↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『五つの世界と不思議な列車』  作者: MOON RAKER 503


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/5

第5話 夜だけの世界

 目を覚ますと、窓の外は青かった。


 どこまでも澄んだ、深い青。その中を、ときどき白い光の筋が、流れ星のように横切っていく。列車の揺れは、いつもと同じだった。ことん、ことん。足の裏から伝わってくる、規則正しい振動。


 ノアは座席の上で大きく伸びをした。よく眠った気がする。身体のどこにも、疲れは残っていなかった。


 膝の上の時計を開く。数字は〈48:00:00〉のまま、止まっている。


 次は、どんな世界だろう。


 窓に額を寄せかけたところで、通路の向こうから、足音が近づいてきた。


「お目覚めでしたか」


 車掌だった。いつもと同じ、紺色の制服。いつもと同じ、穏やかな声。


「うん。次は、どこに停まるの?」


「夜だけの世界です」


「夜だけ?」


「はい。それから――」


 車掌は、時刻を告げるときと同じ調子で続けた。


「この列車がお客さまをお連れする世界は、次で最後になります」


「最後……」


 ノアは、その言葉を口の中で転がした。


 迷路。逆さまの空。竜。機械と魔法。


 その次が、最後の世界。


 最後は、どんな世界なんだろう。


「じゃあ、今回も四十八時間以内に戻ってくればいいの?」


「いいえ。今回は、列車へお戻りいただく必要はありません」


「……戻らなくて、いいの?」


「はい。ただし、時間はこれまでと同じ、四十八時間です」


 ノアは、首をかしげた。


「戻らなくていいのに、四十八時間? じゃあ、ボクは何をすればいいの」


「それまで、ご自分の行きたいところへ、進んでください」


 車掌は、それだけ言った。


 いつもと同じだった。必要なことだけを、必要なだけ。


「……分かった」


 ノアが頷くと、車掌は軽く帽子に手をやり、次の車両へ歩いていった。


 行きたいところへ。


 ノアは窓の外を見た。青い景色が、ゆっくりと深くなっていく。


 列車が、速度を落とし始めた。



 *



 扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ込んできた。


 夜の匂いがした。湿った土と、名前の分からない花の、甘くて静かな匂い。


 ノアはホームに降りて、空を見上げた。


 息を、呑んだ。


 月があった。


 大きな、白い月。ノアの知っているどんな月よりも大きく、近く、空の真ん中に浮かんでいる。表面の模様まで、くっきりと見えた。


 その周りを、星が埋め尽くしていた。


 数えられる星ではなかった。砂をこぼしたように、粉をはたいたように、空のすみずみまで、細かな光がびっしりと散らばっている。ところどころで、星の濃いところが川のように流れ、薄いところが入り江のように空いていた。


 夜だった。


 けれど、暗くなかった。


 月と星の光で、足元の石畳の模様まで、はっきりと見える。ホームの向こうには、なだらかな丘があって、その斜面に、家々の窓の明かりが、ぽつぽつと灯っていた。


 時計の蓋を開けると、数字が〈47:59:57〉に変わっていた。


 ホームには、ノアのほかに、降りる人はいなかった。


 振り返ると、列車の窓の向こうで、乗客たちがそれぞれの席に座っていた。誰も、こちらを見ていない。ノアは、少しだけ手を振ってみた。それから、前を向いた。


 ホームの端の柵に、蔓草が絡みついていた。指先で葉に触れると、ひんやりと湿っている。どこか遠くで、虫が鳴いていた。りい、りい、と、細く長く。空気は少し冷たくて、深く吸い込むと、胸の奥まですうっと澄んでいく。


 ノアは蓋を閉じて、ポケットにしまった。


 それから、歩き出した。



 *



 丘を下りていくと、街の音が聞こえてきた。


 石畳を叩く靴音。誰かの笑い声。鍋をかき混ぜる音。木の扉が開いて、閉じる音。


 街は、眠っていなかった。


 通りには人が行き交い、店はどれも扉を開けていた。軒先に吊るされたランプの下で、八百屋が野菜を並べ、仕立て屋が布を広げ、子どもたちが石蹴りをしている。


 空の色だけが、夜だった。


 それ以外は、ノアの知っているどんな街の昼間とも、変わらなかった。


 角を曲がったところで、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


 パン屋だった。窓から、焼きたてのパンが並んでいるのが見える。表面に、白い小さな花びらが散らしてあった。


 ノアは、吸い寄せられるように扉を押した。


「いらっしゃい」


 粉だらけの前掛けをした、丸い顔のおじさんが顔を上げた。


「あの、そのパン、なんですか」


「月見草のパンだよ。宵に咲いた花を、生地に練り込んで焼くんだ」


 一つ買って、店先で齧った。


 外はぱりっとしていて、中はふわふわだった。噛むと、ほのかに甘い花の香りが、鼻の奥へ抜けていく。


「おいしい……!」


「だろう」


 おじさんは、得意そうに笑った。


「見ない顔だね。旅の人かい」


「うん。さっき着いたところ」


「そりゃいい。ゆっくりしていきな」


 ノアはパンを齧りながら、ふと訊いてみた。


「ねえ、ここって、朝は来ないの?」


「朝?」


 おじさんは、きょとんとした顔をした。


「ああ、旅の人の話で聞いたことがあるね。空が明るくなって、星が全部消えちまうんだろう?」


「うん。太陽が昇って」


「太陽ねえ」


 おじさんは、窓の外の月を見上げた。


「見てみたい気もするが、星がなくなるのは、ちょっと寂しいね」


 ノアも、つられて月を見上げた。


 ここでは、夜が普通なのだ。朝を知らない人たちが、夜の中でパンを焼き、野菜を売り、子どもを遊ばせている。


 それが、なんだか不思議で、面白かった。


 パン屋を出ると、通りの向こうから、軽やかな弦の音が聞こえてきた。


 行ってみると、小さな広場で、おじいさんが一人、膝の上に胴の長い楽器を抱えて弾いていた。弦は四本。指が動くたびに、低い音と高い音が、夜の空気の中でゆっくりと混ざり合う。


