第5話 夜だけの世界
目を覚ますと、窓の外は青かった。
どこまでも澄んだ、深い青。その中を、ときどき白い光の筋が、流れ星のように横切っていく。列車の揺れは、いつもと同じだった。ことん、ことん。足の裏から伝わってくる、規則正しい振動。
ノアは座席の上で大きく伸びをした。よく眠った気がする。身体のどこにも、疲れは残っていなかった。
膝の上の時計を開く。数字は〈48:00:00〉のまま、止まっている。
次は、どんな世界だろう。
窓に額を寄せかけたところで、通路の向こうから、足音が近づいてきた。
「お目覚めでしたか」
車掌だった。いつもと同じ、紺色の制服。いつもと同じ、穏やかな声。
「うん。次は、どこに停まるの?」
「夜だけの世界です」
「夜だけ?」
「はい。それから――」
車掌は、時刻を告げるときと同じ調子で続けた。
「この列車がお客さまをお連れする世界は、次で最後になります」
「最後……」
ノアは、その言葉を口の中で転がした。
迷路。逆さまの空。竜。機械と魔法。
その次が、最後の世界。
最後は、どんな世界なんだろう。
「じゃあ、今回も四十八時間以内に戻ってくればいいの?」
「いいえ。今回は、列車へお戻りいただく必要はありません」
「……戻らなくて、いいの?」
「はい。ただし、時間はこれまでと同じ、四十八時間です」
ノアは、首をかしげた。
「戻らなくていいのに、四十八時間? じゃあ、ボクは何をすればいいの」
「それまで、ご自分の行きたいところへ、進んでください」
車掌は、それだけ言った。
いつもと同じだった。必要なことだけを、必要なだけ。
「……分かった」
ノアが頷くと、車掌は軽く帽子に手をやり、次の車両へ歩いていった。
行きたいところへ。
ノアは窓の外を見た。青い景色が、ゆっくりと深くなっていく。
列車が、速度を落とし始めた。
*
扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
夜の匂いがした。湿った土と、名前の分からない花の、甘くて静かな匂い。
ノアはホームに降りて、空を見上げた。
息を、呑んだ。
月があった。
大きな、白い月。ノアの知っているどんな月よりも大きく、近く、空の真ん中に浮かんでいる。表面の模様まで、くっきりと見えた。
その周りを、星が埋め尽くしていた。
数えられる星ではなかった。砂をこぼしたように、粉をはたいたように、空のすみずみまで、細かな光がびっしりと散らばっている。ところどころで、星の濃いところが川のように流れ、薄いところが入り江のように空いていた。
夜だった。
けれど、暗くなかった。
月と星の光で、足元の石畳の模様まで、はっきりと見える。ホームの向こうには、なだらかな丘があって、その斜面に、家々の窓の明かりが、ぽつぽつと灯っていた。
時計の蓋を開けると、数字が〈47:59:57〉に変わっていた。
ホームには、ノアのほかに、降りる人はいなかった。
振り返ると、列車の窓の向こうで、乗客たちがそれぞれの席に座っていた。誰も、こちらを見ていない。ノアは、少しだけ手を振ってみた。それから、前を向いた。
ホームの端の柵に、蔓草が絡みついていた。指先で葉に触れると、ひんやりと湿っている。どこか遠くで、虫が鳴いていた。りい、りい、と、細く長く。空気は少し冷たくて、深く吸い込むと、胸の奥まですうっと澄んでいく。
ノアは蓋を閉じて、ポケットにしまった。
それから、歩き出した。
*
丘を下りていくと、街の音が聞こえてきた。
石畳を叩く靴音。誰かの笑い声。鍋をかき混ぜる音。木の扉が開いて、閉じる音。
街は、眠っていなかった。
通りには人が行き交い、店はどれも扉を開けていた。軒先に吊るされたランプの下で、八百屋が野菜を並べ、仕立て屋が布を広げ、子どもたちが石蹴りをしている。
空の色だけが、夜だった。
それ以外は、ノアの知っているどんな街の昼間とも、変わらなかった。
角を曲がったところで、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
パン屋だった。窓から、焼きたてのパンが並んでいるのが見える。表面に、白い小さな花びらが散らしてあった。
ノアは、吸い寄せられるように扉を押した。
「いらっしゃい」
粉だらけの前掛けをした、丸い顔のおじさんが顔を上げた。
「あの、そのパン、なんですか」
「月見草のパンだよ。宵に咲いた花を、生地に練り込んで焼くんだ」
一つ買って、店先で齧った。
外はぱりっとしていて、中はふわふわだった。噛むと、ほのかに甘い花の香りが、鼻の奥へ抜けていく。
「おいしい……!」
「だろう」
おじさんは、得意そうに笑った。
「見ない顔だね。旅の人かい」
「うん。さっき着いたところ」
「そりゃいい。ゆっくりしていきな」
ノアはパンを齧りながら、ふと訊いてみた。
「ねえ、ここって、朝は来ないの?」
「朝?」
おじさんは、きょとんとした顔をした。
「ああ、旅の人の話で聞いたことがあるね。空が明るくなって、星が全部消えちまうんだろう?」
