第十三話 「君を愛するつもりはない」と言った旦那様が、私に愛されたがってます!?
――そんなある日の夕方。いつもより少し早めにアレクシスが帰ってきたと思えば、フレアに「出掛けないか?」と言い出した。
「い、今からですか?」
「あぁ」
「何かご用事が……?」
「いや、俺が個人的に君を誘っている」
フレアは目を丸くした。
パーティーや公的な事情以外で、フレアはアレクシスと共に出かけたことがなかった。個人的な誘いというのも初めてである。
外はもう暗くなり始めていて、普段なら外に行きたい気分になれない。
しかしアレクシスの誘いは断りたくないと思った。
良き妻として……と考えたのではなく、本心として。
「……分かりました」
フレアが頷くと、話を聞いていたリドルが動き出す。
「では馬車の準備をいたします」
「いや、馬車は不要だ。彼女は俺の馬に乗せる」
「う、馬?」
「来い」
「え、ちょっと……馬、ですか? 私、馬には乗ったことがありませんが……!」
馬に乗ると言うのなら、話は変わってくる。ちょっと断りたい気持ちになってきた。
しかしフレアの困惑などお構いなしに、アレクシスはフレアの手を取って歩き出す。外には、既に鞍を付けられた馬がいた。それも、一頭だけ。黒くて体格が良い、アレクシスの愛馬だ。
この馬にアレクシスが乗るなら、自分は何に乗るのだろうと考えているうちに、彼はまるで荷物でも抱えるようにひょいっとフレアを抱えた。そして「え?」と思ったときにはもう、フレアはアレクシスと馬の首の間に横向きに下ろされていた。
馬がぶるっと震え、フレアはとっさにアレクシスの体にしがみ着く。
高い。揺れる。怖い。
「あ、あ、アレクシス様……こ、これは……た、高いです」
「すぐに慣れる」
「いやいやいや、待ってください。こんな、あの、馬、初めてで」
慌てふためいていると、頭上からふっと笑うような息遣いが聞こえた気がした。
――あのアレクシス様が笑った? いや、今は笑ってる場合じゃな……。
抗議する前に、アレクシスの手がぐっとフレアの体を抱き寄せ、何の合図もなく馬が走り出した。
フレアは悲鳴を飲みこみ、アレクシスにしがみついてぎゅっと目を瞑る。
でも周りが見えないと余計に怖い。恐る恐る目を開けたところで、夜の道はどこを走っているかもよく分からない。月明かりはあっても、馬の速度が速くて景色に目が追い付かない。
フレアは乗っているだけで必死なのに、アレクシスは片手でフレアの体を支えて、片手で手綱を操っている。
支える手は力強く、フレアを決して落とさないと伝えているようだった。その腕に身を任せていれば安全だと理解し、だんだん体の不要な力が抜けてくる。そうしたらだんだん、周りを見る余裕が出てきた。
林を抜けると、拓けた土地に大きな泉が見える。その泉から、美しい青い光が立ち上っていた。
――綺麗……あれは何?
アレクシスはだんだん馬の速度を緩め、ゆっくりと泉に近づいていく。
すると青い光の正体が見えてきた。
「……蝶、ですか?」
「夜光蝶だ。年に一度、繁殖期にこの泉に集まって番う相手を探す」
「それでこんなに……。すごいですね、泉から光が溢れてるみたいです」
まるでおとぎ話に描かれた挿絵の世界。現実とは思えない、夢のような光景が広がっている。こんなに美しい景色を、見たことがない。
「年に一度って、毎年いつなのか決まってるんですか?」
「いや、そこまでは知らない」
「ではどうしてアレクシス様は、それが今日だとご存じで……?」
「……数年前、遠征帰りにここで同じ光景を見たことがある。そして今日、たまたま帰ってくるときに、光る蝶が泉に向かうのが見えたんだ。それで……君に見せたいと思った」
「わ、私に……? ど、どうしてわざわざ……?」
「…………喜んでくれるかと」
「え……?」
――私を、喜ばせたかったの?