 広場の縁の石段に、何人かが腰を下ろして聴いていた。ノアも、その端に座った。


 石段はひんやりとしていた。夜風が、首筋を撫でていく。


 曲が終わると、聴いていた人たちが、ぱらぱらと手を叩いた。おじいさんは軽く頭を下げて、また次の曲を弾き始めた。


 ノアは、パンの最後の一口を食べながら、二曲目を最後まで聴いた。


 広場を出ようとしたとき、長い竿を担いだ男の人とすれ違った。


 男の人は、通りのランプを一つずつ見て回っていた。油が減っているランプを見つけると、竿の先の小さな壺から油を注ぎ足し、芯を整えて、また次のランプへ歩いていく。


「それ、全部のランプを回ってるの?」


「ああ。この通りの端から端まで。終わったら、また最初から」


「ずっと?」


「ずっとさ。夜が明けないんだから、ランプも消しちゃいけない」


 男の人は、竿を担ぎ直して笑った。


「けどまあ、月がでかい晩は楽だよ。ランプが少しくらい暗くても、誰も文句を言わない」


 見上げると、月は、さっきよりも少しだけ傾いていた。


「あの月、動くんだね」


「動くさ。ゆっくりだけどね。あれが向こうの山に沈みかけたら、みんな寝る支度をする。また昇ってきたら、起きる」


 夜しかない世界にも、一日の区切りはあるのだ。


 男の人が次のランプへ歩いていくのを見送って、ノアは、また歩き出した。



 *



 広場の先に、坂道があった。


 坂の下から、水の音が聞こえる。


 ノアは坂を下りた。


 下りきったところに、川が流れていた。幅の広い、ゆったりとした川。水面に月が映って、流れに合わせてゆらゆらと揺れている。


 川岸には、小舟がいくつも繋がれていた。その一つで、老人がのんびりと網の手入れをしている。


「釣り?」


 ノアが声をかけると、老人は顔を上げた。


「いや、これから湖へ出るところだ。川を下った先に、大きな湖があってな。そこで、夜魚を獲る」


「夜魚?」


「夜にしか釣れない魚さ。まあ、ここじゃ夜にしか釣れないのは当たり前だがね」


 老人は、自分の冗談に、くっくっと笑った。


「乗っていくかい。湖の向こう岸まで行くよ。向こうにも、村がある」


 ノアは、少しだけ考えた。


 それから、頷いた。


 舟は、静かに川を下っていった。


 櫂が水を掻く音。舟べりを撫でる、さらさらとした水音。岸辺の草むらから、虫の声が絶え間なく聞こえてくる。


 ノアは舟べりから手を伸ばして、水に触れた。


 冷たかった。指のあいだを、水がするすると流れていく。手を引き上げると、指先から落ちた雫が、月の光を受けて、一粒ずつ光った。


 やがて、川が開けた。


 湖だった。


 見渡す限りの、黒い水面。その上に、空の星が、そっくりそのまま映り込んでいた。


 上にも、星。下にも、星。


 舟が、星の中を進んでいく。


「……すごい」


 ノアは、思わず舟べりから身を乗り出した。どこまでが空で、どこからが水なのか分からない。舟が水を掻くたびに、映り込んだ星が揺れて、崩れて、また元に戻る。


 老人が櫂を止めて、網を水に下ろした。


「少し待っておれ」


 ノアは、舟の底に仰向けに寝転がった。


 頭の上に、星。耳の下で、水の音。舟が、ゆらゆらと揺れる。


 しばらくして、老人が網を引き上げた。銀色の細い魚が、何匹も跳ねていた。鱗が、月の光を弾いて、ちかちかと瞬く。


「今夜は、いい」


 老人は、満足そうに頷いた。


 向こう岸の村に着くと、老人は獲れたばかりの魚を一匹、焚き火で焼いてくれた。皮がぱりぱりになるまで焼いた魚に、岩塩をひとつまみ。


 熱くて、ふうふう吹きながら齧った。白い身が、ほろりと崩れる。


「うまいか」


「うん、すごく」


「そうか」


 老人はそれ以上何も言わずに、自分の分の魚を齧った。焚き火が、ぱちぱちと爆ぜた。



 *



 湖畔の村は、小さかった。


 ノアは老人に礼を言って、村の中を歩いた。


 家の軒先で、女の人が、白い花を摘んで籠に入れていた。訊くと、夜明かり草という花で、これを乾かして茶にするのだという。


「飲んでみる?」


 女の人は、家の中から湯気の立つ茶碗を持ってきてくれた。


 淡い琥珀色の茶だった。口に含むと、すっとする香りが広がって、あとからほんのりと甘さが残る。


「眠る前に飲むと、よく眠れるのよ」


「ここの人も、眠るの?」


「眠るわよ。疲れたらね」


 女の人は、くすくす笑った。


「夜しかないからって、ずっと起きていたら倒れちゃうわ」


 村の真ん中には、湯気の立つ泉があった。


 石で囲まれた浅い泉で、村の人たちが縁に腰かけて、足を湯に浸している。女の人に勧められて、ノアも靴を脱いだ。


