第4話 機械と魔法の世界
扉が開くと、蒸気の匂いがした。
それから、焦げた砂糖のような、甘くて少しつんとする匂い。どこかで歯車が噛み合う、かちり、かちりという音。その合間に、鈴を転がすような、澄んだ高い音が混じっている。
ノアはホームに降り立って、顔を上げた。
空に、舟が浮かんでいた。
木と真鍮でできた細長い舟が、帆の代わりに大きなプロペラを回しながら、街の上をゆっくりと渡っていく。その舟底には、青白く光る紋様がびっしりと刻まれていて、光が明滅するたびに、舟がふわりと高度を上げた。
「……機械? それとも、魔法?」
どちらにも見えた。どちらでもあるようにも見えた。
懐中時計の蓋を開けると、数字は〈48:00:00〉。
ノアは、ホームの階段を駆け下りた。
*
街は、音でできていた。
石畳の上を、路面電車が走っていく。車体の屋根には、パンタグラフの代わりに、拳ほどの透き通った石が据えつけられていて、それが淡く光るたびに、車輪がぐんと回る。車掌が紐を引くと、鐘の代わりに、ちりん、と光の粒が舞った。
通りの両側には、店がひしめいていた。
時計屋の店先では、文字盤の上に小さな光の鳥が止まっていて、時刻が変わるたびに羽ばたいて鳴いた。隣の工具屋では、真鍮のレンチやスパナと並んで、紋様の刻まれた杖や、羽根ペンのような形をした道具が売られている。
角の屋台では、店主が鍋を三つ同時にかき混ぜていた。両手と、それから背中から生えた、二本の機械の腕で。機械の腕の手首には小さな紋様が光っていて、店主が肩をすくめるたびに、腕が勝手に塩をひとつまみ鍋へ落とした。
「坊主、食べてくかい」
「それ、なんですか」
「芋と腸詰めの煮込み。腕は四本でも、味は一つだよ」
ノアは笑って、一皿買った。
熱い煮込みを頬張りながら、通りを歩く。
街灯は、柱の根元に刻まれた紋様を、通りがかった人が軽く靴の先で叩くと、ぽっと灯った。郵便受けからは、紙を折ったような機械の鳥が、かしゃかしゃと羽ばたいて飛び立っていく。広場の噴水は、歯車仕掛けの塔から水を汲み上げ、てっぺんで紋様の光をくぐらせて、虹色の霧にして降らせていた。
広場の端では、二人の職人が、一台の荷車を挟んで言い合っていた。
「だから、車輪の軸受けは鋼で作り直すべきなんだよ。紋様なんか刻んだって、すぐ擦り切れる」
「擦り切れる前に描き直せばいいだけだろう。鋼は重い。重さを紋様で消すのに、余計な手間がかかる」
言い合いながら、二人とも顔は笑っていた。結局、片方が軸受けを鋼で作り、もう片方がその表面に紋様を刻む、ということで落ち着いたらしい。
機械と、魔法。
どちらか一方ではなく、どちらも、同じ通りの、同じ暮らしの中にあった。
ノアは煮込みの皿を返して、また歩き出した。見たいものが、多すぎた。
*
日がずいぶん高くなった頃、ノアは一軒の工房の前で足を止めた。
開け放たれた扉の奥で、誰かが空中に浮かんでいた。
いや、浮かんでいるのは人ではなかった。人の背丈ほどもある鉄の梁が、ふわりと宙に浮いて、ゆっくりと回転している。その下で、作業着の女の人が、片手を上げて、梁の向きを調整していた。
その手に、グローブがはめられていた。
革と真鍮でできた、肘近くまである長いグローブ。指先には小さな金属の当て板がついていて、手の甲には、豆粒ほどの灯りが三つ、横に並んでいる。手首には、目盛りの刻まれた輪っかがはまっていた。
女の人が手首を返すと、梁は静かに床へ降りた。
「……すごい」
思わず声が出た。女の人が振り返る。
「見学かい?」
「あの、それ……なんですか」
「これかい」
女の人はグローブをはめた手を、ひらひらと振ってみせた。
「機械式グローブ。機械の手袋に、魔法の紋様を組み込んだもんだ。作業用の貸し出し品だよ。旅の人にも貸してる」
「旅の人にも?」
ノアの目が、自分でも分かるくらい輝いたのだろう。女の人――工房の技師は、呆れたように笑った。
「借りたいって顔だね」
