第十二話 旦那様の様子が急におかしくなりました。
翌朝。今、一番会いたくないと思っていた人は、まだ仕事に行っておらず、屋敷にいた。
「……おはようございます」
昨日のことを思い出すと、顔を合わせるのも辛い。でも――フレアはアレクシスに向かって、いつも通りに微笑んだ。
良き妻になる。その言葉はもう胸に刻まれている。その奥に渦巻くどんな感情にも負けず、フレアは良き妻の仮面を被った。
アレクシスは穏やかに微笑むフレアを見たまま動かない。何も言わない。
向こうも会いたくなかったかしら……と思いながら、フレアが「今からお仕事ですか? お気をつけていってらっしゃいませ」などと、当たりさわりのない言葉を口にしようとしたとき。
「……おはよう」
低い声が、聞こえてきた。
初めて返ってきた、挨拶の言葉。
結婚して今まで、フレアから挨拶したことは幾度となくあれど、アレクシスから返ってくることはなかったのに。
「は、はい……おはよう、ございます」
先に挨拶したのはフレアのほうなのに、驚きのあまり言い直してしまった。
「……今日は、第一騎士団と第二騎士団の合同訓練がある。近々、騎士団の剣技大会があるから……それに備えてだ」
「そう……ですか。えっと……頑張ってください」
アレクシスから今日の予定を聞くのも初めてだ。今までにされなかったことを次々にされて、フレアはかなり戸惑っていた。
「……その剣技大会に、君も来い」
「え? あ、アレクシス様がそう仰るのでしたら……必ず行きます」
「……では、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
ようやくアレクシスは歩き出し、廊下には戸惑うフレアだけが残された。
……正直、もうアレクシスは自分と言葉を交わすことさえしないんじゃないかと思った。だって子作りをしようって話をしたくせに、直前になって部屋を出ていってしまったのだから。何が原因か分からないけど、アレクシスに拒まれたのは確かだった。
ところが……今日は一体何なのだろうか。アレクシスの様子がおかしい。
「奥様……!」
「あ、リドルさん。おはようございます」
さささっと近づいてきたのは執事服のリドル。リドルは嬉しそうに目を細め、「ふふっ」と笑っていた。
「おはようございます! 今日はなんと清々しい朝でしょうね。旦那様が奥様に挨拶を返されるとは……」
「リドルさんも見てたんですか?」
「あちらにおりましたら、声が聞こえてきまして……そのあと、騎士団の剣技大会にお誘いする姿はこっそり拝見しておりました。旦那様は昨年もその前も、剣技大会で優勝されているんですよ。きっと今年は、その勝利を奥様に捧げるおつもりなのでは……?」
「そ、そんなまさか……」
「信じられませんか? 私めも信じられないことです! しかし確かに旦那様は、奥様に気を許し始めていると思います」
――私に気を許している? でも昨夜は……。
「……きっとアレクシス様の気まぐれですよ」
昨夜のことがなかったら、アレクシスが心を開いてくれたのだと喜べたかもしれない。でも昨夜のことを思うと、何も喜べない。
アレクシスが昨日のことを申し訳なく思っていて、フレアの機嫌を取ろうとして頑張ってると考えればまだ納得できるけど。
しかしアレクシスがフレアの機嫌を取ろうとする理由も分からないので、やっぱり気まぐれだと思うことにした。
*****
ところがアレクシスの気まぐれは、その日だけでは終わらなかった。
その翌朝、フレアが食堂へ向かう途中でアレクシスと顔を合わせたときのこと。
「アレクシス様、おはようございます」
いつものように微笑みかけると、アレクシスは足を止めた。
「……ああ、おはよう」
また、挨拶が返ってきた。
昨日はたまたま機嫌が良かったとか、気まぐれじゃなかったのか。
「……どうした?」
「あ、いえ。何でもありません」
慌てて首を振るとアレクシスは少し怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は追及してこなかった。それどころか、フレアは聞いてもいないのに「……今日は帰りが遅くなる」と言い出した。
「そうですか……お仕事、大変なんですか?」
「剣技大会に向けた訓練のあと、幹部会議がある」
「お忙しいのですね。では、夕食は……」
「先に食べていてくれ」
「承知しました。では、お帰りになったらすぐ召し上がれるよう、調理場に伝えておきますね」
「……ああ」
それだけの、何ということもない会話。夫婦なら当然のやりとり。
でも、普通の夫婦とは程遠い関係だったフレアにとっては、驚きの連続だった。