 湯は、思っていたよりも熱かった。足首まで浸すと、じんとした熱さが、くるぶしから脛へ、ゆっくりと上ってくる。舟の上で冷えていた指先まで、温まっていくのが分かった。


 隣に座っていたおばあさんが、湯をすくって、手首にかけていた。


「地面の下で、ずっと湯が湧いてるのさ。おかげで、この村は冬でも寒くない」


 湯から上がると、夜風が濡れた足を撫でて、気持ちよかった。


 村の外れには、畑が広がっていた。


 月の光の下で、背の低い作物が、整然と並んでいる。葉の裏側が、ほんのりと銀色をしていた。畑の端では、男の人が、柄の長い鍬を振るっていた。


 畑の向こうには、なだらかな草原が続いていた。


 草原の上を、白い鳥が数羽、音もなく飛んでいく。翼が大きく、ふくろうに少し似ていた。鳥たちは、ノアの頭の上をゆっくりと旋回して、それから草原の向こうへ消えていった。


 ノアは、草原へ足を踏み入れた。


 柔らかな草が、靴の底を押し返してくる。夜露で、靴の先がしっとりと濡れた。


 草原の真ん中で、ノアは立ち止まった。


 見回す。


 草原。湖。遠くの丘。村の明かり。空いっぱいの星。


 どこへ行かなきゃいけない、ということは、何もなかった。


 誰も待っていない。何も探していない。何かを直す必要も、どこかへ間に合う必要もない。


 それなのに、少しも退屈ではなかった。


 草原の向こうから、また鳥の声が聞こえた。


 ノアは、その声のする方へ、歩き出した。



 *



 鳥を追いかけて、小さな林を抜けた。


 林の向こうに、街道があった。街道沿いに、宿場町のような集落がある。


 集落の真ん中に、市場が立っていた。


 夜市、と看板に書いてあった。ここでは、どの市場も夜市なのだろうけれど。


 市場は、匂いであふれていた。


 串に刺した肉が、炭火の上で脂を落としている。大鍋の中で、根菜と豆がことことと煮えている。蜜をからめた木の実が、甘い湯気を立てている。籠に盛られた果物は、どれも見たことのない形をしていた。


 ノアは、あちこちの屋台を覗いて歩いた。


 果物屋で、手のひらに収まるくらいの、紫色の実を一つ買った。皮を剥くと、中は透き通った白で、齧るとしゃりっと音がした。冷たくて、甘酸っぱい。


 隣の屋台では、小さな女の子が、店番をしていた。並べてあるのは、木を削って作った小さな動物の置物。ふくろうに似た鳥。耳の長い鹿。丸まった猫。


「これ、きみが作ったの?」


「ううん、おじいちゃん。あたしは売る係」


 女の子は、胸を張った。


「この鳥、さっき草原で見たよ」


「月梟だよ。夜明かり草の原っぱに、いっぱいいるの」


「そうなんだ」


 ノアは鳥の置物を手に取って、しばらく眺めていた。羽根の一枚一枚まで、丁寧に彫り込んである。


 買おうかと思った。


 けれど、手のひらの上でそれを眺めているうちに、それで十分な気がした。ノアは置物をそっと元の場所へ戻した。


「見てくれて、ありがとう」


 女の子が、にっと笑った。


 夕飯の代わりに、根菜と豆の煮込みを食べた。屋台の長椅子に座ると、隣で、旅姿の男の人が同じものを食べていた。


「どこから来たんだい」


 男の人が訊いた。


「列車で」


「へえ、列車。遠くからだね」


「おじさんは?」


「隣の街から。荷を運んでる。明日――明日って言っても、ここじゃ時計で数えるしかないが、次の町まで行くんだ」


 男の人は、煮込みの汁を、パンで拭いながら言った。


「旅はいいね。知らない町の、知らない飯が食える」


「うん」


 ノアは、大きく頷いた。


「知らない道も歩けるし」


「そうそう」


 男の人は笑って、空になった椀を置いた。


「じゃ、いい旅を」


「おじさんも」


 男の人が街道の向こうへ去っていくのを見送りながら、ノアは最後の一口を飲み込んだ。


 時計を見ると、〈28:00:00〉を過ぎていた。


 急に、瞼が重くなった。



 *



 集落の宿は、二階建ての小さな建物だった。


 部屋の窓からは、さっきの夜市の明かりが見えた。まだ賑わっている。焼き串の煙が、月の光の中を、ゆっくりと昇っていく。


 寝台に入る前に、湖畔の村でもらった夜明かり草の茶の残りを、宿の湯で淹れて飲んだ。すっとする香りが、胸の中に広がった。


 布団は、干した草の匂いがした。


 ノアは仰向けになって、天井を見た。


 今日は、何をしたっけ。


 パンを食べた。楽器を聴いた。舟に乗った。星の湖を渡った。魚を食べた。お茶を飲んだ。鳥を追いかけた。紫色の実を齧った。木彫りの鳥を見た。知らない人と、煮込みを食べた。


