が入った。近隣の村にも被害が広がっているらしい」
アレクシスの声は、いつになく硬かった。
フレアは思わず、彼の背後に控える騎士たちへ視線を向けた。彼らもまた、緊張した面持ちで出発の準備を整えている。
フレアは胸の前で、そっと両手を握り合わせた。
「そう……ですか。いつ頃お戻りに……?」
「……分からない」
アレクシスは短く答えた。
「向かいながら詳しい状況を確認することになるだろう。一刻も早く現地へ向かう必要がある」
その言葉に、フレアは唇を引き結んだ。
頭では分かっている。アレクシスは第一騎士団長だ。国を守ることが彼の仕事であり、魔獣によって民が危険に晒されているのなら、迷わず駆けつけなければならない。
けれど――フレアの脳裏に、結婚式後の出来事が蘇った。
新婚早々、遠征へ出発してしまったアレクシス。そして、一か月後に帰ってきたときの、あの痛々しい姿。毒鳥の羽を受け、高熱に苦しみながら寝台に倒れ込んでいた彼の姿は、きっと一生忘れられない。
――ようやく、気持ちが通じ合えたところなのに。
アレクシスに愛情を求めないと決め、ただ妻としての役目を果たそうとしていただけだったときのほうが、送り出しやすかった。
彼の気持ちを知ってしまったから、自分の気持ちを自覚してしまったから、寂しさが思いのほか強く胸にこみ上げてしまった。
けれど……口には出せない。今この瞬間にも、南の国境では魔獣によって苦しんでいる人々がいるのだ。アレクシスを引き留めることなどできるはずがない。
「……団長」
そのとき、背後から騎士の一人が声をかけた。
「申し訳ありませんが、そろそろ出発しなければ……」
騎士はフレアをちらりと見て、申し訳なさそうに頭を下げる。
アレクシスは眉を寄せた。
「……分かっている」
部下に急かされるほど時間がないというのに、アレクシスはわざわざフレアに直接伝えるため、帰ってきてくれたようだった。以前のアレクシスなら、使用人に伝言を残すだけで、そのまま出発していただろうに。
その変化を感じて……フレアの胸の奥が温かくなった。
小さく息を吸い、精一杯の笑顔を浮かべる。
「……分かりました。どうかお気をつけて。お戻りを、お待ちしております」
できるだけ明るい声で告げる。不安な気持ちを悟らせたくない。余計な心配をせず任務に集中してほしいから。
アレクシスはそんなフレアをじっと見つめ……それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「……行ってくる」
短い返事だった。けれど、その声は普段よりもずっと柔らかかった。
アレクシスは名残を断ち切るように視線を逸らし、馬のほうへ向き直る。
その背中を見た瞬間――。
「……どうした?」
「……あ」
気づけばフレアは手を伸ばし、黒い皮手袋をはめたアレクシスの手を掴んでいた。
引き留めてしまったことに、行動してから気づき、カッと体温が上がる。
アレクシスは急いでいるのに、早く出発しなきゃいけないのに、何をしているのか。こんなのが良き妻のはずがない。
送り出さなきゃ。
戦場へ。
――……どうか、ご無事で……。
溢れる気持ちを短い時間で精一杯伝えたくて、フレアは革手袋に包まれた指先を引き寄せ、そっと唇で触れた。
ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。それでも、フレアにとっては精一杯の勇気だった。
出征する夫に、妻が無事を祈って口づけを贈る。それ自体は、決して珍しいことではない。夫婦であれば、頬や唇にキスをして見送ることだってあるだろう。けれど、これまで夫婦らしい触れ合いをほとんどしてこなかったフレアにとって、いきなりそんなことをするのは、あまりにもハードルが高かった。
だから、せめて指先に。
彼の安全と、無事の帰還を祈って。
――これくらいなら、許してくださるわよね……?
フレアは手を離し、ゆっくりと顔を上げた。
すると――。
「…………」
アレクシスが、目を見開いて固まっていた。
普段は滅多に表情を崩さない彼が、驚きを隠しきれない様子でフレアを見つめている。その反応に、フレアは急に恥ずかしくなった。
――やっぱり、突然すぎたかも……っ。
恥ずかしくて、とても冷静になれない。でもせっかく出した勇気を、このままうやむやに終わらせたくない。その一心で、フレアは口を開いた。
「その……帰ってきたら、今度はもっと、夫婦らしいものを……」
言ってみてから、こんなの出発直前の忙しいときに言うことじゃなかったと気づいた。恥ずかしさと申し訳なさで、心臓がばくばくと鳴っている。何もかもうまくいかなくて泣きたくなる。
しかしその瞬間……ぐいっと、体を引き寄せられた。
「……っ!?」
フレアの体が大きな腕の中にすっぽりと収まる。熱くなった頬に、冷たい甲冑が押し付けられた。
抱きしめられている。
アレクシスに……息を呑むほど強く。
「すぐに、魔獣を全滅させて帰ってくる」
アレクシスの声には、強い決意が滲んでいた。
そしてパッと名残を断ち切るように体を離すと、アレクシスは一歩後ろへ下がった。
踵を返したアレクシスは今度こそ振り返らず、馬のもとへ向かっていく。
そんなアレクシスの背中を見送っていたフレアは、少し離れたところで待っている騎士たちがすっかり固まっているのに気づいた。
目を見開き、フレアとアレクシスを交互に見つめている。まるで、信じられないものを目撃してしまったかのような顔だった。
人前で思い切ったことをしてしまったと自覚し、フレアはさらに恥ずかしくなって小さく会釈した。
すると騎士は、慌てた様子で頭を下げる。
「……おい、行くぞ」
馬に跨がったアレクシスが、低い声で部下たちに呼びかけた。
「……っ! は、はい!」
騎士たちは慌てて姿勢を正し、すぐに馬たちが一斉に走り出す。
アレクシスを先頭に、騎士たちの姿が門の向こうへ消えていく。フレアは、その背中が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。
「……奥様は本当に、旦那様を扱うのがお上手ですね」
「うんうん」
背後から、控えめな声が聞こえた。
「え?」とフレアが振り返ると、そこにはリドルとメリー、それからユアが立っていた。どうやら、先ほどのやり取りを見ていたらしい。三人とも、何とも言えない表情を浮かべている。
「な……え……そ、そう?」
「はい。それはもう、お見事でございました」
リドルは満足そうに頷く。
「旦那様があれほど名残惜しそうにしていらっしゃる姿など、このリドル、初めて拝見いたしましたよ」
「その上まさか、あの旦那様が人前で奥様を抱きしめるとは……」
「きっと、とてもやる気が出たと思いますよ。何しろ、愛しい奥様が帰りを待っていらっしゃるのですから」
「……っ!」
フレアは思わず両手で頬を押さえた。
「も、もう……! 皆、あまりからかわないでちょうだい……!」
フレアが困ったように訴えると、三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「申し訳ございません、奥様」
リドルは微笑みながら頭を下げた。
「ですが、私どもも嬉しいのです。あれほど人を寄せつけなかった旦那様が、奥様の前では少しずつ変わっていらっしゃる」
「…………」
「どうか、これからも旦那様のことをよろしくお願いいたします」
その言葉にフレアは少しだけ目を見開き、そして静かに微笑んだ。
「……ええ」
もう一度、アレクシスが去っていった門のほうを見る。夜の闇に包まれた道には、すでに騎士たちの姿はない。
フレアは胸の前で両手を重ね、もう一度だけ、彼の無事を祈った
全20話です。続きます。