「借りたい、です」
技師は棚から、少し小ぶりなグローブを一組取り出した。
ノアの手には、まだ少し大きかった。技師が手首の留め金を締めると、革が手のひらにぴたりと吸いつく。思っていたよりも、ずっと軽い。
「使えるのは四つ。光、浮かす、飛ぶ、跳ぶ」
技師は、手首の輪っかを指で弾いた。目盛りが、かちりと動く。
「この輪で、何をするか選ぶ。選んだら、手で動かす。光なら、親指と中指の先を合わせる。浮かすなら、手のひらを下に向けて、ゆっくり押し上げる。飛ぶのは、背中を伸ばして両手を下に払う。十数秒しか飛べないし、一回飛んだら少し休ませないとだめだ」
「跳ぶ、っていうのは?」
「見えてるところに、ちょっとだけ跳ぶ。人差し指で場所を指して、拳を握る。ただし、見えてるところだけだよ。壁の向こうは無理。遠くも無理。それに、いちばん力を食う」
技師は、手の甲の三つの灯りを指さした。
「力が減ったら、この灯りが一つずつ消える。全部消えたら、ただの手袋だ。戻ってくれば、また詰めてやる」
ノアは、手の甲の灯りを見つめた。三つとも、まだ明るく光っている。
「試してごらん。最初は、光からだよ」
輪を回す。親指と中指の先を、そっと合わせる。
指先が、ふわりと温かくなった。
合わせた指のあいだから、小さな光の玉が生まれた。蛍のように柔らかい光が、ノアの顔を照らして、ゆらゆらと揺れる。
「……出た」
「出たね」
技師は、満足そうに頷いた。
「返すときは、ここに戻ってきな。わたしはここに住んでるようなもんだからね。夜中でも、窓に灯りがついてりゃ叩けばいい」
時計を見ると、〈41:00:00〉。
「うん。ちゃんと、返しに来ます」
工房を出るとき、ノアの手のひらには、まだ光の温かさが残っていた。
*
浮かすのは、思っていたより難しかった。
工房の裏の空き地で、ノアは手頃な木箱に手のひらを向け、ゆっくりと押し上げた。
木箱が浮いた。
浮いて――止まらなかった。ノアの頭を越え、塀を越え、まだ上っていく。
「わ、わっ、待って!」
慌てて手のひらを下に向ける。木箱は空中でぴたりと止まり、それから、すとんと落ちてきた。地面にぶつかる寸前で、どうにか受け止める。
息を吐いた。
手の加減だ。押し上げる速さで、浮く高さが変わる。速く押せば、高く浮く。
何度か繰り返すうちに、木箱を腰の高さで止められるようになった。目の高さで止められるようになった。木箱を浮かべたまま、空き地を一周できるようになった。
自分にもかけてみた。
足が、地面から離れる。身体が、ゆっくりと宙に浮かんだ。第2世界で境目を越えたときとは違う。上と下が入れ替わるのではない。上と下はそのままで、ただ、自分だけが軽くなる。
ノアは、くすくす笑いながら、空中で足をばたつかせた。
次は、飛ぶ。
輪を回して、背中を伸ばし、両手を下へ払う。
ぐん、と身体が持ち上がった。
屋根の高さを越える。煙突の脇を抜ける。眼下に、路面電車の屋根が光っている。風が耳元で鳴って、髪がばさばさと揺れる。
「――っ、あはは!」
笑いが、空に散った。
けれど十数秒で、背中を押していた力がふっと抜けた。高度が下がる。屋根が近づく。
着地は、ひどかった。
どこかの家の物干し台に、尻もちをついて転がり込んだ。干してあったシーツが、ばさりと頭にかぶさる。
「……ごめんなさい」
誰もいない物干し台に謝って、シーツをかけ直す。手の甲を見ると、三つの灯りのうち、一つが少しだけ暗くなっていた。
最後に、跳ぶ。
物干し台の端から、向かいの屋根の煙突を見る。人差し指で指す。拳を握る。
目の前が、一瞬、白く弾けた。
気がつくと、ノアは向かいの屋根の上にいた。
――煙突の、ちょうど一歩手前。
「……ずれた」
狙ったのは煙突の脇だった。足元の瓦が、かたりと鳴った。もう少しずれていたら、煙突にぶつかっていたかもしれない。
それでも、ノアは屋根の上で、しばらく自分の手を見つめていた。
見えているところへ、跳んだ。自分の足ではなく、このグローブで。