 何も、起きなかった。


 なのに、一日じゅう、楽しかった。


 窓の外で、遠く、月梟が鳴いた。


 ノアは目を閉じた。


 すぐに、眠りが来た。



 *



 目を覚ますと、窓の外は、眠る前と同じ夜だった。


 当たり前だ。ここには、朝が来ない。


 時計は〈21:00:00〉。よく眠った。


 宿の一階で、温かい麦の粥を食べた。宿のおかみさんが、刻んだ木の実を散らしてくれた。


「今日は、どっちへ行くんだい」


「まだ、決めてない」


「決めてないのかい」


「うん。歩きながら決める」


 おかみさんは、おかしそうに笑った。


「いいね。そういう旅も」


 宿を出て、街道に立った。


 右へ行けば、昨日の男の人が向かった、次の町。左へ行けば、来た道。


 ノアは、どちらでもない方を見た。


 街道から外れて、細い道が、丘の方へ伸びていた。轍の跡もない。人がときどき歩くだけの、草に半分埋もれた小道。


 あの丘の向こうには、何があるんだろう。


 ノアは、小道へ足を踏み入れた。


 道は、丘を越え、小川を渡り、また丘を越えた。


 小川には、平たい石が飛び石のように並んでいて、ノアは一つずつ跳んで渡った。最後の石で足を滑らせて、片足が水に浸かった。冷たさに、思わず声が出た。


 濡れた靴で、ぐしょぐしょと歩く。歩いているうちに、靴の中で水がぬるくなっていく。


 丘の上で、靴を脱いで、草の上に干した。


 裸足で草を踏む。夜露で湿った草が、足の裏をくすぐった。


 丘の下に、小さな池が見えた。池の周りに、青白い花が群れて咲いている。その上を、小さな羽虫が、ちらちらと舞っていた。


 靴が乾くまで、ノアは池のほとりに座って、それを眺めていた。


 ふと、思った。


 初めての場所で、知らない道を選んで、歩いている。


 前にも、こんなことがあった。


 白い回廊。三つに分かれた道。どっちへ行こうか、考える前に、足が勝手に動いていた。


 あのときと、同じだった。


 違うのは、今は、ちゃんと分かっていることだ。自分が、どうしてこっちへ来たのか。


 見てみたかったから。


 それだけで、十分だった。


 靴を履き直して、ノアはまた歩き出した。



 *



 丘を越えるたびに、人の気配が少なくなっていった。


 最初は、ぽつぽつと家があった。羊のような、毛の長い動物を放している牧場。窓辺で編み物をしているおばあさんが、ノアに気づいて、手を振ってくれた。ノアも、手を振り返した。