「うん。太陽が昇って」
「太陽ねえ」
おじさんは、窓の外の月を見上げた。
「見てみたい気もするが、星がなくなるのは、ちょっと寂しいね」
ノアも、つられて月を見上げた。
ここでは、夜が普通なのだ。朝を知らない人たちが、夜の中でパンを焼き、野菜を売り、子どもを遊ばせている。
それが、なんだか不思議で、面白かった。
パン屋を出ると、通りの向こうから、軽やかな弦の音が聞こえてきた。
行ってみると、小さな広場で、おじいさんが一人、膝の上に胴の長い楽器を抱えて弾いていた。弦は四本。指が動くたびに、低い音と高い音が、夜の空気の中でゆっくりと混ざり合う。
広場の縁の石段に、何人かが腰を下ろして聴いていた。ノアも、その端に座った。
石段はひんやりとしていた。夜風が、首筋を撫でていく。
曲が終わると、聴いていた人たちが、ぱらぱらと手を叩いた。おじいさんは軽く頭を下げて、また次の曲を弾き始めた。
ノアは、パンの最後の一口を食べながら、二曲目を最後まで聴いた。
広場を出ようとしたとき、長い竿を担いだ男の人とすれ違った。
男の人は、通りのランプを一つずつ見て回っていた。油が減っているランプを見つけると、竿の先の小さな壺から油を注ぎ足し、芯を整えて、また次のランプへ歩いていく。
「それ、全部のランプを回ってるの?」
「ああ。この通りの端から端まで。終わったら、また最初から」
「ずっと?」
「ずっとさ。夜が明けないんだから、ランプも消しちゃいけない」
男の人は、竿を担ぎ直して笑った。
「けどまあ、月がでかい晩は楽だよ。ランプが少しくらい暗くても、誰も文句を言わない」
見上げると、月は、さっきよりも少しだけ傾いていた。
「あの月、動くんだね」
「動くさ。ゆっくりだけどね。あれが向こうの山に沈みかけたら、みんな寝る支度をする。また昇ってきたら、起きる」
夜しかない世界にも、一日の区切りはあるのだ。
男の人が次のランプへ歩いていくのを見送って、ノアは、また歩き出した。
*
広場の先に、坂道があった。
坂の下から、水の音が聞こえる。
ノアは坂を下りた。
下りきったところに、川が流れていた。幅の広い、ゆったりとした川。水面に月が映って、流れに合わせてゆらゆらと揺れている。
川岸には、小舟がいくつも繋がれていた。その一つで、老人がのんびりと網の手入れをしている。
「釣り?」
ノアが声をかけると、老人は顔を上げた。
「いや、これから湖へ出るところだ。川を下った先に、大きな湖があってな。そこで、夜魚を獲る」
「夜魚?」
「夜にしか釣れない魚さ。まあ、ここじゃ夜にしか釣れないのは当たり前だがね」
老人は、自分の冗談に、くっくっと笑った。
「乗っていくかい。湖の向こう岸まで行くよ。向こうにも、村がある」
ノアは、少しだけ考えた。
それから、頷いた。
舟は、静かに川を下っていった。
櫂が水を掻く音。舟べりを撫でる、さらさらとした水音。岸辺の草むらから、虫の声が絶え間なく聞こえてくる。
ノアは舟べりから手を伸ばして、水に触れた。
冷たかった。指のあいだを、水がするすると流れていく。手を引き上げると、指先から落ちた雫が、月の光を受けて、一粒ずつ光った。
やがて、川が開けた。
湖だった。
見渡す限りの、黒い水面。その上に、空の星が、そっくりそのまま映り込んでいた。
上にも、星。下にも、星。
舟が、星の中を進んでいく。
「……すごい」
ノアは、思わず舟べりから身を乗り出した。どこまでが空で、どこからが水なのか分からない。舟が水を掻くたびに、映り込んだ星が揺れて、崩れて、また元に戻る。
老人が櫂を止めて、網を水に下ろした。
「少し待っておれ」
ノアは、舟の底に仰向けに寝転がった。
頭の上に、星。耳の下で、水の音。舟が、ゆらゆらと揺れる。
しばらくして、老人が網を引き上げた。銀色の細い魚が、何匹も跳ねていた。鱗が、月の光を弾いて、ちかちかと瞬く。
「今夜は、いい」
老人は、満足そうに頷いた。
向こう岸の村に着くと、老人は獲れたばかりの魚を一匹、焚き火で焼いてくれた。皮がぱりぱりになるまで焼いた魚に、岩塩をひとつまみ。
熱くて、ふうふう吹きながら齧った。白い身が、ほろりと崩れる。
「うまいか」
「うん、すごく」
「そうか」
老人はそれ以上何も言わずに、自分の分の魚を齧った。焚き火が、ぱちぱちと爆ぜた。
*
湖畔の村は、小さかった。
ノアは老人に礼を言って、村の中を歩いた。
家の軒先で、女の人が、白い花を摘んで籠に入れていた。訊くと、夜明かり草という花で、これを乾かして茶にするのだという。
「飲んでみる?」
女の人は、家の中から湯気の立つ茶碗を持ってきてくれた。
淡い琥珀色の茶だった。口に含むと、すっとする香りが広がって、あとからほんのりと甘さが残る。
「眠る前に飲むと、よく眠れるのよ」
「ここの人も、眠るの?」
「眠るわよ。疲れたらね」
女の人は、くすくす笑った。
「夜しかないからって、ずっと起きていたら倒れちゃうわ」
