第2話 天空逆さま世界
窓の外で、また景色がめくれていく。
ノアは座席の上で膝を抱えて、それを眺めていた。目を閉じると、まだ白い回廊が瞼の裏に残っている。足の裏には、坂の傾きも、溝の手ざわりも。
けれど目を開ければ、窓の向こうはもう知らない色だった。
「まもなく、停車します」
通路の向こうから、車掌が歩いてきた。
「次は、どんなところ?」
訊くより先に、身体が前のめりになっていた。
「天空逆さま世界です」
「……逆さま?」
「はい。停車時間は、前回と同じです」
それだけ言って、車掌は軽く帽子に手をやり、次の車両へ歩いていった。
ノアは懐中時計の蓋を開けた。数字は〈48:00:00〉に戻っている。
天空、逆さま。
空が逆さまなのか。それとも、自分が逆さまになるのか。
考えているうちに、列車がゆっくりと速度を落とし始めた。
*
扉が開くと、風が吹き込んできた。
草の匂いがした。それから、どこか遠くで焼いている、甘いパンの匂い。
ノアは石造りのホームに降り立った。ホームは小高い丘の上にあって、その先に、赤や青の屋根が段々に連なる町が見える。風車がゆっくりと回り、洗濯物が揺れている。
普通の町だ。
そう思いながら、ノアは何気なく空を見上げた。
そして――動けなくなった。
空の向こうに、地面があった。
薄い雲の層を透かして、もうひとつの大地が、頭の上いっぱいに広がっている。緑の森。うねる川。湖は、こちらに水面を向けたまま、こぼれもせずに光っていた。その間に、小さな町の屋根が、下に向かって尖っている。
逆さまだ。
いや、向こうから見れば、逆さまなのはこっちなのかもしれない。
二つの大地のあいだには、大小の島が浮かんでいた。岩の塊に木が茂り、家が建ち、細い吊り橋で隣の島と結ばれている。家ほどの島もあれば、町がひとつ乗りそうな島もある。それらがゆっくりと、雲と一緒に漂っていた。
「……すごい」
声が、勝手にこぼれた。
首が痛くなるまで見上げても、まだ足りなかった。あの森には何が棲んでいるんだろう。あの湖の水は、どうして落ちてこないんだろう。あの浮かんでいる島へは、どうやって行けばいいんだろう。
時計の数字が、〈47:59:58〉に変わった。
ノアは丘を駆け下りた。
*
町は、坂と階段でできていた。
石畳の道を下っていくと、広場に市場が立っていた。果物、干した魚、色とりどりの布。行き交う人の服は、どれも腰や袖に紐がついていて、結び目の位置がみんな少しずつ違っている。
「坊や、見ない顔だね」
果汁の屋台から、恰幅のいいおばさんが声をかけてきた。
「さっき、着いたところなんです」
「そりゃいい日に来たね。一杯どうだい。浮き島で採れた実だよ」
差し出された木の杯には、橙色の果汁が満ちていた。ひと口飲むと、甘さのあとに、ぴりっとした酸っぱさが舌を跳ねた。
「おいしい……! あの、浮き島って、どうやって行くんですか」
「吊り橋を渡ればすぐさ。ただし、境目を越えるときは、足元に気をつけな」
「境目?」
「行けば分かるよ」
おばさんは、にやりと笑った。
町の端から、一本の吊り橋が浮き島へ伸びていた。板が渡され、両側に太い縄が張られている。一歩踏み出すと、橋は足の下でゆらりと揺れた。
橋の半ばに、色のついた布が何本も結ばれていた。風にはためくその布を、ノアがくぐった瞬間。
お腹の底が、ふわりと浮いた。
世界が、ぐるりと回った。
気づくと、ノアは橋の「裏側」に立っていた。さっきまで頭の上にあった浮き島の底が、今は足元に広がっている。そして、さっきまで足元にあった町が――頭の上に、屋根を下にしてぶら下がっていた。
「……え?」
慌てて手すりの縄にしがみつく。けれど、落ちていく感じはしない。足の裏はしっかり板を踏んでいる。身体にとっての「下」が、そっくり入れ替わっただけだった。
すぐ横を、小さな子どもが二人、笑いながら駆け抜けていった。布の結ばれた場所で、ひょいと跳ねる。くるりと宙で回って、反対側の板に着地する。また跳ねる。また回る。
遊んでいるのだ。
「……っ、あはは!」
笑いが、喉の奥から噴き出した。
ノアも布の下へ戻って、跳んだ。お腹がふわりと浮く。世界が回る。着地する。町が足元に戻ってくる。もう一度跳ぶ。町が頭の上へ行く。
何度繰り返しても、そのたびに胸が跳ねた。
浮き島の上には、木の実をつけた低い木がたくさん生えていて、島の縁から下を覗くと、雲の向こうに、もうひとつの大地の森が見えた。向こうの大地では、今ごろ誰かが、こちらを見上げているのだろうか。
浮き島を三つ渡り、境目を何度もくぐって、ノアが町の広場へ戻ってきたのは、時計が〈46:00:00〉に近づいた頃だった。
*
喉が渇いて、もう一度あの屋台へ寄った。
「おや、お帰り。どうだった」
「すごかった! 布のところで跳ぶと、くるって――」
話している途中で、ノアは言葉を切った。
肌の内側を、温かいものがさあっと流れていった。
指先がじんと痺れる。耳の奥で、遠い鈴のような音が鳴る。足元が、ほんの少しだけ傾いたような気がした。
ノアは屋台の柱に手をついた。息を、ひとつ、ふたつ、みっつ。
