第3話 竜の世界
「次は、竜の世界です」
車掌がそう告げたとき、ノアはもう、窓に額をくっつけていた。
竜。
その一言だけで、胸の奥がどきんと鳴った。
懐中時計の蓋を開ける。数字は〈48:00:00〉。窓の外では、めくれ続けていた景色が、ゆっくりと一枚の絵に落ち着こうとしていた。
*
扉が開いた瞬間、頭の上を、大きな影が横切っていった。
風が吹きつける。翼が空気を打つ、どおん、という重たい音。見上げると、赤銅色の鱗をした竜が、ゆったりと旋回しながら遠ざかっていくところだった。
その向こうにも、一頭。さらに向こうにも、二頭、三頭。
空のあちこちを、竜が飛んでいた。
大きなもの、小さなもの。翼の広いもの、細長い身体をくねらせて泳ぐように飛ぶもの。群れで飛ぶ小さな竜たちは、ちちち、と鳥のような声で鳴き交わしている。
ノアは、ホームの端まで歩いて、下を見た。
崖の上に、街があった。岩肌を削って造られた家々が、段々に積み重なっている。どの家の屋根にも、広い張り出しがついていて、そこに竜が降りたり、飛び立ったりしていた。道を行き交うのは、人と、竜と、人のような姿に鱗と角を持った人たち。荷車を引いているのは、牛くらいの大きさの、ずんぐりとした竜だった。
竜が、いる。
いや――
「……竜だらけだ」
口に出したら、笑いがこみ上げてきた。
怖いと思う暇もなかった。見るものが多すぎて、どこから見ればいいのか分からない。
ノアは、街へ続く石段を駆け下りた。
*
街は、竜の大きさに合わせてできていた。
通りの幅は、ノアが十人並んでもまだ余るほど広い。扉はどれも見上げるほど高く、その脇に、人が通るための小さな扉がついている。石段の横には、竜が歩くための緩やかな坂道。大きな階段と小さな階段が、並んで同じ場所へ続いていた。
市場には、湯気と匂いがあふれていた。
焼けた肉の脂の匂い。香草の青い匂い。煮詰めた果物の甘い匂い。大鍋の前では、首の長い竜が器用に口で薪をくわえて、火に足していた。
屋根の上では、猫ほどの小さな竜が、日向で丸くなって眠っている。ノアがそっと近づくと、片目だけ開けてこちらを見て、また閉じた。
広場の噴水では、子どもの竜が二頭、水を浴びて遊んでいた。その脇で、親らしい大きな竜が、首を伸ばして見守っている。子竜の一頭が水を跳ね上げると、親竜は鼻先でその頭をぐいと押して、たしなめるように鳴いた。
ノアは噴水の縁に腰かけて、しばらくそれを眺めていた。
それから、通りをあてもなく歩いた。
崖の縁では、建てかけの家の上で、太い腕のような前脚を持つ竜が、切り出した石の塊を抱えて、ゆっくりと積み上げていた。石が据わるたびに、足元の地面まで、ずしんと響く。その横で、人の職人たちが、石と石の隙間に漆喰を詰めていく。大きな仕事と、細かい仕事。どちらが欠けても、家は建たないのだ。
家々の張り出しには、鳩ほどの竜が、首に小さな筒を下げて舞い降りていた。家の人が筒から手紙を抜き取り、代わりに干し果物のかけらを差し出す。竜はそれをくわえて、また次の家へ飛んでいく。
石畳の上では、角の生えかけた龍人の子どもが、小さな竜を追いかけて走り回っていた。竜はわざと捕まりそうな距離で振り返り、子どもが手を伸ばすと、ひらりと屋根の上へ逃げる。
どこを見ても、竜が、誰かと一緒に暮らしていた。
お腹が鳴ったのは、日がだいぶ高くなった頃だった。
屋台で串焼きを一本買った。差し出された串は、ノアの腕ほどの長さがあった。
「……これ、一人前ですか」
「人の一人前だよ」
屋台の主人が、当たり前のように答えた。主人の後ろには、丸太のような串が何本も立てかけてある。
広場の石段に座って、串焼きにかぶりつく。香ばしくて、少し甘い。半分も食べないうちに、お腹がいっぱいになってきた。
