第十一話 旦那様が子作りを望むのでしたら、どうぞ。
ようやく屋敷に到着した頃には、すでに日付が変わっていた。
馬車が石畳の上をゆっくりと進み、玄関前で停車する。屋敷の窓のほとんどは明かりが消えているが、玄関ホールだけは温かな光が漏れていた。
「旦那様、奥様、お帰りなさいませ。夜会、お疲れ様でございました」
馬車を降りたアレクシスとフレアを、リドルをはじめとした使用人たちが出迎える。
「ただいま、リドルさん。皆もこんな時間まで起きていてくれてありがとう。もう遅いから、皆も早く休んでね」
「お気遣いありがとうございます、奥様。旦那様も奥様もどうぞゆっくりお休みください」
そんなやり取りをしている間も、アレクシスはほとんど口を開かなかった。
二階へと上がると、夜更けの廊下は静まり返っている。フレアはアレクシスに続いて廊下を歩き、やがて自室の前に到着すると足を止めた。
「それでは、アレクシス様。今夜はお疲れ様でした。どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
先ほどの馬車での気まずさはなかったことにして、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
これで今日の務めも終わるはずだったが……。
「……なぁ」
「……はい?」
「少しいいか? 話がある」
フレアは思わず目を瞬かせた。
――い……今から?
すでに真夜中である。しかも、帰りの馬車ではあれほど気まずい沈黙が続いたばかりだ。今さら何を話すというのだろう。正直なところ、できれば明日にしてほしかった。
けれど、アレクシスは真剣な顔でこちらを見つめている。良き妻として……これを断ることはできない。
フレアは小さく息を吸い、扉に手をかけた。
「……どうぞ」
◇
アレクシスを部屋に招き入れると、フレアはまず室内のランプに火を灯した。
柔らかな明かりが広がり、アレクシスの横顔が見える。彼は入り口付近に立ったまま、室内をゆっくりと見回していた。
「綺麗に使ってるんだな」
アレクシスがぽつりと呟いた。
そういえば、アレクシスがフレアの部屋に入るのはこれが初めてだった。結婚してから、彼は一度もフレアの私室を訪ねてこなかったから。
「いただいたお部屋が素敵でしたので、綺麗に保ちたくて」
「……自分のものはほとんど買い足していないんだな」
「最初にいただいたもので充分ですから」
「金なら充分あるんだ。もっと公爵夫人として華やかに暮らしてもいいんじゃないか。たまに使用人を集めて茶会を開いていると聞くが、そういうものではなくて……」
確かに公爵夫人ともなれば、華やかな暮らしもできる。流行のドレスを何着も仕立てたり、宝石を買い集めたり、高価な家具で部屋を飾ったり……そうしたことにお金を使うのも、貴族の妻としてはごく自然なことだ。
けれどフレアは裕福でない家で暮らしてきたからか、お金の大切さが身に染みているし、それほど物欲が強いほうではなかった。
「自分のためにお金を使うより、誰かと楽しむためにお金を使うほうが有意義だと思いませんか?」
「……そういうものか?」
「少なくとも私はそうなんです。あ……決して遠慮しているわけではありませんよ。今の暮らしで十分満足しているということです。お屋敷の皆さんも親切ですし、毎日楽しく過ごさせていただいています。これ以上、何かを望むこともありません」
そう言って微笑むと、アレクシスはなぜか眉間にしわを寄せた。
「……何も望まないのか」
「え?」
「……いや」
会話が、途切れた。部屋の中に、しんとした静けさが広がる。
話しているときは良かったが、一回沈黙するとフレアも言葉が出なくなり戸惑った。
そして今更ながら、夜、部屋に男性がいるというこの状況に緊張してくる。夫婦なのだから、本来なら何もおかしな状況ではないのだけど。
この居心地の悪さから早く解放されたくて、フレアは思い切ってアレクシスに話しかけた。
「……あの、アレクシス様。先ほど、何かお話があると仰っていましたけれど……できればもう遅いので明日にしていただけませんか? そろそろ窮屈なドレスも脱ぎたいですし……」
だから部屋を出てほしい……と暗に伝えたつもりだった。
パーティーで疲れたし、ドレスを脱いで軽く湯浴みをして早く寝たい。
しかしアレクシスは退室するどころか……なぜかフレアに近づいてきた。
「なら手伝おう」
「……え?」
あまりに予想外の言葉に、フレアは一瞬固まって動けなくなった。
その隙にアレクシスの手が、フレアの背中の紐をしゅるっと解く。体にぴったりと沿っていたドレスが緩むのを感じて、慌ててフレアは胸元を押さえた。
「あ、アレクシス様……」
「手を離せ。脱がしてやれないだろう」
「い、いえ、アレクシス様が部屋を出てくださったら自分で脱げますので……!」
「……今宵は俺もここで寝る」
「はい?」
「総指揮官も言っていたが……家の跡取りが必要だ」
恥ずかしくて熱くなっていた体が、すっと冷えた。
ようやくアレクシスがこの部屋に来た目的がはっきりとわかった。アレクシスはフレアに妻の務めを求めていたのだ。
跡継ぎはどうするのだろう……他に当てはあるのかなんて夜会中に考えていたが、どうやらその役目はフレアにあったらしい。
――愛していない妻でも、跡取りのためなら抱けるのね。
どうやら……今日が二人の初夜になるようだ。
フレアは覚悟を決めた。
「……分かりました」
ドレスを押さえるのをやめ、むしろ自分から脱ぎ捨てた。
男の人の前でドレスを脱ぐのは、もちろん初めてだ。恥ずかしい。でも、恥ずかしがっていて時間がかかって、この恥ずかしい時間が長くなるのも耐えられない。覚悟を決めてさっさと行動したほうが、恥ずかしい時間が減るはずだ。
羞恥心から目を逸らして、下着姿で自らベッドに向かう。
そしてフレアがちょこんとベッドの隅っこに腰を下ろすと、なぜかアレクシスは戸惑った表情でフレアを見ていた。
――そ、その顔は何……?