知らない道具で、知らないことができる。
それが、たまらなく面白かった。
*
街の外れに、古い塔が立っていた。
空中観測塔、と看板に書いてある。ずいぶん前に建てられたものらしく、真鍮の骨組みはすっかりくすんで、ところどころに緑の錆が浮いていた。
塔の入口では、白い髭の老人が、椅子に座って居眠りをしていた。ノアが近づくと、片目を開ける。
「上るかい。昇降機は動くよ。遅いがね」
昇降機は、鉄の籠だった。老人が壁の大きなレバーを倒すと、頭の上で、がらがらと鎖が鳴り始める。籠の底に嵌め込まれた古い石が、ぼんやりと光った。
「錘と鎖で持ち上げて、石でちょいと軽くしてやる。今の昇降機なら、石だけで一息に上がるんだがね」
老人の言うとおり、籠は遅かった。がらがら、がらがらと、少しずつ上っていく。そのぶん、塔の外の景色が、ゆっくりと広がっていった。
てっぺんには、大きな望遠鏡があった。
筒は真鍮で、レンズの縁には、すり減った紋様が刻まれている。覗き込むと、遠くの山並みが、驚くほど近くに見えた。その手前に広がる、工場の煙突の群れ。森。川。街を出ていく線路。
「昔は、ここから空の舟を見張ってたんだ。嵐が来る前に、港へ知らせてやるのさ」
いつの間にか、老人が上がってきていた。どうやら、階段を使ったらしい。
「今は、もっといい観測の仕組みがあってね。この塔は、半分飾りみたいなもんだよ」
「でも、すごくよく見えます」
「ああ」
老人は、望遠鏡の筒を、手のひらでそっと撫でた。
「よく見えるのは、昔から変わらないんだ」
ノアは、もう一度望遠鏡を覗いた。
古い道具の中に、まだちゃんと残っているものがある。新しいものとは違うやり方で、新しいものと同じくらい遠くを見せてくれる。
望遠鏡の向こうで、山並みが夕焼けに染まり始めていた。塔を下りる頃には、街にぽつぽつと灯りがともっていた。
*
時計は〈33:00:00〉を回っていた。
工房の近くの食堂で、ノアは夕飯を食べた。鉄板の上で、紋様の火がしゅうしゅうと肉を焼く。添えられたパンは、焼きたてで、中から湯気が上がった。
食べ終わる頃には、瞼が重くなっていた。
今日は、浮いて、飛んで、跳んで、転んだ。身体じゅうが、心地よくくたびれている。
食堂の二階が、旅の人向けの宿になっていた。ノアは小さな部屋の寝台に倒れ込んで、グローブを枕元に置いた。手の甲の灯りは、三つのうち一つが消えかけていた。
窓の外では、夜空を渡る舟の明かりが、ゆっくりと流れていく。
ノアは、そのまま眠った。
*
目を覚ましたのは、〈26:00:00〉の頃だった。
外はまだ薄暗かった。工房へ寄ると、窓に灯りがついていた。技師はもう起きていて、ノアのグローブを受け取ると、手の甲に細い管を当てて、何かを流し込んだ。消えかけていた灯りが、また明るくなる。
「ずいぶん使ったね。どこまで飛んだ」
「物干し台まで」
「上等だ」
技師は笑って、グローブを返してくれた。
まだ見ていない場所が、たくさんあった。
ノアは街の反対側、工場が建ち並ぶ一角へ向かった。夜明けの空に、煙突から白い蒸気が上がり、巨大な歯車がゆっくりと回っている。工場の脇の市場では、朝早くから荷車が行き交っていた。
果物屋の前を通りかかったときだった。
荷車から、林檎が一つ転げ落ちた。
林檎は石畳の上へ落ちて――落ちる途中で、ふっと止まった。
それから、ほんの一瞬だけ、上へ向かって転がった。
次の瞬間には、もう普通に落ちて、石畳の上で弾んでいた。果物屋の主人が、何事もなかったように拾い上げる。
ノアは、その場で動けなくなった。
「……今の」
「ん? ああ、最近たまにあるんだよ」
果物屋の主人は、林檎を荷車に戻しながら、肩をすくめた。
「浮かせの紋様が、どこかで暴れてるんだろうさ。工場の連中が、そのうち直すだろう」
浮かせの紋様。
ノアは、自分のグローブを見た。浮かせるのは、こういう動きではない。浮かせた物は、ただ浮く。上と下が入れ替わったりはしない。