「それ、全部食えるか?」
頭の上から声がした。
見上げると、背の高い男が立っていた。
いや、男というより――首筋から頬にかけて、深い緑色の鱗が並んでいる。額からは、短い角が二本。後ろでは、太い尻尾がゆらりと揺れていた。
龍人だ。
ノアの背丈は、その人の腰くらいまでしかなかった。
「……ちょっと、無理かも」
「だろうな。あそこの串は、人向けでも多い」
龍人は笑って、ノアの隣に腰を下ろした。座っても、まだ頭ひとつぶん以上高い。手には、ノアの串の三倍はありそうな串を持っていた。
「旅の人か」
「うん。さっき着いたばかり」
「どうだ、この街は」
「すごいよ。どこを見ても竜がいる。屋根の上で寝てるのとか、あそこの水浴びしてる子どもとか」
ノアが指さすと、龍人は目を細めた。
「ああ、あいつらは毎朝ああだ。親の方が先に疲れる」
龍人は、この街で荷運びをしているのだと言った。崖の下の港から、上の市場まで、荷を背負って運ぶ。休憩の途中だったらしい。
「一回に、どれくらい運べるの?」
「そこの樽なら、四つ」
指さされた樽は、ノアが抱えても持ち上がりそうになかった。
「……ボク、一つも無理だ」
「人はな。そのかわり、人は細かい仕事がうまい。俺はこの指で、針に糸が通せない」
龍人は、太い爪の生えた手を広げて見せた。ノアの頭くらい、すっぽり覆えそうな手だった。
自分にはできないことを、平気でやってのける人がいる。
それが、なんだか嬉しかった。
ふと、膝の上の串焼きに、影が落ちた。
見上げると、屋根の上で眠っていたはずの小さな竜が、石段の手すりにちょこんと止まって、串をじっと見つめていた。細い喉が、こくりと動く。
「……食べる?」
肉のかけらをちぎって差し出すと、小さな竜は首を伸ばして、器用にそれをくわえた。噛む。飲み込む。そして、もう一度こちらを見る。
「そいつに一度やると、毎日来るぞ」
龍人が、おかしそうに言った。
「毎日は、来られないかも」
「なら、今日のうちにたくさんやっとけ」
ノアがもうひとかけら差し出すと、小さな竜は、今度は迷わずに飛びついてきた。翼の先が頬をかすめる。薄い皮膜は、思っていたよりもずっと温かかった。
*
それから龍人は、休憩のあいだ、いろいろな竜の話をしてくれた。
谷に棲んで、岩を食べる竜。冬のあいだ、湖の底で眠り続ける竜。一生のほとんどを空の上で過ごして、地面に降りるのは卵を産むときだけという竜。
「この街の竜は、まだ小さい方だ」
「あれで?」
ちょうど頭の上を、家ひとつぶんはありそうな竜が横切っていった。
「大きいのは、もっと奥にいる。東の方には――」
龍人は、串の先で、遠くの空を指した。
「龍神と呼ばれてるのがいる」
「りゅうじん?」
「でかい龍だ。とにかく、でかい。山のように大きいと言われてる」
「山……」
山のように大きい龍。
ノアは、目の前を飛んでいく竜を見上げた。家ほどの竜。あれよりも、ずっと大きい。どれくらい大きければ、山のようだと言われるんだろう。
「近くに行っても、でかすぎて全体は見えないらしい。だから、遠くから見るのにいい場所がある。龍見の台って呼ばれてる丘だ」
「そこに行けば、見られるの?」
「見られる。俺も、子どもの頃に一度だけ行った」
「どうだった?」
龍人は、少し考えるように空を見上げた。
「……でかかった」
それ以上は、うまく言えないらしかった。
ノアは、東の空を見た。
雲がゆっくりと流れている。その向こうに、山のように大きな龍がいる。
見たい。
誰かに頼まれたわけじゃない。行かなきゃいけない理由もない。
ただ、そんなものがこの世界にいるのなら――
「ボク、見に行ってみる」
龍人は、ノアの顔を見た。それから、ふっと笑った。
「そうか」
それだけだった。行けとも、やめろとも言わなかった。