「……今宵は、俺もここで寝る」「総指揮官も言っていたが……家の跡取りが必要だ」なんて言うから、子作りをするんだと思って覚悟を決めたのに、言い出した本人が何に戸惑うのだろうか。
「あの……どうぞ?」
顔は平静を装っているが、フレアの心臓は激しく鼓動していた。
やっぱり初めての子作りというのは痛いのだろうか。アレクシスは体が大きいから、いろいろ負担は大きいかもしれない。それでもやらなきゃいけない。――愛されていなくても、良き妻であろうと決めたのだから。
この覚悟が挫ける前にさっさと始めて、さっさと終わらせてほしい。
そう願っていると、アレクシスがゆっくりとベッドに近づいてきて、フレアの隣に座った。
アレクシスの大きな手が横から伸びてきて、フレアの頬に触れる。
いつも剣を握っている無骨な指が、壊れものに触れるようにそっと動いていた。
「……ドレスを脱がすときは取り乱していたのに、急に大人しくなったな。……嫌じゃないのか」
「……嫌などと、言える立場ではないでしょう。私は、アレクシス様の妻です。アレクシス様が望まれるのでしたら、私はそれに応えるのみです」
身を差し出す準備は出来ていると伝えたつもりだった。
しかし……アレクシスの瞳が揺らぎ、頬に触れていた手はぐっとフレアの肩を掴んだ。
「……俺を愛していなくても、俺の妻だから抱かれるというのか?」
「え……」
肩を押されるとフレアの体はあっという間にベッドに倒された。
アレクシスはどこか苦しそうな表情をして、フレアを見下ろしていた。
「……結婚したのが俺じゃなくても、君はこうやって体を差し出すのか?」
「……それは……」
……フレアには恋人ができたことはない。家のために結婚することにも抵抗はなかった。それで家が助かるのなら、それでいいと思っていた。だから……求婚してきたのがアレクシスではなくても、フレアは結婚した。子作りを求められれば、応じていた。
それは……間違いない。だから……。
「はい」
フレアは静かに答えた。
アレクシスはしばらく何も言わず、フレアを見ていた。
その赤い瞳が、何を言いたいのか、フレアには全然分からない……。
「……そうか」
ようやく聞けたアレクシスの声は低く、重かった。
彼の要望を叶えようとしているだけのはずなのに、怒られてる気分になる。せっかく勇気を出してこの時間を堪えようと思っていたのに、このままじゃ挫けそうだ。
「……アレクシス様だって、私を愛してなくても、跡継ぎが必要だから……するんですよね」
何か言わなきゃと思って振り絞った言葉。
それ聞いて、アレクシスが小さく息を呑んだ。そして……気まずそうな顔をしてフレアの上から離れていく。
自分から顔をそむけたアレクシスは暗にこの夜の終わりを伝えているようで、フレアもさすがに戸惑った。
「あの……アレクシス様? こ、子作りは……?」
「……」
「あ、そうでした……こういうのはまず、湯浴みから……」
「……今夜はやめておく」
「……え?」
「……部屋に戻る。ゆっくり休め」
立ち上がったアレクシスは一度もフレアのほうを振り向くことなく、まっすぐにドアに向かい――あっさりと部屋を出ていってしまった。
――え? 跡継ぎとか言い出すからせっかく覚悟を決めたのに、なんで何もせずに出ていくの!?
しようとしたけど、自分に何かあって気が削がれたのだろうか。
何か間違ったことをしただろうか。
いろいろ考えてみたけど全然分からない。自分の発言を顧みようとしたが、緊張していたフレアは、だんだん自分が何を言ったのかも思い出せなくなっていた。
――これでも、頑張ったのに。
ひとり、下着姿でベッドの上にいるのが、あまりに惨めだ。
アレクシスに拒絶されるのは今までに何度もあったことだが、今までで一番ショックに感じた。
結婚して初めて……フレアの目から涙がこぼれた。
全20話です。続きます。