さっきの林檎は、浮いたのではなかった。
一瞬だけ――下が、上になった。
市場をもう少し歩くと、また見つけた。軒先に吊るされた紋様の提灯が、くるりと逆さまに回って、またすぐに戻った。その下を歩いていた人が、一歩だけたたらを踏んで、首をかしげながら通り過ぎていく。
ノアも、その場所を通ったとき、一瞬だけ、足元がふわりと頼りなくなった。
知っている感じだった。
空の向こうに大地がある世界。布の結ばれた境目。お腹の底が、ふわりと浮く感じ。
「……似てる」
でも、ここは天空逆さま世界ではない。
上と下が入れ替わる世界は、ここではない。
だったら、どうして。
何が、起きているんだろう。
ノアは、林檎が転がった方角を、じっと見つめた。
*
誰かに頼まれたわけではなかった。
ただ、見たかった。何が起きているのか、自分の目で。
ノアは、変なことが起きた場所を、一つずつ辿っていった。市場の提灯。工場の裏の水たまりで、水面がほんの一瞬、波紋ごと上へ跳ねた。路地の奥で、散らばった木の葉が、風もないのに舞い上がって、すぐに落ちた。
どれも、ほんの一瞬だった。
けれど、街の外れへ向かうにつれて、その一瞬が、少しずつ長くなっていく。
街を出ると、古い線路が、草に埋もれながら森の方へ延びていた。もう使われていないらしく、枕木は苔に覆われ、レールは赤く錆びている。
その線路沿いに、変なことが続いていた。
森の手前の崖では、崩れた岩の欠片が、地面と崖のあいだで、宙に浮いたまま止まっていた。ノアは手頃な石を拾って、崖の下へ投げてみた。石は落ちて、途中で止まり、ゆっくりと上へ戻ってきて――また落ちた。
崖の向こうへ続く線路は、途中で途切れていた。崩れた橋の残骸の向こう、谷を挟んだ反対側で、線路はまた森の奥へと続いている。
谷は、深かった。橋の残骸のあいだに、向こう岸がはっきりと見える。
ノアは、手首の輪を回した。
人差し指で、向こう岸の、平らな岩の上を指す。拳を握る。
目の前が、白く弾けた。
気がつくと、ノアは向こう岸に立っていた。狙った岩の、半歩手前。今度は、ほとんどずれなかった。
「……よし」
手の甲の灯りが、一つ、少し暗くなった。
森の中は、昼間なのに薄暗かった。ノアは指先を合わせて、光の玉を生んだ。柔らかな光が、苔むした枕木を照らしていく。
森の奥へ進むほど、空気がおかしくなった。
ときどき、足元の感覚が抜ける。木の枝から落ちた雫が、地面に届く前に、ふわりと浮かび上がる。耳の奥が、かすかに鳴る。
ノアは、ときどき立ち止まって、深く息をついた。
怖くないわけではなかった。
でも、この先に何があるのか、見たかった。
線路を辿って、どれくらい歩いただろう。時計を見ると、〈19:00:00〉を少し過ぎていた。
森が、急に開けた。
*
谷底の、小さな草地だった。
草に埋もれかけた引き込み線の上に、列車が一両、停まっていた。
古い列車だった。
木の車体は、塗装がすっかり褪せて、もとが何色だったのかも分からない。真鍮の手すりはくすみ、窓のいくつかには板が打ちつけてある。屋根の上には、蒸気の配管が何本も這い回り、その一部は新しく継ぎ足されたらしく、そこだけ不自然に光っていた。
機関部の扉が開いていて、その周りに、工具や部品が散らばっている。
ノアは、立ち尽くした。
形が、似ていた。
ノアが乗ってきた列車と。木の天井の弧。真鍮のランプ。窓の並び方。ずっと古くて、ずっとくたびれているけれど。
――昔この列車と同じように走っていた列車にも、今どこにいるのか分からないものがあります。
車掌の声が、耳の奥によみがえった。
もしかして。
「誰だ」
鋭い声がした。
列車の陰から、三人の人影が現れた。
真ん中に、白髪混じりの、がっしりとした体つきの老人。油で汚れた作業着の袖をまくり、手には大きなスパナを握っている。その脇に、痩せた中年の女の人と、ノアより少し年上くらいの若い男。三人とも、くたびれた紺色の制服を着ていた。