村の真ん中には、湯気の立つ泉があった。
石で囲まれた浅い泉で、村の人たちが縁に腰かけて、足を湯に浸している。女の人に勧められて、ノアも靴を脱いだ。
湯は、思っていたよりも熱かった。足首まで浸すと、じんとした熱さが、くるぶしから脛へ、ゆっくりと上ってくる。舟の上で冷えていた指先まで、温まっていくのが分かった。
隣に座っていたおばあさんが、湯をすくって、手首にかけていた。
「地面の下で、ずっと湯が湧いてるのさ。おかげで、この村は冬でも寒くない」
湯から上がると、夜風が濡れた足を撫でて、気持ちよかった。
村の外れには、畑が広がっていた。
月の光の下で、背の低い作物が、整然と並んでいる。葉の裏側が、ほんのりと銀色をしていた。畑の端では、男の人が、柄の長い鍬を振るっていた。
畑の向こうには、なだらかな草原が続いていた。
草原の上を、白い鳥が数羽、音もなく飛んでいく。翼が大きく、ふくろうに少し似ていた。鳥たちは、ノアの頭の上をゆっくりと旋回して、それから草原の向こうへ消えていった。
ノアは、草原へ足を踏み入れた。
柔らかな草が、靴の底を押し返してくる。夜露で、靴の先がしっとりと濡れた。
草原の真ん中で、ノアは立ち止まった。
見回す。
草原。湖。遠くの丘。村の明かり。空いっぱいの星。
どこへ行かなきゃいけない、ということは、何もなかった。
誰も待っていない。何も探していない。何かを直す必要も、どこかへ間に合う必要もない。
それなのに、少しも退屈ではなかった。
草原の向こうから、また鳥の声が聞こえた。
ノアは、その声のする方へ、歩き出した。
*
鳥を追いかけて、小さな林を抜けた。
林の向こうに、街道があった。街道沿いに、宿場町のような集落がある。
集落の真ん中に、市場が立っていた。
夜市、と看板に書いてあった。ここでは、どの市場も夜市なのだろうけれど。
市場は、匂いであふれていた。
串に刺した肉が、炭火の上で脂を落としている。大鍋の中で、根菜と豆がことことと煮えている。蜜をからめた木の実が、甘い湯気を立てている。籠に盛られた果物は、どれも見たことのない形をしていた。
ノアは、あちこちの屋台を覗いて歩いた。
果物屋で、手のひらに収まるくらいの、紫色の実を一つ買った。皮を剥くと、中は透き通った白で、齧るとしゃりっと音がした。冷たくて、甘酸っぱい。
隣の屋台では、小さな女の子が、店番をしていた。並べてあるのは、木を削って作った小さな動物の置物。ふくろうに似た鳥。耳の長い鹿。丸まった猫。
「これ、きみが作ったの?」
「ううん、おじいちゃん。あたしは売る係」
女の子は、胸を張った。
「この鳥、さっき草原で見たよ」
「月梟だよ。夜明かり草の原っぱに、いっぱいいるの」
「そうなんだ」
ノアは鳥の置物を手に取って、しばらく眺めていた。羽根の一枚一枚まで、丁寧に彫り込んである。
買おうかと思った。
けれど、手のひらの上でそれを眺めているうちに、それで十分な気がした。ノアは置物をそっと元の場所へ戻した。
「見てくれて、ありがとう」
女の子が、にっと笑った。
夕飯の代わりに、根菜と豆の煮込みを食べた。屋台の長椅子に座ると、隣で、旅姿の男の人が同じものを食べていた。
「どこから来たんだい」
男の人が訊いた。
「列車で」
「へえ、列車。遠くからだね」
「おじさんは?」
「隣の街から。荷を運んでる。明日――明日って言っても、ここじゃ時計で数えるしかないが、次の町まで行くんだ」
男の人は、煮込みの汁を、パンで拭いながら言った。
「旅はいいね。知らない町の、知らない飯が食える」
「うん」
ノアは、大きく頷いた。
「知らない道も歩けるし」
「そうそう」
男の人は笑って、空になった椀を置いた。
「じゃ、いい旅を」
「おじさんも」
男の人が街道の向こうへ去っていくのを見送りながら、ノアは最後の一口を飲み込んだ。
時計を見ると、〈28:00:00〉を過ぎていた。
急に、瞼が重くなった。
*
集落の宿は、二階建ての小さな建物だった。
部屋の窓からは、さっきの夜市の明かりが見えた。まだ賑わっている。焼き串の煙が、月の光の中を、ゆっくりと昇っていく。
寝台に入る前に、湖畔の村でもらった夜明かり草の茶の残りを、宿の湯で淹れて飲んだ。すっとする香りが、胸の中に広がった。
布団は、干した草の匂いがした。
ノアは仰向けになって、天井を見た。
今日は、何をしたっけ。
パンを食べた。楽器を聴いた。舟に乗った。星の湖を渡った。魚を食べた。お茶を飲んだ。鳥を追いかけた。紫色の実を齧った。木彫りの鳥を見た。知らない人と、煮込みを食べた。
何も、起きなかった。
なのに、一日じゅう、楽しかった。
窓の外で、遠く、月梟が鳴いた。
ノアは目を閉じた。
すぐに、眠りが来た。
*
目を覚ますと、窓の外は、眠る前と同じ夜だった。
当たり前だ。ここには、朝が来ない。
時計は〈21:00:00〉。よく眠った。
宿の一階で、温かい麦の粥を食べた。宿のおかみさんが、刻んだ木の実を散らしてくれた。
「今日は、どっちへ行くんだい」