 最後の家は、丘の中腹にぽつんと建っていた。井戸の脇で、おじいさんが桶に水を汲んでいた。


「この先には、何があるの?」


 ノアが訊くと、おじいさんは、丘の向こうを眺めた。


「さあなあ。草っ原が続いてるだけだと思うがね。わしも、ずいぶん若い頃に一度行ったきりだ。歩いても歩いても草っ原でな、飽きて帰ってきた」


 おじいさんは、桶の水を柄杓ですくって、ノアに差し出した。


「飲んでいきな。この先は、井戸もない」


 冷たい水が、喉を滑り落ちていった。


「ありがとう」


「気をつけてな。飽きたら、帰っておいで」


 ノアは笑って、頷いた。


 その先は、家がなくなった。


 道も、だんだん細くなって、やがて草の中に溶けてしまった。


 それでも、ノアは歩いた。


 誰かに呼ばれたわけではなかった。何かに引かれているわけでもなかった。ただ、まだ見ていない方へ、まだ見ていない方へと、歩いているうちに、そうなっていた。


 草原は、どこまでも続いていた。


 ときどき、立ち止まった。


 空を見上げる。月が、少しだけ位置を変えている。星の川が、ゆっくりと空を渡っていく。


 足元を見る。小さな花が、群れて咲いている。花の中から、虫が一匹、羽を広げて飛び立った。


 耳を澄ます。風が、草を撫でる音。遠くで、何かの動物が鳴く声。自分の息の音。


 静かだった。


 けれど、寂しくはなかった。


 ノアは、ポケットに残しておいた月見草のパンの端を齧った。少し固くなっていたけれど、噛んでいるうちに、甘い花の香りが戻ってきた。


 時計を見ると、〈08:00:00〉になっていた。


 ノアは、時計の蓋を閉じて、顔を上げた。


 そして――


「……あれ?」


 遠くに、何かがあった。


 草原の果て。地平線の、ずっと向こう。


 最初は、雲かと思った。夜空を背に、黒い、大きな影が、空に向かって伸びている。


 けれど、雲ではなかった。


 影は、動かなかった。根元は太く、上へ行くほど枝分かれして、広がっている。その枝の先は、空の、ずっと高いところで、星の中に溶けていた。


 樹だった。


 途方もなく大きな、一本の樹。


 ノアは、目をこすった。


 あんなもの、さっきまで、見えていただろうか。


 ずっと同じ方角を向いて歩いてきたはずなのに。あれほど大きなものなら、もっと前から、見えていてもおかしくないのに。


 分からなかった。


 でも、そこにある。


 あれは、何だろう。


 ノアは、あたりを見回した。草原には、誰もいない。さっきまで聞こえていた虫の声も、いつの間にか遠くなっている。


 月の光の中で、樹の影は、ただ黙ってそこに立っていた。枝の先が、星の川に触れている。触れたところで、星がかすかに揺れたように見えた。


 怖いとは、思わなかった。


 ただ、胸の奥が、むずむずとした。


 迷路の入口に立ったときと。空の向こうに大地を見つけたときと。山のように大きな龍の話を聞いたときと。同じ感じ。


 ノアは、歩き出した。



 *



 樹は、遠かった。


 歩いても、歩いても、なかなか大きくならない。それだけ、途方もなく大きいのだ。


 途中で、小さな川を見つけた。両手ですくって、水を飲んだ。冷たくて、ほんのりと土の味がした。


 川の向こうに、ふくろうに似た白い鳥が一羽、石の上にとまっていた。月梟だ。ノアが近づいても、逃げなかった。丸い目で、じっとノアを見ている。


「きみも、あそこへ行くの?」


 訊いてみたけれど、もちろん答えはなかった。月梟は首をくるりと回して、それから、大きな翼を広げて、反対の方へ飛んでいった。


 ノアは、少しだけ笑った。


 また、歩く。


 草原が途切れて、白い石の原が広がった。


 平たい石が、地面一面に敷き詰められたように並んでいる。踏むと、石と石が擦れ合って、ころん、ころんと乾いた音を立てた。月の光を受けて、石の原全体が、ぼんやりと白く浮かび上がっている。


 石の原の真ん中で、ノアは一度、腰を下ろした。


 足が、少し重かった。ずいぶん歩いた。脹脛を揉むと、じんわりと張っている。


 石は、昼の熱を溜めることもないはずなのに、ほんのりと温かかった。手のひらを当てて、しばらく休んだ。


 見上げると、星の川が、さっきとは違う角度で空を横切っていた。樹の影が、その川を背負うように、黒々と立っている。


 ノアは立ち上がって、また歩いた。


 ときどき立ち止まって、樹を見上げた。少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。幹の形が見えてくる。枝の広がりが見えてくる。


 枝のあいだで、何かがちらちらと揺れていた。


 星、ではなかった。星にしては、色が違う。


 青。白。緑。橙。


 まるで、枝のあいだに、別の空が挟まっているような――


 近づくほど、空気が変わっていった。


 しんと、澄んでいく。風の音が遠くなる。自分の足音だけが、やけにはっきりと聞こえる。


 それでも、ノアの足は、止まらなかった。


 知りたかった。


 あれが何なのか。


 自分の目で、見たかった。



 *



 時計が〈02:00:00〉を指す頃、ノアは、その根元に立っていた。


 見上げても、てっぺんは見えなかった。


 幹は、崖だった。右を見ても、左を見ても、樹皮の壁がどこまでも続いていて、その端が見えない。深い溝が縦に走る樹皮は、一つ一つの溝が、ノアの身体がすっぽり収まるほどに大きかった。


 根は、山脈だった。地面から盛り上がった根が、うねりながら四方へ伸び、その一本一本が、ノアが越えてきた丘よりも高い。根と根のあいだには、谷ができていて、そこを小さな川が流れていた。


 そして、枝。


 遥か頭上で、幹から分かれた枝が、空いっぱいに広がっていた。


 その枝のあいだに――空があった。


 夜空ではない空が。


 青い、昼の空。白く煙る、雪の空。夕焼けに燃える、橙色の空。深い緑に揺れる、水の底のような空。枝と枝のあいだ、葉と葉のあいだに、いくつもの違う空が、窓のように覗いていた。


 ノアは、口を開けたまま、立ち尽くしていた。


 匂いがした。


 雨上がりの森のような、湿った土と、若い葉の匂い。それに混じって、どこかで嗅いだことのある匂いが、いくつも重なっている。焼き菓子の甘さ。潮の香り。雪の冷たさ。乾いた草。どれも、ほんのかすかで、すぐに分からなくなる。


 音もした。


 頭の上の、ずっと高いところで、葉擦れの音が、絶え間なく鳴っている。波のように。遠い拍手のように。


 竜の世界で、山脈が一体の龍だと気づいたとき、自分がどこに立っているのか分からなくなった。


 今は、それよりも、もっと分からなかった。


 これは、樹なのか。


 それとも、もっと別の何かなのか。


 ノアは、根のあいだの谷を下りて、幹の前に立った。


 樹皮は、すぐ目の前にあった。


 ゆっくりと、手を伸ばした。


 指先が、樹皮に触れた。


 温かかった。


 乾いた木の手ざわりなのに、陽だまりの石のように、ほんのりと温かい。


 その瞬間――


 分かった。


 声が聞こえたのではなかった。誰かに教えられたのでもなかった。ただ、目の前の景色を見て、それが景色だと分かるのと同じように、その樹が何なのかが、分かった。


 ユグドラシル。


 世界樹。


 すべての世界を繋いでいる、樹。



 *



 最初に流れ込んできたのは、世界だった。


 枝のあいだに覗く空。その一つ一つの向こうに、世界があった。


 五つではなかった。


 十でも、百でもなかった。


 数えきれない世界が、この樹に繋がっていた。枝の先に。葉の一枚一枚の向こうに。根の奥の、そのまた奥に。


 巨人が歩く野原があった。光の届かない深い海の底で、大きな魚がゆっくりと泳いでいる世界があった。春と夏と秋と冬が、一日のうちに何度も巡る庭があった。首の長い巨大な生き物が、草原を渡っていく世界があった。壁も床も焼き菓子でできた、甘い匂いの町があった。