ノアの乗ってきた列車の車掌と、よく似た色の制服だった。
老人は、ノアを頭のてっぺんからつま先まで眺めた。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……別の列車の旅行者か」
「うん」
ノアは頷いた。
「みんなも、列車の人?」
「この列車の、乗務員だった」
老人は、スパナを下ろした。
「長いこと、こいつで働いてきた」
*
警戒は、すぐに解けた。
老人は、この列車の機関士だった。女の人と若い男も、同じ列車で長く働いてきた仲間だという。
ノアは、機関部の扉の前に立った。
中は、複雑だった。歯車。配管。紋様の刻まれた金属板。新しい部品と古い部品が、継ぎ接ぎのように組み合わされている。
その真ん中に、見慣れない装置があった。
金属の枠の中に、何かが嵌め込まれている。周りを、細い管と紋様が、蜘蛛の巣のように取り巻いていた。
ノアは、装置に近づいた。
近づくにつれて、足元がふわりと頼りなくなった。
森で感じたのと、同じ感じ。いや、もっと強い。装置の脇に置かれた工具が、かたかたと震えて、ほんの一瞬、上へ向かって滑った。
ノアは、指先を合わせて、光の玉を生んだ。
光が、装置の中を照らす。
枠の中にあったのは、石だった。
手のひらに収まるくらいの、滑らかな石。くすんだ灰色で、ところどころに細かな傷がついている。少しだけ透き通っていて、その奥で、淡い光がゆっくりと動いていた。
光は、石の中を沈んでいき――底に着くと、また浮かび上がっていく。
ノアは、息を止めた。
思い出していた。
天空逆さま世界。反転の境界の真ん中。小さな岩の島の窪みにあった、青みがかった灰色の石。手のひらの上で、どちらが下か決めかねるように、光が沈んだり浮かんだりしていた。
色は、同じではなかった。この石の方が、ずっとくすんでいる。形も、少し違う。
でも――周りで起きていることは、同じだった。
上と下が、入れ替わる。
「これ、もしかして……」
ノアは、振り返った。
「天空逆さま世界の、反転石?」
三人の顔が、こわばった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、機関士が、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだ」
低い声だった。
「わしらが、向こうの教会から持ち出した」
*
草地の端の、倒れた木の幹に、四人で並んで座った。
機関士は、しばらく黙って、自分の手を見ていた。油の染み込んだ、節くれだった手だった。
「こいつは、もう古い」
やがて、そう言った。
「長いこと走ってきた。わしらも、ずっと一緒に走ってきた。だが、もう走らせられんと言われた。廃棄が決まった」
「……廃棄」
「わしらには、それが呑み込めなかった」
女の人が、膝の上で手を組んだ。
「まだ動くのに、って思ったのよ。どこも、まだちゃんと動いていたのに」
「だから、こいつと一緒に逃げた」
機関士は、谷底の列車を見やった。
「直せば、まだ走れると思った。直すには、強い力の石が要った。あの石なら、こいつの足をもう一度立たせられるかもしれんと思った」
「天空逆さま世界が、どうなるか――」
ノアが言いかけると、機関士は、目を閉じた。
「分かっていた」
短い言葉だった。
「あの石がなくなれば、向こうの何かが狂うかもしれん。分かっていて、持ち出した」
若い男が、うつむいた。女の人は、何も言わずに、前を見ていた。
「それでも、こいつを失いたくなかった」
風が、草地を渡っていった。
ノアは、膝の上で、グローブをはめた手を握りしめた。
知っている。天空逆さま世界がどうなったか。
早すぎる反転に怯えていた広場の人たち。棚の壺を縄で縛りつけていた男の人。子どもを抱いたまま、戸口から出られずにいた母親。空っぽの台座の前で、白くなるほど杖を握りしめていた堂守。