「まだ、決めてない」
「決めてないのかい」
「うん。歩きながら決める」
おかみさんは、おかしそうに笑った。
「いいね。そういう旅も」
宿を出て、街道に立った。
右へ行けば、昨日の男の人が向かった、次の町。左へ行けば、来た道。
ノアは、どちらでもない方を見た。
街道から外れて、細い道が、丘の方へ伸びていた。轍の跡もない。人がときどき歩くだけの、草に半分埋もれた小道。
あの丘の向こうには、何があるんだろう。
ノアは、小道へ足を踏み入れた。
道は、丘を越え、小川を渡り、また丘を越えた。
小川には、平たい石が飛び石のように並んでいて、ノアは一つずつ跳んで渡った。最後の石で足を滑らせて、片足が水に浸かった。冷たさに、思わず声が出た。
濡れた靴で、ぐしょぐしょと歩く。歩いているうちに、靴の中で水がぬるくなっていく。
丘の上で、靴を脱いで、草の上に干した。
裸足で草を踏む。夜露で湿った草が、足の裏をくすぐった。
丘の下に、小さな池が見えた。池の周りに、青白い花が群れて咲いている。その上を、小さな羽虫が、ちらちらと舞っていた。
靴が乾くまで、ノアは池のほとりに座って、それを眺めていた。
ふと、思った。
初めての場所で、知らない道を選んで、歩いている。
前にも、こんなことがあった。
白い回廊。三つに分かれた道。どっちへ行こうか、考える前に、足が勝手に動いていた。
あのときと、同じだった。
違うのは、今は、ちゃんと分かっていることだ。自分が、どうしてこっちへ来たのか。
見てみたかったから。
それだけで、十分だった。
靴を履き直して、ノアはまた歩き出した。
*
丘を越えるたびに、人の気配が少なくなっていった。
最初は、ぽつぽつと家があった。羊のような、毛の長い動物を放している牧場。窓辺で編み物をしているおばあさんが、ノアに気づいて、手を振ってくれた。ノアも、手を振り返した。
最後の家は、丘の中腹にぽつんと建っていた。井戸の脇で、おじいさんが桶に水を汲んでいた。
「この先には、何があるの?」
ノアが訊くと、おじいさんは、丘の向こうを眺めた。
「さあなあ。草っ原が続いてるだけだと思うがね。わしも、ずいぶん若い頃に一度行ったきりだ。歩いても歩いても草っ原でな、飽きて帰ってきた」
おじいさんは、桶の水を柄杓ですくって、ノアに差し出した。
「飲んでいきな。この先は、井戸もない」
冷たい水が、喉を滑り落ちていった。
「ありがとう」
「気をつけてな。飽きたら、帰っておいで」
ノアは笑って、頷いた。
その先は、家がなくなった。
道も、だんだん細くなって、やがて草の中に溶けてしまった。
それでも、ノアは歩いた。
誰かに呼ばれたわけではなかった。何かに引かれているわけでもなかった。ただ、まだ見ていない方へ、まだ見ていない方へと、歩いているうちに、そうなっていた。
草原は、どこまでも続いていた。
ときどき、立ち止まった。
空を見上げる。月が、少しだけ位置を変えている。星の川が、ゆっくりと空を渡っていく。
足元を見る。小さな花が、群れて咲いている。花の中から、虫が一匹、羽を広げて飛び立った。
耳を澄ます。風が、草を撫でる音。遠くで、何かの動物が鳴く声。自分の息の音。
静かだった。
けれど、寂しくはなかった。
ノアは、ポケットに残しておいた月見草のパンの端を齧った。少し固くなっていたけれど、噛んでいるうちに、甘い花の香りが戻ってきた。
時計を見ると、〈08:00:00〉になっていた。
ノアは、時計の蓋を閉じて、顔を上げた。
そして――
「……あれ?」
遠くに、何かがあった。
草原の果て。地平線の、ずっと向こう。
最初は、雲かと思った。夜空を背に、黒い、大きな影が、空に向かって伸びている。
けれど、雲ではなかった。
影は、動かなかった。根元は太く、上へ行くほど枝分かれして、広がっている。その枝の先は、空の、ずっと高いところで、星の中に溶けていた。
樹だった。
途方もなく大きな、一本の樹。
ノアは、目をこすった。
あんなもの、さっきまで、見えていただろうか。
ずっと同じ方角を向いて歩いてきたはずなのに。あれほど大きなものなら、もっと前から、見えていてもおかしくないのに。
分からなかった。
でも、そこにある。
あれは、何だろう。
ノアは、あたりを見回した。草原には、誰もいない。さっきまで聞こえていた虫の声も、いつの間にか遠くなっている。
月の光の中で、樹の影は、ただ黙ってそこに立っていた。枝の先が、星の川に触れている。触れたところで、星がかすかに揺れたように見えた。
怖いとは、思わなかった。
ただ、胸の奥が、むずむずとした。
迷路の入口に立ったときと。空の向こうに大地を見つけたときと。山のように大きな龍の話を聞いたときと。同じ感じ。
ノアは、歩き出した。
*
樹は、遠かった。
歩いても、歩いても、なかなか大きくならない。それだけ、途方もなく大きいのだ。
途中で、小さな川を見つけた。両手ですくって、水を飲んだ。冷たくて、ほんのりと土の味がした。