 ――迷路の中で、見たものだ。


 水の壁の向こうから、家ほどもある魚がこちらを見ていた扉。焼き菓子の壁を齧った広間。季節がぐるぐる回る庭。巨人の足跡。首の長い生き物の影。


 あれは、迷路の飾りではなかったのだ。


 どこかに、本当にある世界の、ほんの欠片だった。


 そして、その向こうにも、まだ、まだ、ある。


 ノアの知らない世界が。見たこともない空が。想像もしたことのない景色が。


 空に、太陽が二つ並んで沈んでいく世界。雲の上に、雲でできた街が浮かんでいる世界。一面の砂漠の下に、巨大な湖が眠っている世界。音が色になって見える世界。重さのない海を、魚の代わりに鳥が泳いでいる世界。


 一つ一つが、葉の向こうで、ちらりと見えては、すぐに隠れる。


 覗き込もうとすると、また別の世界が、その奥に見える。その奥にも。そのまた奥にも。


 終わりが、見えなかった。


「……そんなに、あるんだ」


 声が、震えた。


 怖かったのではなかった。


 胸の奥が、熱かった。


 迷路の入口で、三つに分かれた道を見たときと、同じ熱さだった。いや、もっと――



 *



 次に流れ込んできたものは、ノア自身のことだった。


 ボクは、もう――


 そこで、思考が止まった。


 樹皮に触れている指先が、急に冷たくなった気がした。耳の奥で、ずっと鳴っていたはずの風の音が、ふっと遠くなる。足の裏から、地面の感触が抜けていく。


 ボクは。


 もう。


 死んでいる。


 列車に乗るよりも、前に。最初に目を覚まして、木の天井を見上げた、あのときよりも、前に。


 ボクは、もう、死んでいた。


 息が、できなかった。


 ノアは樹皮から手を離して、その場に膝をついた。指先が、震えていた。


 両手を、地面についた。


 土の冷たさが、手のひらに伝わってくる。


 感じる。ちゃんと、感じる。


 それなのに。


 どうして。いつ。どこで。


 問いが、頭の中に浮かびかけて――形になる前に、ほどけていった。


 答えは、来なかった。


 分かったのは、ただ、それだけだった。ボクは死んでいる。それ以外のことは、何も。


 ノアは、地面に手をついたまま、動けなかった。


 やがて、胸が、ひとつ、大きく動いた。


 空気が、喉を通って、肺の奥まで流れ込んでくる。


 吐く。


 また、吸う。


 夕暮れの丘を、思い出した。


 ゆっくりと上下していた、灰色の大きな胸。上がって、下がって、次に上がるまでが少しずつ長くなって――そして、もう上がらなかった。


 あれほど大きくても。あれほど長く生きても。終わりは来た。


 ボクにも、来ていたのだ。


 それから、谷底の草地を思い出した。褪せた木の車体を、何度も、何度も撫でていた、節くれだった手。


 直らないと分かって、それでも、動くうちは一緒に走ると言った、あの声。


 ノアは、ゆっくりと顔を上げた。


 目の前に、樹皮があった。さっきと何も変わらない、深い溝の走る、温かい樹皮。


 何も、変わっていなかった。


 樹も。空も。足元の土も。ここまで歩いてきた、自分の脚も。


 変わったのは、ノアが、それを知ったということだけだった。


 知ってしまったことは、もう、知らなかったことには戻らない。


 ボクは、死んでいる。


 それは、変えられない。


 ノアは、膝の上で、手を握った。


 握れる。開ける。


 この手で、パンを齧った。舟べりから、湖の水に触れた。


「……そうだったのか」


 声が、小さくこぼれた。


 悲しいのかどうか、分からなかった。怖いのかどうかも、分からなかった。


 ただ、そうだったのだ、と思った。


 頬を、何かが一筋、伝っていった。


 手の甲で拭うと、濡れていた。


 泣いているつもりは、なかった。それでも、もう一筋、伝っていった。ノアは拭わずに、そのままにしておいた。


 風が、また吹いてきた。


 根の谷を流れる小さな川が、さらさらと音を立てている。頭の上で、葉が鳴っている。遠くで、月梟が一声だけ鳴いた。


 何も、止まっていなかった。


 ノアが知ったことと関係なく、川は流れ、葉は揺れ、鳥は鳴いていた。


 竜の世界で、あの丘の上の胸が上がらなくなったあとも、空を竜の群れが渡っていったように。


 ノアは、ゆっくりと息を吸った。夜の、湿った土の匂いがした。



 *



 ノアは、もう一度、樹皮に手を当てた。


 今度は、指先が冷たくなることはなかった。


 流れ込んできたのは、列車のことだった。


 死んだ者は、みんな、列車に乗る。


 一人も、例外なく。


 ノアが目を覚ましたあの車両にも、ほかの乗客がいた。帽子を膝に抱えた、白い髭の老人。布で包んだ何かを胸に抱えていた女の人。座席に丸くなって眠っていた、同じくらいの年の少年。


 あの人たちも、そうだったのだ。


 あの人たちは、どこで降りたのだろう。どんな世界を歩いたのだろう。あの老人は、帽子を被って、どんな景色を見に行ったのだろう。眠っていた少年は、目を覚まして、窓の外に何を見たのだろう。


 知りようがなかった。それでも、あの人たちにも、それぞれの旅があったのだと思うと、不思議と、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 けれど、同じ列車に乗っていても、降りる世界は、一人ひとり違う。