「東へ行くなら、まず竜便に乗るといい。港の上の発着場から出てる。川沿いの町で降りて、あとは道を訊きながら行けばいい。龍見の台の場所なら、あっちの人間は誰でも知ってる」
「竜便?」
「乗ってみりゃいい」
龍人は立ち上がって、尻尾をひとつ振った。
「さて、仕事だ。いい旅を」
「ありがとう!」
大きな背中が、人混みの向こうへ遠ざかっていく。
ノアは、食べきれなかった串焼きを包んでもらって、港の方へ歩き出した。時計の数字は、〈41:00:00〉だった。
*
竜便は、空を飛ぶ乗り物だった。
発着場には、大きな籠がいくつも並んでいた。籠といっても、十人は乗れそうな木の箱で、屋根と手すりがついている。その上に、太い革紐で繋がれて、灰色の大きな竜が待っていた。
ノアが籠に乗り込むと、竜は首を振って、翼を広げた。
ぐん、と身体が沈む。籠が地面を離れる。
足の下で、街が小さくなっていった。崖に貼りついた家々。市場の湯気。噴水の水しぶき。みんな、あっという間に遠ざかる。
風が、頬を叩いた。
翼が空気を打つたびに、籠が小さく揺れる。ノアは手すりを握りしめながら、下を覗いた。森が流れていく。川が光っている。草原の上を、竜の群れが、影を落としながら走っていた。
隣に座っていたおばあさんが、籠の揺れにも慣れた様子で、編み物をしていた。
「初めてかい、竜便は」
「うん。すごい……」
「帰りも乗るなら、川沿いの町の発着場からだよ。日に何本も出てる」
ノアは頷いて、その町の名前を覚えた。
川沿いの町で籠を降りたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
この町の竜は、街の竜とは違った。川の中を、平たい身体の竜が、荷を積んだ舟を引いて泳いでいる。岸辺では、細長い竜が首を水に突っ込んで、魚を獲っていた。
食堂で、川魚の煮込みを食べた。皿は大きかったけれど、今度はちゃんと、人の一人前だった。
「龍見の台なら、東の街道をまっすぐだよ」
食堂のおかみさんが、窓の外を指さした。
「歩くと遠いけどね。途中で荷馬車ならぬ荷竜車を拾うといい。夕方までには、峠の手前の村まで行けるだろう」
ノアは礼を言って、街道へ出た。
荷竜車に揺られ、歩き、また荷竜車に乗せてもらう。
途中、崖の斜面に、無数の穴が開いている場所があった。荷竜車の御者に訊くと、竜の巣だという。
「少し、見ていってもいい?」
「ああ、いいとも。わしは先に行ってるから、あとは歩いておいで」
ノアは崖の下に立って、巣穴を見上げた。穴から首を出した若い竜が、翼を広げては、またたたむ。何度も、何度も。やがて意を決したように崖を蹴って――ばたばたと不格好に羽ばたきながら、それでも、ちゃんと宙に浮いた。
崖の上で、親竜が高く鳴いた。
ノアは、思わず拍手していた。
草原では、背中に苔を生やしたような竜の群れが、のんびりと草を食んでいた。近づくと、一頭がゆっくりと首を上げて、ノアを眺めた。大きな黒い目。鼻息が、温かい風になって顔に当たった。
草原を抜けたところで、別の荷竜車に乗せてもらった。
しばらく行くと、地面が揺れ始めた。
どしん。どしん。腹の底に響く、重たい振動。荷竜車を引く竜が足を止め、御者の若者が手綱を緩めた。
「渡りだ。少し待とう」
街道の先の森から、竜が現れた。
大きかった。崖の街の上を飛んでいたどの竜よりも、ずっと。首をもたげれば、森の木々のてっぺんを優に越える。一歩踏み出すごとに地面が波打ち、荷竜車の車輪がかたかたと鳴った。鱗は黒く、雨上がりの岩のように濡れた光を帯びている。
竜は街道を横切りながら、ちらりとこちらを見下ろした。それだけで、ノアの身体は勝手に固まった。
踏まれたら、ひとたまりもない。