あれは、この石がなくなったからだった。
悪いことだ、と思った。
でも、目の前の三人を見ていると、それだけでは終われなかった。
機関士の手。女の人の、組んだままの指。若い男の、うつむいた横顔。
この人たちは、分かっていて、それでもやったのだ。
そこまでして、残したかったのだ。
ノアは、何も言えなかった。いいとも、悪いとも。
ただ、谷底の古い列車を見た。
*
「直るの?」
しばらくして、ノアは訊いた。
「直す」
機関士は、立ち上がった。
「あと少しなんだ。石の力を、車輪まで通す仕組みは、ほとんどできてる」
三人が、作業に戻っていく。
ノアは、少しだけ迷った。
この人たちがしたことを、いいことだとは思えない。
でも――ここまでして残そうとしている列車が、本当に直るのか。もう一度、走るのか。
それを、見てみたかった。
「ボクも、手伝っていい?」
機関士が、振り返った。
「このグローブ、物を浮かせたりできるんだ。重いものを持ち上げるくらいなら」
機関士は、ノアのグローブをしばらく眺めて、それから、顎で機関部の奥を示した。
「そこの歯車。三人がかりでも、なかなか持ち上がらん」
巨大な歯車が、床に寝かされていた。ノアの背丈ほどもある。
ノアは輪を回して、手のひらを歯車に向けた。ゆっくりと、押し上げる。
歯車が、浮いた。
昨日の木箱とは比べものにならない重さが、手のひらにずしりとかかる。腕が震える。けれど、歯車は落ちなかった。
「そのまま、右へ……もう少し……そこだ」
機関士の声に合わせて、手を動かす。歯車が、軸の真上で止まる。若い男が、下から軸を差し込んだ。
かちり、と嵌まった。
「……やるじゃないか」
若い男が、初めて笑った。
作業は、何時間も続いた。
ノアは、光の玉を機関部の奥へ送り込んで、暗い配管の継ぎ目を照らした。屋根の上の配管を直すときは、短く飛んで屋根に上がり、女の人に工具を手渡した。
車体の下の奥に、外れかけた部品が見えた。車体の側面は粗い格子になっていて、その向こうまで、すっかり見通せる。部品のそばには、人がしゃがめるくらいの空間もある。けれど、そこへ続く入口は、車輪と配管に塞がれていて、外から這って入れる幅ではなかった。
ノアは格子越しに、部品の脇の空いた場所を指さした。拳を握る。
白く弾けて、ノアは車体の下の、油臭い暗がりにいた。狙った場所の、ほんの指一本ぶん手前。
「届いた!」
部品を押さえているあいだに、若い男が外から留め具を締めた。
手の甲の灯りが、また一つ、暗くなった。
昨日、空き地で木箱を浮かせていたときとは違う。遊びではなかった。でも、楽しくないわけでもなかった。自分の手で、知らない機械の中に触れている。それが、少しずつ、動くようになっていく。
気がつくと、時計は〈10:00:00〉を回っていた。
「……よし」
機関士が、額の汗を拭った。
「試すぞ」
*
谷底は、もう暗くなり始めていた。
三人が、それぞれの持ち場についた。
機関士は運転台へ。女の人は機関部の装置の前へ。若い男は、車輪の脇へ。
ノアは、少し離れた場所に立って、列車を見ていた。
「石へ、繋ぐ」
女の人が、装置のレバーを押し込んだ。
装置の中で、石が光った。
光が、沈んで、浮かんで――それから、石の外へ溢れ出した。紋様を伝い、管を伝い、列車の奥へと流れ込んでいく。
低い振動が、足の裏から伝わってきた。
ごうん、と、どこかで重たいものが回り始める音。歯車が噛み合う、かちり、かちりという音。配管の中を、何かが勢いよく走り抜けていく音。
車体の窓に、灯りがともった。
一つ。二つ。三つ。くすんだ窓ガラスの向こうで、真鍮のランプが、一つずつ、橙色に光り始める。
車輪が、きしんだ。
ゆっくりと、ほんの少しだけ、前へ回った。
「……動いた」
若い男が、呟いた。
「動いた! 動いたよ、親方!」
女の人が、口を両手で覆っていた。運転台の窓から、機関士が身を乗り出す。その顔が、くしゃりと歪んだ。