 巡る世界の数も、違う。


 もっと少ない人もいる。もっと多い人もいる。


 ノアの場合は、五つだった。


 列車は、ただ運ぶだけの乗り物ではなかった。


 この樹に繋がる、数えきれない世界。そのうちのいくつかを、旅をさせてくれる乗り物だった。


 見る。触れる。歩く。食べる。怖がる。驚く。


 死んだあとにも、まだ知らない世界がある。


 それを、聞かされるのではなく、自分の足で、旅として経験する。


 あの五つの世界は――ノアに与えられた、人生最後の旅だった。


 ノアは、樹皮に手を当てたまま、しばらく目を閉じていた。


 ふと、あの穏やかな声を思い出した。


 ――停車時間は四十八時間。


 ――時間が分かるように、これをお貸しします。


 ――それは、よい停車でしたね。


 車掌さんは、知っていたんだろうな。


 最初から。ノアが何者なのかも。この旅が、何のための旅なのかも。


 それでも、何も言わなかった。


 言う必要が、なかったのだ。ノアが訊いたことには、ちゃんと答えてくれた。必要なことは、必要なときに、ちゃんと教えてくれた。


 次で最後です、と言った、あの声。


 それまで、ご自分の行きたいところへ、進んでください。


 あれが、最後だったのか。


 いつもと同じ声で、いつもと同じように送り出してくれた、あれが。


 ノアは、ポケットの中に手を入れた。


 銀色の懐中時計が、まだ、そこにあった。


 借りたままだった。



 *



 目を開けたとき、ノアは、根と根のあいだの谷の向こうに、それを見つけた。


 列車だった。


 一両だけの、古い列車。


 木の車体は、塗装がすっかり褪せている。真鍮の手すりはくすんで、屋根の上には、継ぎ足しの配管が這い回っている。


 窓に、一つだけ、灯りがともっていた。


「……あの列車だ」


 機械と魔法の世界の、森の奥の、谷底の草地で見送った列車。


 直らなかった列車。


 それでも、走っていった列車。


 デッキに、人影があった。


 白髪混じりの、がっしりとした体つきの老人。その後ろに、痩せた女の人と、若い男。


 機関士が、こちらに気づいた。


 しばらく、じっとノアを見ていた。


 それから、ゆっくりと、片手を上げた。


 ノアも、片手を上げた。


 女の人が、小さく頭を下げた。若い男が、少しだけ笑った。


 誰も、何も言わなかった。


 あの列車も、ここまで走ってきたのだ。


 直らないまま。いつ止まるか分からないまま。それでも、ここまで。


 ノアは、手を下ろした。


 古い列車の窓の灯りは、静かに、ともり続けていた。



 *



 ノアは、樹皮に背を預けて、座った。


 五つの世界のことを、思い出していた。


 白い回廊。坂の傾き。渦の溝。甘い匂い。どこまでも続く道の前で、立ち止まっては、また歩き出したこと。残り時間の数字が減っていくのを見ながら、自分の足が覚えていた道を、走って、走って、走ったこと。


 空の向こうの大地。布の下で跳ねたときの、お腹がふわりと浮く感じ。縄に回りきらなかった、少女の小さな指。少年の手でも、少女の手でも、ちゃんと縄を掴んで、境界の真ん中まで行ったこと。


 串焼きをねだった、小さな竜。翼の膜の温かさ。丘の上で、もう上がらなかった胸。山脈が、ゆっくりと息をしていたこと。


 手首の輪の、かちりという手ごたえ。物干し台に転がり込んだときの、シーツの匂い。重い歯車を支えたときの、腕の震え。一つだけ灯った窓の明かり。


 月見草のパン。星の湖。焼いた夜魚。夜明かり草の茶。木彫りの鳥。知らない人と食べた、煮込みの味。


 出会った人たちも、思い出した。


 石段で串焼きの食べ方を笑った、緑の鱗の龍人。前掛けの紐を結び直していた、屋台のおばさんとおじさん。白くなるほど杖を握りしめていた堂守。外縁まで案内してくれた見習い。夕暮れの丘で、帽子を胸に当てていた老人。夜中でも工房の灯りをつけていた技師。望遠鏡を撫でていた、観測塔の老人。湖へ舟を出してくれた老人。木彫りの鳥を売っていた女の子。