分かっていた。分かっていたのに、目が離せなかった。鱗の一枚一枚が、ノアの背丈ほどもある。その鱗が、歩くたびに擦れ合って、低く乾いた音を立てていた。
竜は街道を渡りきると、反対側の森の奥へ、ゆっくりと入っていった。地面の揺れが、遠ざかっていく。
「……でかかった」
ノアが呟くと、御者の若者が笑った。
「あれでも、まだ若いほうだよ」
どの竜も、生きていた。
食べて、飛んで、眠って、子どもを育てていた。
*
峠の手前の村に近づいた頃、空が橙色に染まり始めていた。
時計は、〈30:00:00〉の少し前。
村の外れの丘に、人が集まっていた。
人だけではない。竜も、龍人も、静かに丘を囲んでいる。誰も声を上げない。風が草を揺らす音だけが、聞こえていた。
ノアは足を止めた。
丘の上に、一頭の竜が横たわっていた。
大きい。今日一日で見たどの竜よりも、大きかった。丘そのものが、その竜でできているように見えた。鱗は色が抜けて、灰色に近い。ところどころに苔がつき、背中の上には、小さな花まで咲いていた。
大きな胸が、ゆっくりと上下していた。
とても、ゆっくりと。
「長く、生きたんだよ」
隣にいた老人が、ぽつりと言った。
「わしが子どもの頃から、もう年寄りだった。この丘で、ずっと村を見ていた」
老人の声は、静かだった。悲しんでいるのか、そうでないのか、ノアには分からなかった。
「ずっと、ここに?」
「ああ。若い頃は、よく空を飛んでいたそうだがね。わしが知っているのは、ここで日向ぼっこをしている姿だけだ。子どもの頃は、あの尻尾によじ登って、よく叱られたもんだよ。叱ったのは親で、こいつは目を細めていただけだったが」
老人は、ほんの少しだけ笑った。
「村の子は、みんな一度はあの背中で昼寝をした。わしの孫もな」
ノアは、丘を見上げた。苔の生えた背中。小さな花。あの上で、何人もの子どもが眠ったのだろう。
丘の反対側では、小さな女の子が、母親の服にしがみついて泣いていた。若い竜が一頭、横たわる竜の顔のそばに首を伸ばして、鼻先をそっと押し当てている。龍人の男たちは、何も言わずに、ただ立っていた。
大きな胸が、上がる。
下がる。
次に上がるまでが、少しずつ、長くなっていく。
ノアは、息をするのも忘れて、それを見ていた。
あんなに大きいのに。あの翼を広げたら、きっと空の半分を覆うほどだったのに。
胸が、上がった。
下がった。
そして――もう、上がらなかった。
夕暮れの風が、丘を渡っていった。横たわる竜の背中で、小さな花が揺れた。その身体は、さっきまでと何も変わらない姿で、そこにあった。
女の子の泣き声が、少しだけ大きくなった。若い竜が、低く、長く鳴いた。老人は帽子を取って、胸に当てた。
ノアは、動けなかった。
大きいことと、強いことと、終わることは――別なんだ。
あれほど大きくても。あれほど長く生きても。
それが分かったからといって、何かが分かったわけではなかった。胸の奥に、重たいものが、すとんと落ちてきただけだった。
*
村の宿に向かう道を、ノアはゆっくりと歩いた。
さっきの丘のことを、考えていた。
考えても、何も出てこなかった。悲しいのかどうかも、よく分からない。ただ、あの胸が上がらなくなった瞬間が、何度も目の奥によみがえった。
ふと、頭の上で、鳴き声がした。
見上げると、夕闇の空を、竜の群れが渡っていくところだった。翼の縁が、残照を受けて金色に光っている。群れの最後尾で、小さな竜が、大きな竜に懸命についていく。
道の脇の牧草地では、竜の親子が、寄り添って草を食んでいた。子竜が親の脚のあいだに頭を突っ込んで、親竜は迷惑そうに鼻を鳴らしている。
村の灯りが、ぽつぽつと灯り始めた。家の張り出しに降り立った竜が、家の人に首を撫でられている。どこかの台所から、夕飯の匂いが漂ってきた。