川の向こうに、ふくろうに似た白い鳥が一羽、石の上にとまっていた。月梟だ。ノアが近づいても、逃げなかった。丸い目で、じっとノアを見ている。
「きみも、あそこへ行くの?」
訊いてみたけれど、もちろん答えはなかった。月梟は首をくるりと回して、それから、大きな翼を広げて、反対の方へ飛んでいった。
ノアは、少しだけ笑った。
また、歩く。
草原が途切れて、白い石の原が広がった。
平たい石が、地面一面に敷き詰められたように並んでいる。踏むと、石と石が擦れ合って、ころん、ころんと乾いた音を立てた。月の光を受けて、石の原全体が、ぼんやりと白く浮かび上がっている。
石の原の真ん中で、ノアは一度、腰を下ろした。
足が、少し重かった。ずいぶん歩いた。脹脛を揉むと、じんわりと張っている。
石は、昼の熱を溜めることもないはずなのに、ほんのりと温かかった。手のひらを当てて、しばらく休んだ。
見上げると、星の川が、さっきとは違う角度で空を横切っていた。樹の影が、その川を背負うように、黒々と立っている。
ノアは立ち上がって、また歩いた。
ときどき立ち止まって、樹を見上げた。少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。幹の形が見えてくる。枝の広がりが見えてくる。
枝のあいだで、何かがちらちらと揺れていた。
星、ではなかった。星にしては、色が違う。
青。白。緑。橙。
まるで、枝のあいだに、別の空が挟まっているような――
近づくほど、空気が変わっていった。
しんと、澄んでいく。風の音が遠くなる。自分の足音だけが、やけにはっきりと聞こえる。
それでも、ノアの足は、止まらなかった。
知りたかった。
あれが何なのか。
自分の目で、見たかった。
*
時計が〈02:00:00〉を指す頃、ノアは、その根元に立っていた。
見上げても、てっぺんは見えなかった。
幹は、崖だった。右を見ても、左を見ても、樹皮の壁がどこまでも続いていて、その端が見えない。深い溝が縦に走る樹皮は、一つ一つの溝が、ノアの身体がすっぽり収まるほどに大きかった。
根は、山脈だった。地面から盛り上がった根が、うねりながら四方へ伸び、その一本一本が、ノアが越えてきた丘よりも高い。根と根のあいだには、谷ができていて、そこを小さな川が流れていた。
そして、枝。
遥か頭上で、幹から分かれた枝が、空いっぱいに広がっていた。
その枝のあいだに――空があった。
夜空ではない空が。
青い、昼の空。白く煙る、雪の空。夕焼けに燃える、橙色の空。深い緑に揺れる、水の底のような空。枝と枝のあいだ、葉と葉のあいだに、いくつもの違う空が、窓のように覗いていた。
ノアは、口を開けたまま、立ち尽くしていた。
匂いがした。
雨上がりの森のような、湿った土と、若い葉の匂い。それに混じって、どこかで嗅いだことのある匂いが、いくつも重なっている。焼き菓子の甘さ。潮の香り。雪の冷たさ。乾いた草。どれも、ほんのかすかで、すぐに分からなくなる。
音もした。
頭の上の、ずっと高いところで、葉擦れの音が、絶え間なく鳴っている。波のように。遠い拍手のように。
竜の世界で、山脈が一体の龍だと気づいたとき、自分がどこに立っているのか分からなくなった。
今は、それよりも、もっと分からなかった。
これは、樹なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
ノアは、根のあいだの谷を下りて、幹の前に立った。
樹皮は、すぐ目の前にあった。
ゆっくりと、手を伸ばした。
指先が、樹皮に触れた。
温かかった。
乾いた木の手ざわりなのに、陽だまりの石のように、ほんのりと温かい。
その瞬間――
分かった。
声が聞こえたのではなかった。誰かに教えられたのでもなかった。ただ、目の前の景色を見て、それが景色だと分かるのと同じように、その樹が何なのかが、分かった。
ユグドラシル。
世界樹。
すべての世界を繋いでいる、樹。
*
最初に流れ込んできたのは、世界だった。
枝のあいだに覗く空。その一つ一つの向こうに、世界があった。
五つではなかった。
十でも、百でもなかった。
数えきれない世界が、この樹に繋がっていた。枝の先に。葉の一枚一枚の向こうに。根の奥の、そのまた奥に。
巨人が歩く野原があった。光の届かない深い海の底で、大きな魚がゆっくりと泳いでいる世界があった。春と夏と秋と冬が、一日のうちに何度も巡る庭があった。首の長い巨大な生き物が、草原を渡っていく世界があった。壁も床も焼き菓子でできた、甘い匂いの町があった。
――迷路の中で、見たものだ。
水の壁の向こうから、家ほどもある魚がこちらを見ていた扉。焼き菓子の壁を齧った広間。季節がぐるぐる回る庭。巨人の足跡。首の長い生き物の影。
あれは、迷路の飾りではなかったのだ。
どこかに、本当にある世界の、ほんの欠片だった。
そして、その向こうにも、まだ、まだ、ある。
ノアの知らない世界が。見たこともない空が。想像もしたことのない景色が。