ノアも、思わず拳を握りしめていた。
直った。
本当に、直ったんだ。
――けれど。
灯りが、揺れた。
一つ目のランプが、ふっと暗くなり、また明るくなる。二つ目が、ちらちらと瞬く。車輪の回転が、一瞬止まり、がくんと引っかかった。
機関部の奥で、ぱん、と乾いた音がした。
別の場所の配管が、蒸気を噴き出していた。
「左の三番だ!」
機関士が叫ぶ。若い男が走る。噴き出した蒸気を押さえ込む。その間にも、今度は屋根の上で、何かが軋む音がした。車体の継ぎ目から、細い煙が上がる。
女の人が、装置の前で何かを調整していた。石の光が、強くなり、弱くなり、また強くなる。
足元が、ふわりと浮いた。
反転の力が、列車の外まで溢れ出していた。草地の小石が、ころころと上へ転がっていく。
「止めろ!」
機関士の声で、女の人がレバーを引いた。
石の光が、すうっと引いていく。
窓の灯りが、一つずつ、消えていった。
低い振動が、止まった。
谷底に、静けさが戻ってきた。
蒸気の名残が、白く漂っていた。
*
機関士は、運転台から降りてきて、車体に手を当てた。
長いこと、そうしていた。
「……一箇所じゃないんだな」
誰に言うでもなく、そう言った。
「どこか一つが壊れてるんじゃない。こいつは、全部が、もう限界なんだ。一つ直せば、次が来る。次を直せば、また次が来る」
機関士の手のひらが、褪せた木の車体を、ゆっくりと撫でた。
「石でも、紋様でも、新しい部品でも……こいつの長い年月を、まっさらに戻すことはできん」
誰も、何も言わなかった。
ふと、夕暮れの丘が目に浮かんだ。
灰色の大きな身体。ゆっくりと上下していた胸。その背中で、風に揺れていた小さな花。
目の前では、機関士が、まだ車体を撫でていた。節くれだった手のひらが、褪せた木目を、何度も、何度も往復している。
ノアは、何も言えずに、その手を見ていた。
*
「まだ、走れるのか」
若い男が、ぽつりと訊いた。
機関士は、車体から手を離して、振り返った。
「走るだけなら、まだ走れる。こいつ自身の力が、全部なくなったわけじゃない。ここまでだって、こいつの足で逃げてきたんだ」
機関士は、少しだけ笑った。
「だからこそ、まだ直せると思っていたんだがな」
「どれくらい?」
「分からん」
機関士は、首を振った。
「次に止まったら、それきりかもしれん。案外、長く走るかもしれん。誰にも分からん」
女の人が、立ち上がった。
装置の前へ行き、枠の中から、石をそっと取り出す。
石の中で、光が、ゆっくりと沈んでいった。
女の人は、それを両手で包むように持って、ノアの前に来た。
「これは、もう要らないわ」
「……え」
「直らないって分かったんだもの。これを持っている理由は、もうない」
女の人は、石をノアの手のひらに載せた。
ひんやりとしていた。見た目よりも、少しだけ重い。
「元の場所に、戻してあげて」
ノアは、手のひらの石を見下ろした。
それから、三人の顔を見た。
「みんなは、どうするの」
機関士は、谷底の古い列車を見上げた。
「走る」
迷いのない声だった。
「直らんと分かった。それでも、まだ動く。なら、動くうちは、こいつと一緒に走る」
それだけだった。
三人は、列車へ乗り込んでいった。
機関士が運転台へ。女の人と若い男が、デッキへ。
機関部の奥で、古い機関が、ゆっくりと回り始める。石の光はない。この列車がずっと使ってきた、いつもの音。低い振動。歯車の音。窓に、一つだけ、灯りがともった。
車輪が、きしみながら、回り始めた。
古い列車が、動き出した。
さっきよりも、ずっと遅い。ずっと頼りない。けれど、止まらなかった。草に埋もれた引き込み線の上を、一歩ずつ確かめるように、前へ進んでいく。
デッキで、若い男が、こちらへ手を振った。
ノアも、手を振った。
どこへ行くのか、訊かなかった。訊いても、きっと誰も知らなかった。
列車は、森の向こうへ続く線路の先へ、ゆっくりと遠ざかっていった。窓の灯りが、木々のあいだに見え隠れして――やがて、見えなくなった。