谷の向こうで、一頭の竜が長く鳴いた。少しして、別の方角から、答えるような声が返ってきた。
村の入口では、龍人の子どもが背伸びをして、軒先の灯籠に火を入れていた。届かずに困っていると、家の張り出しから竜が首を伸ばし、鼻先で灯籠をそっと下げてやる。子どもが火を入れ終えると、竜はまた、灯籠を元の高さへ戻した。
世界は、続いていた。
あの丘の上で、一つが終わっても。飛ぶものは飛び、食べるものは食べ、呼ぶものは呼び、答えるものは答えていた。
ノアは、立ち止まって、その声を聞いていた。
それから、また歩き出した。
*
宿は、竜と人が一緒に泊まれる造りになっていた。
中庭を囲むように、大きな竜のための広い寝床と、人のための小さな部屋が並んでいる。中庭では、旅の竜が二頭、身体を丸めてもう眠っていた。
夕飯は、根菜と干し肉のスープだった。熱くて、少ししょっぱくて、身体の芯までしみた。
「丘の上、見てきたのかい」
スープのおかわりをよそいながら、宿のおかみさんが訊いた。ノアが頷くと、おかみさんは小さく息をついた。
「そうかい。……あの子も、長かったからね」
あの子、と呼ぶのが、少しおかしかった。あんなに大きくて、あんなに年を取っていたのに。
「明日は、龍見の台かい」
「うん」
「なら、早く寝ておきな。あそこは、急いで見るところじゃないからね」
おかみさんはそれだけ言って、厨房へ戻っていった。
部屋に入って、寝台に腰を下ろした途端、脚が重くなった。
今日一日で、どれだけ歩いたんだろう。竜便に乗って、荷竜車に揺られて、崖を見上げて、草原を歩いて。ふくらはぎが張っている。足の裏がじんじんする。
時計を見ると、〈24:00:00〉を少し過ぎていた。
龍見の台までは、峠を越えてあと半日足らずだと、宿の主人が言っていた。
眠ろう。
ノアは靴を脱いで、寝台に倒れ込んだ。窓の外で、中庭の竜が、深い寝息を立てている。すう、と吸って、はあ、と吐く。その音を聞いているうちに、瞼が落ちてきた。
*
目を覚ますと、窓の外が白んでいた。
時計は、〈18:00:00〉。
身体は軽くなっていた。ふくらはぎにはまだ少し張りが残っていたけれど、歩けないほどではない。宿で朝ごはんの粥をかきこんで、ノアは峠道へ向かった。
「龍見の台? この道をまっすぐ上って、二つ目の分かれ道を右だ」
畑で働いていたおじさんが、鍬の手を止めて教えてくれた。
「峠の上で、乗合の竜車を拾えばいい。台の麓まで行く」
峠を上りきると、空気が変わった。風が冷たく、澄んでいる。峠の茶屋の前で、乗合の竜車を待った。
やってきたのは、六本脚の細長い竜が引く、長い荷台の車だった。荷台には、籠を抱えた女の人や、居眠りをする龍人の老人が乗っていた。
竜車は、峠の向こうの斜面を、ゆっくりと下っていった。
景色が、少しずつ大きくなっていく。森の木々が高くなり、岩が大きくなり、谷が深くなる。遠くの山並みが、だんだん近づいてくる。
麓で竜車を降りて、最後の坂道を歩いた。風が、ときどき思い出したように、坂の上から吹き下ろしてくる。その風が、ほんの少しだけ、温かい気がした。
坂の上が、開けていた。
龍見の台は、大きな岩の張り出しだった。手すりも柵もない、平らな岩の上。何人かの人と龍人が、それぞれ離れた場所に座って、黙って前を見ている。
時計の数字は、〈14:00:00〉の手前だった。
ノアは、岩の先端まで歩いて、前を見た。
景色が、広がっていた。
遠くに、山脈が横たわっている。灰色の岩肌に、濃い緑の森がかぶさり、ところどころに白い雲がかかっている。その手前には深い谷があり、谷底を、細い川が光りながら流れていた。谷の向こうの斜面からは、大きな滝が流れ落ちて、白い霧を立ち上らせている。
美しかった。
息を呑むほど、広くて、大きな景色だった。
けれど――