空に、太陽が二つ並んで沈んでいく世界。雲の上に、雲でできた街が浮かんでいる世界。一面の砂漠の下に、巨大な湖が眠っている世界。音が色になって見える世界。重さのない海を、魚の代わりに鳥が泳いでいる世界。
一つ一つが、葉の向こうで、ちらりと見えては、すぐに隠れる。
覗き込もうとすると、また別の世界が、その奥に見える。その奥にも。そのまた奥にも。
終わりが、見えなかった。
「……そんなに、あるんだ」
声が、震えた。
怖かったのではなかった。
胸の奥が、熱かった。
迷路の入口で、三つに分かれた道を見たときと、同じ熱さだった。いや、もっと――
*
次に流れ込んできたものは、ノア自身のことだった。
ボクは、もう――
そこで、思考が止まった。
樹皮に触れている指先が、急に冷たくなった気がした。耳の奥で、ずっと鳴っていたはずの風の音が、ふっと遠くなる。足の裏から、地面の感触が抜けていく。
ボクは。
もう。
死んでいる。
列車に乗るよりも、前に。最初に目を覚まして、木の天井を見上げた、あのときよりも、前に。
ボクは、もう、死んでいた。
息が、できなかった。
ノアは樹皮から手を離して、その場に膝をついた。指先が、震えていた。
両手を、地面についた。
土の冷たさが、手のひらに伝わってくる。
感じる。ちゃんと、感じる。
それなのに。
どうして。いつ。どこで。
問いが、頭の中に浮かびかけて――形になる前に、ほどけていった。
答えは、来なかった。
分かったのは、ただ、それだけだった。ボクは死んでいる。それ以外のことは、何も。
ノアは、地面に手をついたまま、動けなかった。
やがて、胸が、ひとつ、大きく動いた。
空気が、喉を通って、肺の奥まで流れ込んでくる。
吐く。
また、吸う。
夕暮れの丘を、思い出した。
ゆっくりと上下していた、灰色の大きな胸。上がって、下がって、次に上がるまでが少しずつ長くなって――そして、もう上がらなかった。
あれほど大きくても。あれほど長く生きても。終わりは来た。
ボクにも、来ていたのだ。
それから、谷底の草地を思い出した。褪せた木の車体を、何度も、何度も撫でていた、節くれだった手。
直らないと分かって、それでも、動くうちは一緒に走ると言った、あの声。
ノアは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、樹皮があった。さっきと何も変わらない、深い溝の走る、温かい樹皮。
何も、変わっていなかった。
樹も。空も。足元の土も。ここまで歩いてきた、自分の脚も。
変わったのは、ノアが、それを知ったということだけだった。
知ってしまったことは、もう、知らなかったことには戻らない。
ボクは、死んでいる。
それは、変えられない。
ノアは、膝の上で、手を握った。
握れる。開ける。
この手で、パンを齧った。舟べりから、湖の水に触れた。
「……そうだったのか」
声が、小さくこぼれた。
悲しいのかどうか、分からなかった。怖いのかどうかも、分からなかった。
ただ、そうだったのだ、と思った。
頬を、何かが一筋、伝っていった。
手の甲で拭うと、濡れていた。
泣いているつもりは、なかった。それでも、もう一筋、伝っていった。ノアは拭わずに、そのままにしておいた。
風が、また吹いてきた。
根の谷を流れる小さな川が、さらさらと音を立てている。頭の上で、葉が鳴っている。遠くで、月梟が一声だけ鳴いた。
何も、止まっていなかった。
ノアが知ったことと関係なく、川は流れ、葉は揺れ、鳥は鳴いていた。
竜の世界で、あの丘の上の胸が上がらなくなったあとも、空を竜の群れが渡っていったように。
ノアは、ゆっくりと息を吸った。夜の、湿った土の匂いがした。
*
ノアは、もう一度、樹皮に手を当てた。
今度は、指先が冷たくなることはなかった。
流れ込んできたのは、列車のことだった。
死んだ者は、みんな、列車に乗る。
一人も、例外なく。
ノアが目を覚ましたあの車両にも、ほかの乗客がいた。帽子を膝に抱えた、白い髭の老人。布で包んだ何かを胸に抱えていた女の人。座席に丸くなって眠っていた、同じくらいの年の少年。
あの人たちも、そうだったのだ。
あの人たちは、どこで降りたのだろう。どんな世界を歩いたのだろう。あの老人は、帽子を被って、どんな景色を見に行ったのだろう。眠っていた少年は、目を覚まして、窓の外に何を見たのだろう。
知りようがなかった。それでも、あの人たちにも、それぞれの旅があったのだと思うと、不思議と、胸の奥が少しだけ軽くなった。
けれど、同じ列車に乗っていても、降りる世界は、一人ひとり違う。
巡る世界の数も、違う。
もっと少ない人もいる。もっと多い人もいる。
ノアの場合は、五つだった。
列車は、ただ運ぶだけの乗り物ではなかった。
この樹に繋がる、数えきれない世界。そのうちのいくつかを、旅をさせてくれる乗り物だった。
見る。触れる。歩く。食べる。怖がる。驚く。
死んだあとにも、まだ知らない世界がある。