馬の上で抱き寄せられているから、アレクシスの体温が上がるのがフレアにも伝わってきた。速い鼓動も。
急にフレアは、アレクシスがどんな顔をしているのか見たくなった。しかし顔を上げようとすると、アレクシスの腕がぐっとフレアを体に押し付けて、離してくれない。フレアが顔を見ようとしてるのがバレていて、顔を見られないようにわざわざそうしたみたいに思えた。
「アレクシス様……苦しいです。離してください」
「……馬から落ちたら危ないだろう」
「では、馬から下ろしてください」
「泉に落ちても危ない」
「そ……そんなに過保護になる必要あります? 愛するつもりもない、お飾り妻なのに」
頑なに自分を離そうとしないので、つい嫌味っぽいことを言ってしまった。
でも今のは、良き妻の発言ではない。しまったと、フレアは後悔した。
「ご、ごめんなさい。嫌な言い方を……」
「いや……最初に君を愛するつもりはないと言ったのは、俺だ」
改めて言われた言葉が、胸の奥で重りになる。
しかし……。
「その言葉をここで撤回させてくれないか?」
一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。驚きすぎて、思考が止まった。
そんなことを言われる日が来るなんて、思ってなかった。
「結婚初日にあんなことを言った俺を……許してほしい」
馬の上でフレアを抱きしめたまま、アレクシスはやや掠れた声で言った。苦しそうな、絞り出すような声だった。
それだけで、アレクシスが心からそれを願っているのが伝わってくるほどに、切実な。
「――フレア。君を愛したい」
ゾクッとしたのは、寒さのせいじゃない。
むしろ、体に巡ったのは今までに感じたことのない熱。
こみ上げてきた感情は喉で詰まって、呼吸さえぎこちなくなる。
「愛するつもりはないと……仰ったのに」
真っ先に口から出たのは、嫌みな言葉だった。
それをアレクシスは「あぁ、その通りだな」と受け止めてくれた。
「俺はずっとこの国のために戦うことしか頭になかった。だから、前にも言ったが、俺は今まで誰かを好きになったことがなくて、これからも誰かを好きになれると思わなかった。結婚したところで、相手に興味も関心も持てないと思って、普通の結婚生活を望んで裏切られては可哀想だと思い、あんなことを言った」
「えぇ……何も期待するなと、言われましたよ」
「あぁ、そして君は何も期待しなかったな。俺が言った通りに、俺が望む妻になってくれた。なのに俺は愚かだ。……何も期待されないことが、こんなに苦しいことだと初めて知った」
「苦しい……?」
「何も期待しないと言いつつ、君は俺を蔑ろにせず常に温かく接してくれた。俺の愚かな発言に怒りもせず、ただ己の生き方を貫く姿に惚れたんだ。なのに君は、俺に何も望まない。君は俺の気持ちを求めていない。それが……今、とても苦しい」
フレアは思い出した。
アレクシスが自分を突き放す度、フレアは彼の望むものに従ったのに、なぜか反応が悪かったことを。
最初はただの戸惑いだったかもしれない。しかし見返りを求めずにただ妻として温かく接し続けることは、たしかにアレクシスの心を動かしていたようだ。
愛されたいと思っていたわけじゃなくても……アレクシスが自分に惚れたという事実に、胸が高鳴った。
「私に……愛されたいのですか?」
「……それが許されるのなら」
「その気持ちが本当なら……私の顔を見て言ってください」
彼がどんな顔をしているのか、見たい。その気持ちが抑えられない。
アレクシスが何か言う前に、フレアは彼の胸を押して顔を上げた。
フレアに見つめられ、アレクシスの瞳が揺らぐ。ぎゅっと眉根を寄せて、アレクシスが小さく息を呑むのが聞こえた。
今まで見たことのないアレクシスの表情。英雄として名を馳せる武人としての顔とも、不機嫌そうで冷徹な普段の顔とも違う――フレアに愛されたがっている顔。
――可愛い。
本来なら、アレクシスに似つかわしくない言葉のはずなのに。なぜかこの人が可愛く見えて仕方ない。
フレアはアレクシスから目が離せなくなった。
その視線のせいで、アレクシスは落ち着かないように顔を振る。
「……そんなに見るな」
「……見たいです。アレクシス様のお顔」
「何も面白くないだろ」
「面白いから見てるんじゃありません。私の顔を見て言ってくださるのを待ってるのですよ」
「う……」とアレクシスが苦い顔をする。葛藤している姿すら可愛い。
「アレクシス様?」
「……っ。分かっている」
アレクシスが自分の気持ちを静めようとするように、深く息を吐いた。
そして……かつて冷たく恐ろしささえ感じさせたアレクシスの目が、フレアを熱っぽく見つめている。
「君と本当の夫婦になりたい」
美しい泉のほとりで、アレクシスに愛を乞われるなんて。
本当にこれは現実だろうか。
結婚式の夜に「君を愛するつもりはない」と突き放されたことは、きっと一生忘れられない。そのあともずっと冷たくされたのだって、なかったことにはならない。
でも……自分の行いを悔いる姿は切実で、ひどく可愛かった。
「……私はあれでも傷ついていたんですよ。いくら好き合って結婚したのではないとはいえ、せっかく夫婦になったんですからお互いに歩み寄ることもできるはず。そう思っていたのに、一方的に突き放されたのですから」
「……俺が間違っていた。本当に悪かった」
「それに……私のことを本当は好きになっていたなら、なぜパーティーの日の夜に途中で私を置いて部屋を出たのですか? 私、あれもけっこう傷つきました」
「それは……あのときは君が俺の気持ちを知らないまま、そういう行為に及んではいけないと思ったんだ。でないと、俺は一生、君に義務感でしか愛してもらえなくなると」
『……俺を愛していなくても、俺の妻だから抱かれるというのか?』
『……結婚したのが俺じゃなくても、君はこうやって体を差し出すのか?』
あの怒ったような低い声は、アレクシスの葛藤の現れだったのかもしれない。
その根本にあったのは、アレクシスなりの優しさであり、愛。
言葉足らずなせいでフレアは心に要らぬ傷を負ったわけだが、当時のアレクシスの正直な気持ちを聞いたら、悪く思えなくなってしまった。
フレアに愛されたいという気持ちが、アレクシスをここまで変えたのだ。
全20話です。続きます。