ノアは、目を凝らした。
山の上。谷の中。森の奥。雲の向こう。
どこにも、龍の姿がなかった。
「……龍神は、どこにいるんだろう」
呟いても、誰も答えなかった。周りの人たちは、ただ黙って、景色を見つめている。
少し離れた岩の上では、龍人のおばあさんが、小さな孫を膝に乗せて座っていた。孫はしばらく景色を眺めていたけれど、やがて退屈したのか、おばあさんの胸にもたれて、うとうとし始めた。おばあさんは何も言わずに、その背中をゆっくりと撫でている。
その目は、ずっと、前を向いたままだった。
どこかに、隠れているのだろうか。あの山の向こうに、いるのだろうか。
ノアは岩の上に腰を下ろして、もう一度、景色を端から端まで見渡した。
*
最初に気になったのは、山の形だった。
山脈の稜線が、妙に規則正しい。尖った岩が、同じくらいの間隔で、ずっと並んでいる。まるで、誰かが一つずつ据えていったみたいに。
岩肌にも、模様があった。大きな、ひし形に近い割れ目が、斜面一面に、きちんと重なり合っている。
どこかで、見たことのある並び方だった。
ノアは、しばらくそれを見つめていた。
そのとき、谷の向こうの森が、動いた。
気のせいかと思った。けれど、目を離さずに見ていると、森の生えた斜面全体が、ほんのわずかに、持ち上がっていく。ゆっくりと。とても、ゆっくりと。そして、しばらく止まって――また、ゆっくりと沈んでいった。
斜面にかかった雲が、その動きに合わせて、ふわりと押し出された。
ノアは、息を止めていた。
また、持ち上がる。
沈む。
持ち上がる。
沈む。
昨日の夕暮れ、丘の上で見たのと、同じ動きだった。
ずっと、ずっと大きいけれど。
「……息、してる」
声が、かすれた。
そう思って見ると、もう、景色は景色ではなかった。
規則正しく並んだ山の尖りは、背中に並ぶ棘だった。斜面を覆うひし形の割れ目は、一枚一枚が家ほどもある鱗だった。
谷は、首の付け根の窪み。谷底を流れる川は、その窪みに溜まった雨水。滝が流れ落ちているのは、肩の張り出しから。
山脈の端、雲に半分隠れた場所に、五つに分かれた岩の塊がある。それが大地を掴んでいる、前脚の指だと気づいたとき、ノアは思わず立ち上がっていた。
森も、岩も、谷も、川も、滝も。
全部が、ひとつに繋がっていた。
山脈は、そのまま、ノアの見ている景色の端から端まで続いている。いや、その先の、霞んで見えない向こうまで。
ノアは、その連なりを目で辿った。
尾根は途中で大きくうねり、谷をまたいで向きを変え、また遠くへ伸びていく。太さは、どこまで行ってもほとんど変わらない。翼の付け根らしいものは、どこにも見当たらなかった。ただ、ひたすらに長い。川が大地を這うように、ほどけた縄がどこまでも伸びるように、その身体はうねりながら、地平の霞の中へ溶けていた。
そのずっと先、霞の手前で、尾根の下からもう一組の岩の塊が、大地に深く食い込んでいた。前脚と同じ形をした、後ろ脚だった。
四本の脚で大地を掴み、翼を持たない、果てしなく長い身体を横たえて――それは、そこで休んでいた。
「これ全部が……一体の龍なのか」
膝が、震えていた。
怖いのではなかった。大きすぎて、自分の身体がどこに立っているのか、分からなくなりそうだった。
龍人の言葉を思い出す。
――山のように大きい。
山のように、ではなかった。
山そのものより、大きかった。
どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。
気がつくと、ノアは岩の上に座り込んでいた。周りの人たちも、さっきと同じように、黙って前を見つめている。この人たちはみんな、これを見に来ていたのだ。
谷の向こうで、森がまた持ち上がる。雲が押し出される。森が沈む。