それを、聞かされるのではなく、自分の足で、旅として経験する。
あの五つの世界は――ノアに与えられた、人生最後の旅だった。
ノアは、樹皮に手を当てたまま、しばらく目を閉じていた。
ふと、あの穏やかな声を思い出した。
――停車時間は四十八時間。
――時間が分かるように、これをお貸しします。
――それは、よい停車でしたね。
車掌さんは、知っていたんだろうな。
最初から。ノアが何者なのかも。この旅が、何のための旅なのかも。
それでも、何も言わなかった。
言う必要が、なかったのだ。ノアが訊いたことには、ちゃんと答えてくれた。必要なことは、必要なときに、ちゃんと教えてくれた。
次で最後です、と言った、あの声。
それまで、ご自分の行きたいところへ、進んでください。
あれが、最後だったのか。
いつもと同じ声で、いつもと同じように送り出してくれた、あれが。
ノアは、ポケットの中に手を入れた。
銀色の懐中時計が、まだ、そこにあった。
借りたままだった。
*
目を開けたとき、ノアは、根と根のあいだの谷の向こうに、それを見つけた。
列車だった。
一両だけの、古い列車。
木の車体は、塗装がすっかり褪せている。真鍮の手すりはくすんで、屋根の上には、継ぎ足しの配管が這い回っている。
窓に、一つだけ、灯りがともっていた。
「……あの列車だ」
機械と魔法の世界の、森の奥の、谷底の草地で見送った列車。
直らなかった列車。
それでも、走っていった列車。
デッキに、人影があった。
白髪混じりの、がっしりとした体つきの老人。その後ろに、痩せた女の人と、若い男。
機関士が、こちらに気づいた。
しばらく、じっとノアを見ていた。
それから、ゆっくりと、片手を上げた。
ノアも、片手を上げた。
女の人が、小さく頭を下げた。若い男が、少しだけ笑った。
誰も、何も言わなかった。
あの列車も、ここまで走ってきたのだ。
直らないまま。いつ止まるか分からないまま。それでも、ここまで。
ノアは、手を下ろした。
古い列車の窓の灯りは、静かに、ともり続けていた。
*
ノアは、樹皮に背を預けて、座った。
五つの世界のことを、思い出していた。
白い回廊。坂の傾き。渦の溝。甘い匂い。どこまでも続く道の前で、立ち止まっては、また歩き出したこと。残り時間の数字が減っていくのを見ながら、自分の足が覚えていた道を、走って、走って、走ったこと。
空の向こうの大地。布の下で跳ねたときの、お腹がふわりと浮く感じ。縄に回りきらなかった、少女の小さな指。少年の手でも、少女の手でも、ちゃんと縄を掴んで、境界の真ん中まで行ったこと。
串焼きをねだった、小さな竜。翼の膜の温かさ。丘の上で、もう上がらなかった胸。山脈が、ゆっくりと息をしていたこと。
手首の輪の、かちりという手ごたえ。物干し台に転がり込んだときの、シーツの匂い。重い歯車を支えたときの、腕の震え。一つだけ灯った窓の明かり。
月見草のパン。星の湖。焼いた夜魚。夜明かり草の茶。木彫りの鳥。知らない人と食べた、煮込みの味。
出会った人たちも、思い出した。
石段で串焼きの食べ方を笑った、緑の鱗の龍人。前掛けの紐を結び直していた、屋台のおばさんとおじさん。白くなるほど杖を握りしめていた堂守。外縁まで案内してくれた見習い。夕暮れの丘で、帽子を胸に当てていた老人。夜中でも工房の灯りをつけていた技師。望遠鏡を撫でていた、観測塔の老人。湖へ舟を出してくれた老人。木彫りの鳥を売っていた女の子。
どの人も、ノアのために、そこにいたわけではなかった。それぞれの世界で、それぞれの暮らしをしていた。ノアは、その中を、ほんの少しのあいだ、通り過ぎただけだった。
それでも、ちゃんと、出会ったのだ。
全部、覚えている。
あれは、何かを教えるために用意されたものではなかった。
ノアが、歩いた。
ノアが、見た。
ノアが、食べて、話して、驚いて、怖がって、知りたがった。
旅だった。
全部、ボクの旅だった。
あのとき、ボクはもう、死んでいた。
それでも、月見草のパンは甘かった。湖の水は冷たかった。丘の上で、竜の胸が上がらなくなったとき、ボクの胸は苦しかった。
それは、全部、本当のことだった。
少年の手でも、少女の手でも、ボクは見たいものを見に行った。
ノアは、膝を抱えた。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
*
樹皮に触れている背中から、最後のことが、静かに流れ込んできた。
四十八時間。
どの世界でも、同じだった時間。
それは、ただの停車時間ではなかった。
この樹の先に、何があるのかは、分からない。
もし、そこにも世界があるのなら――そこには、その世界の決まりがある。
知らない場所に降りて、その場所の決まりを知る。守る。そのうえで、自分で考えて、自分の足で動く。
四十八時間には、そういう意味もあったのだ。
ノアは、ポケットから時計を取り出して、蓋を開けた。
数字は、〈01:12:40〉。まだ、動いている。