ノアは、手のひらの石を、両手で包んだまま、しばらくそこに立っていた。
*
時計は〈07:00:00〉を指していた。
来た道は、覚えていた。森を抜ける線路。谷を挟んだ崖。崖の向こうの、古い線路沿いの道。
夜の森は、真っ暗だった。ノアは指先を合わせて、光の玉を生んだ。柔らかな光が、苔むした枕木を一本ずつ照らしていく。行きに見た木の根。行きに跨いだ倒木。足元を確かめながら、ノアは線路を辿った。
谷の手前で、ノアは人差し指で向こう岸を指して、拳を握った。今度は、ぴったりの場所に立てた。
手の甲の灯りは、最後の一つが、かすかに光っているだけだった。
石は、シャツの胸ポケットにしまって、ボタンを留めた。第2世界で、新しい石を運んだときと同じように。
街に戻る頃には、夜もすっかり更けていた。
工房の窓には、まだ灯りがついていた。扉を叩くと、すぐに開いた。
「おや、戻ったね」
技師が、作業台から顔を上げた。ノアの手を見て、眉を上げる。
「ずいぶん使い込んだもんだ。どこまで行ってきたの」
「街の外の、森の奥まで」
「へえ」
技師はそれ以上訊かずに、手首の留め金を外してくれた。
グローブが、ノアの手から離れた。
手が、急に軽くなった。
ノアは、自分の素手を見下ろした。指先を合わせてみる。何も起きない。手のひらを、地面に向けて押し上げてみる。何も浮かない。
当たり前だった。
浮かせたのも、飛んだのも、跳んだのも、このグローブだった。ノアの手ではない。
それでも、手のひらには、覚えているものがあった。重い歯車を支えたときの、腕の震え。格子越しに跳んだときの、白く弾ける視界。
「また来たら、貸してやるよ」
技師が、グローブを棚に戻しながら言った。
「うん。ありがとう」
工房を出て、ホームへ向かった。
路面電車は、もう走っていなかった。紋様の街灯が照らす通りを、歩いて抜ける。夜空を、灯りをともした舟が一艘、ゆっくりと渡っていく。四本腕の店主の屋台は、布をかけられて、眠っていた。
ホームに着くと、列車は、降りた場所に停まっていた。
ノアは、少しだけ立ち止まって、その列車を見上げた。
木の車体。真鍮のランプ。窓の並び方。
さっき見送った列車と、よく似ていた。
*
「おかえりなさい」
車両に乗り込むと、車掌が迎えてくれた。
「ただいま」
ノアは、少しだけ迷ってから、言った。
「あの……見つけたんだ。前に話してくれた、どこにいるか分からない列車」
車掌は、少しだけ姿勢を正した。
「そうでしたか」
「機械と魔法の世界の、森の奥に停まってた。乗務員の人たちが、直そうとしてて」
ノアは、見てきたことを話した。
古い列車。三人の乗務員。廃棄が決まって、列車と一緒に逃げたこと。直すために、天空逆さま世界の反転石を持ち出したこと。一緒に直そうとして、直らなかったこと。それでも、まだ動くうちは一緒に走ると言って、走っていったこと。
車掌は、途中で口を挟まなかった。ときどき、小さく頷くだけだった。
ノアは、胸ポケットのボタンを外して、石を取り出した。
「これ、元の場所に戻してほしいって」
車掌は、両手で石を受け取った。手のひらの上で、石の中の光が、ゆっくりと沈んでいく。
「お預かりします。天空逆さま世界へは、こちらからお戻ししておきます」
「……あの人たち、どこへ行ったのかな」
「分かりません」
車掌は、静かに答えた。
「ですが、報告をありがとうございました」
それだけ言って、車掌は石を大事そうに内ポケットへしまい、通路を歩いていった。
ノアは、座席に腰を下ろした。
窓の外で、機械と魔法の世界が、夜明け前の青い暗がりの中に沈んでいく。空の舟の灯り。煙突の蒸気。街を出ていく古い線路。
あの線路の、ずっと先のどこかを、古い列車が走っている。
一つだけ灯った窓の明かりを、思い出した。
ノアは、何も持っていない自分の手を、膝の上で軽く握った。
列車が、ゆっくりと動き出した。
(了)