ひとつ息をするのに、どれくらいかかるんだろう。数えてみようとして、途中で数えるのをやめた。急ぐ必要は、どこにもなかった。
ふと、雲に半分隠れた、山の頭のあたりで、何かが動いた。
岩壁の一部が、ゆっくりと持ち上がっていく。その下から、湖ほどもある、金色の光が現れた。
眼だった。
眼は、どこを見るでもなく、遠くの空の方へ向けられていた。しばらくのあいだ、そこにあって――それから、また、ゆっくりと閉じていった。
岩壁が、元の岩壁に戻る。
ノアは、ずっと、息を詰めていた。
ゆっくりと、吐き出す。
昨日の丘の竜も、若い頃には、あんなふうに目を開けて、遠くの空を眺めていたのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、谷の向こうを見る。
森が持ち上がる。雲が押し出される。森が沈む。
今、この龍は、生きている。
息をしている。眠っている。目を開けて、また閉じた。
それを、ボクは自分の目で見ている。
ノアは膝を抱えて、市場で包んでもらった串焼きの残りを、少しずつ齧った。冷めていたけれど、おいしかった。
風が、谷から吹き上がってくる。それはほんの少しだけ、温かかった。
*
時計を見ると、〈11:00:00〉だった。
まだ、時間には余裕がある。
けれど、ノアは立ち上がった。
もう、十分に見た。見たかったものを、見たかっただけ見た。
最後にもう一度だけ、谷の向こうを見る。森が、ゆっくりと持ち上がっていた。
ノアは、龍見の台を後にした。
帰りの道は、知っていた。
坂を下りて、麓で乗合の竜車を拾う。峠を越えて、昨日泊まった村を通り過ぎる。街道を荷竜車で戻り、川沿いの町の発着場から竜便に乗る。
行きにあれほど立ち止まった場所を、今度は窓から眺めるだけで通り過ぎた。竜の巣の崖。苔の背中の群れ。どれも、行きと同じようにそこにあった。
途中の村を通り過ぎるとき、窓の外に、あの丘が見えた。
丘の上には、灰色の大きな身体が、昨日と同じ姿で横たわっていた。そのそばに、小さな影がいくつか座っている。花を手向けている子どもがいた。首を伸ばして寄り添う、若い竜の姿もあった。
竜車は止まらなかった。ノアも、止めてほしいとは言わなかった。ただ、丘が見えなくなるまで、窓の外を見ていた。
竜便の籠の中で、ノアは少しだけ眠った。目を覚ますと、崖の上の街が近づいていた。
崖の街の石段を上る。市場の匂い。屋根の上で丸くなっている小さな竜。噴水のそばの、親子の竜。市場の向こうで、樽をいくつも背負った緑の鱗の背中が、人混みに紛れていくのが見えた気がした。
ホームに着くと、列車は、降りた場所に停まっていた。
*
「お戻りですね」
扉の脇で、車掌が言った。
「ただいま」
車掌は小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。
ノアは座席に腰を下ろした。時計を開くと、〈04:00:00〉を少し過ぎていた。蓋を閉じて、膝の上に置く。
窓の外に、竜の世界が広がっていた。
崖の上の街。空を渡る竜の群れ。その向こうの、ずっと東の空。
ここからでは、あの龍の姿は見えない。
それでも、ノアには分かっていた。あの山脈は今も、ゆっくりと持ち上がって、沈んでいる。森を揺らし、雲を押し出しながら、息をしている。
何か言葉にしようとして、やめた。
うまく言えるはずがなかった。
あんなに大きなものが、本当に生きていた。それを、自分の目で見た。
それだけで、胸の中がいっぱいだった。
列車が、ゆっくりと動き出す。
竜の世界が、窓の向こうで、少しずつ遠ざかっていく。
ノアは窓に額を寄せたまま、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
(了)