迷路の世界で、残り六秒で列車に飛び込んだことを思い出した。床に膝をついて、肩で息をしながら、時計を開いたこと。
天空逆さま世界では、余裕を持って戻った。竜の世界では、見たいものを見たから、戻った。機械と魔法の世界では、古い列車を見送ってから、戻った。
どの世界でも、四十八時間という決まりの中で、ボクは自分で行き先を決めて、歩いてきた。
そしてこの世界では、戻らなくていいと言われて、行きたい方へ進んで――ここに、辿り着いた。
誰かに、ここへ来いと言われたわけではない。
自分で、来たのだ。
ノアは、時計の蓋を閉じた。
*
もう、何も流れ込んではこなかった。
ノアは、樹皮から背を離して、立ち上がった。
目の前を、見た。
根。
幹。
枝。
その枝のあいだに覗く、数えきれない空。
風が吹いた。
どこから吹いてきたのか分からない風が、ノアの髪を揺らし、枝の葉を揺らした。葉擦れの音が、遥か頭上から、雨のように降ってくる。
それきり、静かになった。
古い列車の窓の灯りが、根の谷間で、小さく瞬いている。足元の小さな川が、さらさらと流れている。空の月は、樹の枝に半分隠れて、白く滲んでいる。
ノアは、何も考えなかった。
ただ、見ていた。
息を吸って、吐いた。
*
枝の、ずっと先。
枝のあいだに覗く、いくつもの空の、さらに向こう。
そこに、何かがあった。
いや――何があるのか、分からなかった。
空なのか。世界なのか。何もないのか。それとも、名前のつけようもない何かなのか。
見ても、分からない。樹に触れても、もう何も流れ込んではこない。
この樹の先に何があるのか、ノアには分からない。
そこへ行ったら、自分がどうなるのかも。
身体があるのか。今のこの手が、まだあるのか。少年なのか、少女なのか、そのどちらでもないのか。そもそも、ボクは、ボクのままでいられるのか。
分からなかった。
怖くないと言ったら、嘘になる。
ノアは、樹の根元を見下ろした。
ここに座っていたら、どうなるのだろう。
この温かい樹皮に背を預けて、枝のあいだの空を眺めて、川の音を聞いて。古い列車の灯りを、ずっと見ていて。
それも、分からなかった。
何も分からないのは、進んでも、ここに留まっても、同じだった。
膝が、少しだけ震えていた。胸の奥が、ひやりと冷たくなるところがあった。
迷路の分かれ道に立ったときも、怖かった。巨大な魚の目に見つめられたときも。境界の真ん中で、自分の身体がどこからどこまでなのか分からなくなったときも。踏まれたらひとたまりもない竜が、すぐそばを横切っていったときも。
怖かった。
でも、そのたびに、ボクは見ていた。
目を逸らさずに。足を止めても、また歩き出して。
怖いままでも、見ることはできた。
怖さが消えるのを待っていたら、きっと、何も見られなかった。巨大な魚の目も。境界の真ん中の石も。山脈がする息も。古い列車が、もう一度動き出すところも。
だって――
ノアは、枝の先を見上げた。
知らないのだ。
あの向こうに何があるのか、分からない。ボクは、まだ見たことがない。
知らない。
分からない。
――だったら。
胸の奥で、何かが、ことりと動いた。
ひやりと冷たかったところが、少しずつ、温かくなっていく。
迷路の入口に立ったときと、同じだった。空の向こうに大地を見つけたときと。山のように大きな龍の話を聞いたときと。手首の輪を、初めてかちりと回したときと。草原の果てに、この樹の影を見つけたときと。
むずむずする。
知りたい。
見たい。
行ってみたい。
最初に目を覚ましたとき、ノアは思った。どうして、ボクはここにいるんだろう、と。
その「どうして」は、すぐに、窓の外の景色に追い越された。
今も、同じだった。
あの向こうは、どんなところだろう。
そっちの方が、ずっと、気になった。
ノアは、笑った。
自分でも、少し呆れた。死んでいたと知ったばかりなのに。この先、何になるのかも分からないのに。
それでも、ボクは、まだ知らないものを見たいのだ。
最初から、ずっと。
きっと、最後まで。
ノアは、ポケットの中の時計に、そっと触れた。冷たかった金属が、手のひらの温度に馴染んでいく。
誰も、進めとは言わなかった。
車掌さんはいない。案内してくれる人もいない。樹は、ただそこにあるだけで、何も命じない。
行くかどうかは、ボクが決める。
ノアは、もう一度だけ、時計の蓋を開けた。
数字は、まだ、少しずつ減っていた。
ノアは蓋を閉じて、時計をポケットの奥へしまった。
それから、根の上に足をかけた。
一歩、登る。
樹皮の溝に手をかけて、もう一歩。
頭の上で、葉が鳴った。枝のあいだの空が、少しずつ近づいてくる。青い空。雪の空。夕焼けの空。そのさらに向こうの、まだ名前のない場所。
背中の向こう、根の谷間で、古い列車の窓の灯りが静かに瞬いているのが分かった。
ノアは、振り返らなかった。
前を見ていた。
知らない方を。
分からない方を。
――どんなところだろう。
胸を弾ませて、ノアは、その先へ手を伸ばした。
(完)