――理由は分からないけど、当たり前の話ができるのは、やはり嬉しいことよね。
それからも、アレクシスの態度には少しずつ変化が見られるようになった。
朝の挨拶には必ず返事があり、出かける際には「行ってくる」と告げてくれる。帰宅したときも、無視されない。
「アレクシス様、お帰りなさいませ。今日もお疲れ様でした」
「……あぁ。ただいま」
初めてその言葉を聞いたとき、フレアは思わず顔を上げてしまった。まるで自分が彼の帰る場所になれたような気がして、胸がドキドキした。
愛情を期待しているわけじゃないけど、アレクシスを支えられる妻になりたいと思ったのは本心だから、その目標が叶っているような気がして嬉しい。
ただ、アレクシスがあれから夜にフレアの部屋を訪れることはなく、跡継ぎについての話題を出すこともなかった。それだけがフレアの心にずっと引っかかっていたが、それを考えるとあの夜の虚しさまで思い出してしまうため、なるべく考えないようにしている。
そして……さらに数日が経つと、アレクシスはフレアの何気ない話にも耳を傾けるようになった。ある日の夕食時には……。
「そういえば、今日は庭師の方にお願いして、庭園に新しい花を植えていただいたんです」
フレアが何気なく話しかけると、アレクシスが食事の手を止めた。
「……花?」
「はい。今まであまり植えられていなかった種類なのですが、とても可愛らしい花を咲かせるそうで。春になったら、庭園が少し華やかになると思います」
「……そうか」
「お仕事の合間に、窓からでも眺めていただけたら嬉しいです」
フレアは微笑み、スープを口に運んだ。
以前なら、そこで会話は終わっていただろう。しかし――。
「……どの辺りに植えたんだ?」
「……え?」
「その花だ」
フレアは驚いて顔を上げた。
まさか、アレクシスのほうから話を広げに来るとは思わなかった。
「えっと……南側の庭園です。噴水の近くに花壇がありますでしょう? あの辺りです」
「……そうか。春になったら見よう」
春を楽しみにしてくれているように聞こえて、それだけでフレアの胸の中は温かくなった。
それからも、そんな小さなやり取りが増えていった。
「アレクシス様、今日はメリーが新しい焼き菓子を用意してくれたんです。よろしければ、食後にいかがですか?」
「……甘いのか?」
「はい。蜂蜜と木の実を使ったお菓子ですので……甘いものは苦手でしたか?」
「……少しなら食べる」
「……では、お茶も一緒にお持ちしますね」
また、別の日には……。
「今日はずいぶん冷え込みますね。騎士団の皆様も、訓練が大変なのではありませんか?」
「寒さで文句を言う奴は騎士団にいない」
「そ、そうですか……でも汗をかいたまま冷たい風に当たると、お体が冷えてしまいますからお気をつけてくださいね」
「分かっている」
ややぶっきらぼうな言い方だったため、フレアは言わないほうが良かっただろうかと後悔したが……。
アレクシスはフレアをちらっと見ると、低い声で付け加えた。
「……君も、庭に出るなら暖かくしておけ」
「え?」
「……冷えると言ったのは君だろう」
「あ……はい。ありがとうございます」
気遣われたと気づいただけで、寒さを忘れた。
アレクシスは相変わらず口数が少なく、表情も険しい。気の利いた冗談を言うこともなければ、優しい言葉を惜しみなくかけてくれるわけでもない。ただ……突然投げかけられる気遣いが、フレアの心を騒がせた。
――あぁもう……私って本当に単純。
最初に、何を話しかけても無駄なのだろうと思っていた時期があるから、この変化が心に効いてしまう。
話を聞いてくれると分かってしまったから、いろいろとフレアも声をかけたくなってしまう。今日あった出来事や、屋敷の中で見つけた小さな楽しみ。そんな他愛のない話をすることが、いつしかフレアの日常になり始めていた。
その変化は、使用人たちの目にも明らかだったらしい。
ある日、夕食を終えたフレアが食堂を出ると、廊下で待っていたメリーが嬉しそうに声を潜めた。
「奥様! 最近、旦那様が随分とお話しされるようになりましたね!」
「ふふ……そうなの。驚いちゃうわよね。以前より、ずっとお話ししやすくなった気がするわ」
「旦那様が奥様のお話に耳を傾けていらっしゃる姿を見ると、なんだか私も嬉しくなってしまいます!」
フレアは柔らかく微笑んだ。もちろん、まだ夜会の晩に起きたことを忘れたわけではない。もしかしたら、気まずさを解消しようと努力してくれているだけなのかもしれないとも思っている。
でもそれならそれで、その気遣いを素直に受け取ればいいと考えるようになっていた。
全20話です。続きます。