 どの人も、ノアのために、そこにいたわけではなかった。それぞれの世界で、それぞれの暮らしをしていた。ノアは、その中を、ほんの少しのあいだ、通り過ぎただけだった。


 それでも、ちゃんと、出会ったのだ。


 全部、覚えている。


 あれは、何かを教えるために用意されたものではなかった。


 ノアが、歩いた。


 ノアが、見た。


 ノアが、食べて、話して、驚いて、怖がって、知りたがった。


 旅だった。


 全部、ボクの旅だった。


 あのとき、ボクはもう、死んでいた。


 それでも、月見草のパンは甘かった。湖の水は冷たかった。丘の上で、竜の胸が上がらなくなったとき、ボクの胸は苦しかった。


 それは、全部、本当のことだった。


 少年の手でも、少女の手でも、ボクは見たいものを見に行った。


 ノアは、膝を抱えた。


 胸の奥が、じんわりと温かかった。



 *



 樹皮に触れている背中から、最後のことが、静かに流れ込んできた。


 四十八時間。


 どの世界でも、同じだった時間。


 それは、ただの停車時間ではなかった。


 この樹の先に、何があるのかは、分からない。


 もし、そこにも世界があるのなら――そこには、その世界の決まりがある。


 知らない場所に降りて、その場所の決まりを知る。守る。そのうえで、自分で考えて、自分の足で動く。


 四十八時間には、そういう意味もあったのだ。


 ノアは、ポケットから時計を取り出して、蓋を開けた。


 数字は、〈01:12:40〉。まだ、動いている。


 迷路の世界で、残り六秒で列車に飛び込んだことを思い出した。床に膝をついて、肩で息をしながら、時計を開いたこと。


 天空逆さま世界では、余裕を持って戻った。竜の世界では、見たいものを見たから、戻った。機械と魔法の世界では、古い列車を見送ってから、戻った。


 どの世界でも、四十八時間という決まりの中で、ボクは自分で行き先を決めて、歩いてきた。


 そしてこの世界では、戻らなくていいと言われて、行きたい方へ進んで――ここに、辿り着いた。


 誰かに、ここへ来いと言われたわけではない。


 自分で、来たのだ。


 ノアは、時計の蓋を閉じた。



 *



 もう、何も流れ込んではこなかった。


 ノアは、樹皮から背を離して、立ち上がった。


 目の前を、見た。


 根。


 幹。


 枝。


 その枝のあいだに覗く、数えきれない空。


 風が吹いた。


 どこから吹いてきたのか分からない風が、ノアの髪を揺らし、枝の葉を揺らした。葉擦れの音が、遥か頭上から、雨のように降ってくる。


 それきり、静かになった。


 古い列車の窓の灯りが、根の谷間で、小さく瞬いている。足元の小さな川が、さらさらと流れている。空の月は、樹の枝に半分隠れて、白く滲んでいる。


 ノアは、何も考えなかった。


 ただ、見ていた。


 息を吸って、吐いた。



 *



 枝の、ずっと先。


 枝のあいだに覗く、いくつもの空の、さらに向こう。


 そこに、何かがあった。


 いや――何があるのか、分からなかった。


 空なのか。世界なのか。何もないのか。それとも、名前のつけようもない何かなのか。


 見ても、分からない。樹に触れても、もう何も流れ込んではこない。


 この樹の先に何があるのか、ノアには分からない。


 そこへ行ったら、自分がどうなるのかも。


 身体があるのか。今のこの手が、まだあるのか。少年なのか、少女なのか、そのどちらでもないのか。そもそも、ボクは、ボクのままでいられるのか。


 分からなかった。


 怖くないと言ったら、嘘になる。


 ノアは、樹の根元を見下ろした。


 ここに座っていたら、どうなるのだろう。


 この温かい樹皮に背を預けて、枝のあいだの空を眺めて、川の音を聞いて。古い列車の灯りを、ずっと見ていて。


 それも、分からなかった。


 何も分からないのは、進んでも、ここに留まっても、同じだった。


 膝が、少しだけ震えていた。胸の奥が、ひやりと冷たくなるところがあった。


 迷路の分かれ道に立ったときも、怖かった。巨大な魚の目に見つめられたときも。境界の真ん中で、自分の身体がどこからどこまでなのか分からなくなったときも。踏まれたらひとたまりもない竜が、すぐそばを横切っていったときも。


 怖かった。


 でも、そのたびに、ボクは見ていた。


 目を逸らさずに。足を止めても、また歩き出して。


 怖いままでも、見ることはできた。


 怖さが消えるのを待っていたら、きっと、何も見られなかった。巨大な魚の目も。境界の真ん中の石も。山脈がする息も。古い列車が、もう一度動き出すところも。


 だって――


 ノアは、枝の先を見上げた。


 知らないのだ。


 あの向こうに何があるのか、分からない。ボクは、まだ見たことがない。


 知らない。


 分からない。


 ――だったら。


 胸の奥で、何かが、ことりと動いた。


 ひやりと冷たかったところが、少しずつ、温かくなっていく。


 迷路の入口に立ったときと、同じだった。空の向こうに大地を見つけたときと。山のように大きな龍の話を聞いたときと。手首の輪を、初めてかちりと回したときと。草原の果てに、この樹の影を見つけたときと。


 むずむずする。


 知りたい。


 見たい。


 行ってみたい。


 最初に目を覚ましたとき、ノアは思った。どうして、ボクはここにいるんだろう、と。


 その「どうして」は、すぐに、窓の外の景色に追い越された。


 今も、同じだった。


 あの向こうは、どんなところだろう。


 そっちの方が、ずっと、気になった。


 ノアは、笑った。


 自分でも、少し呆れた。死んでいたと知ったばかりなのに。この先、何になるのかも分からないのに。


 それでも、ボクは、まだ知らないものを見たいのだ。


 最初から、ずっと。


 きっと、最後まで。


 ノアは、ポケットの中の時計に、そっと触れた。冷たかった金属が、手のひらの温度に馴染んでいく。


 誰も、進めとは言わなかった。


 車掌さんはいない。案内してくれる人もいない。樹は、ただそこにあるだけで、何も命じない。


 行くかどうかは、ボクが決める。


 ノアは、もう一度だけ、時計の蓋を開けた。


 数字は、まだ、少しずつ減っていた。


 ノアは蓋を閉じて、時計をポケットの奥へしまった。


 それから、根の上に足をかけた。


 一歩、登る。


 樹皮の溝に手をかけて、もう一歩。


 頭の上で、葉が鳴った。枝のあいだの空が、少しずつ近づいてくる。青い空。雪の空。夕焼けの空。そのさらに向こうの、まだ名前のない場所。


 背中の向こう、根の谷間で、古い列車の窓の灯りが静かに瞬いているのが分かった。


 ノアは、振り返らなかった。


 前を見ていた。


 知らない方を。


 分からない方を。


 ――どんなところだろう。


 胸を弾ませて、ノアは、その先へ手を伸ばした。



(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。