痺れが、ゆっくりと引いていく。
「……今の、なに」
自分の声に、ノアは目を見開いた。
高い。
喉から出たのは、さっきまでより明らかに高く、細い声だった。
ノアは自分の手を見下ろした。指が、少し細くなっている。袖が、手の甲を半分ほど覆っていた。首筋に、さっきまでなかった髪の重さがかかる。立っているだけで、重心がわずかに下の方へ移ったのが分かった。
「ボク……女の子に、なってる……?」
「おや、嬢ちゃん。反転は初めてかい」
顔を上げると、屋台の向こうで、おばさんが――おじさんが、笑っていた。
さっきと同じ前掛け。同じ笑い方。けれど肩幅が広くなり、声は低く、太くなっている。おじさんは慣れた手つきで前掛けの紐をほどき、結び目をひとつ外側へずらして、また結び直した。
見回すと、広場じゅうで同じことが起きていた。誰もが一瞬だけ立ち止まり、袖や腰の紐を結び直して、また歩き出していく。
「ここじゃ、みんな変わるのさ。男は女に、女は男に。一日に一回、世界じゅういっせいにね」
「一日に、一回……」
ノアはもう一度、自分の手を握って、開いた。
驚いていた。でも、それと同じくらい、知りたかった。声はどこまで高く出るんだろう。この手で、あの縄を掴んだら、どんな感じがするんだろう。
「本当はね、二十四時間ごとなんだよ」
おじさんは、そう言いかけて、ふと空を見上げた。
笑顔が、すうっと消えた。
「……いや、待てよ。早すぎる」
「え?」
「朝に変わったばかりなんだよ。まだ六時間ってとこだ」
広場のざわめきが、さっきまでと違う色を帯びていた。結び直した紐をそのまま握りしめて、空を見上げている人がいる。顔を見合わせて、何か囁き合っている人たちもいる。
変わったことに驚いている人は、誰もいない。
みんな、早すぎることに怯えていた。
*
「このところ、ずっとおかしいんだ」
おじさんは、空になった杯を拭きながら言った。
「前の前は、もう少し長かった。その前は、もっと長かった。だんだん、だんだん早くなってる」
「どうして?」
「さあなあ。反転のことなら、教会で訊くといい。反転教会。丘の向こうの、あの白い塔のところさ」
指さされた先、町の外れの丘の上に、小さな白い塔が見えた。
ノアは杯の代金を払って、歩き出した。
歩き出して、すぐに気づいた。
歩幅が違う。
さっきまでと同じつもりで足を出すと、少し手前で着地してしまう。腰から下が、ほんのわずかに重い。そのかわり、上半身は軽くて、坂を上るとき、身体が勝手に前へ傾いた。
ノアは何度か、わざと大股で歩いてみた。小股で歩いてみた。片足で立ってみた。
ふらつく。でも、転ばない。
――この身体だと、こうなるのか。
吊り橋を渡るときは、縄の太さが違って感じられた。手が小さくなったぶん、指が縄に回りきらない。そのかわり、足の運びは前より軽くて、揺れる板の上でも、すっと身体が乗った。
面白い、と思った。
面白いと思っていいのかは、分からなかった。広場の人たちの顔が、まだ目の奥に残っている。
どうして、早くなっているんだろう。
白い塔は、近づくにつれて、思っていたよりずっと大きくなった。丘を越え、浮き島をひとつ渡り、また丘を上る。
時計が〈43:00:00〉を回った頃、ノアはようやく、教会の扉の前に立っていた。
*
反転教会の中は、ひんやりとしていた。
丸い広間の天井は高く、てっぺんがぽっかりと空に向かって開いている。そこから落ちてくる光の真下に、白い石の台座があった。
台座の上は、空っぽだった。
手のひらほどの窪みだけが、そこに残っている。窪みの縁は、長いあいだ何かが置かれていたように、すべすべと磨り減っていた。
「旅の方かね」
柱の陰から、杖をついた老婆が出てきた。皺の深い顔に、優しい目。教会の堂守だと名乗った。
「反転が、早くなってるって聞いて」
「ああ……」
堂守は台座を見つめた。
「ここにはな、反転石という石があった。この世界の反転を、正しい巡りに保っておく石だ。それが、盗まれた」
「盗まれた?」
「早くなり始めたのは、そのあとからだ」
「誰が、盗んだんですか」
「分からん。どこへ持っていかれたのかも、分からん」
堂守は首を振った。その声には、怒りよりも疲れが滲んでいた。
そのときだった。
肌の内側を、また温かいものが流れていった。指先の痺れ。遠い鈴の音。ノアは台座の縁に手をついて、息を数えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
声を出してみる。
「……あ」
低い。元の声だった。袖が、手首のところで止まっている。
顔を上げると、堂守が――杖をついた老爺が、時計塔の方を見つめていた。
「三時間半、か」
静かな声だった。けれど、杖を握る指の関節が、白くなっていた。
時計の数字は、〈42:30:00〉。
「新しい石は、ないんですか」
ノアが訊くと、堂守はしばらく黙っていた。それから、天井の穴の向こう――二つの大地のちょうど真ん中あたりを、杖の先で指した。
「あそこに、反転の境界がある。この世界で、いちばん反転の強いところだ。その真ん中に、反転石になる石があることは、昔から分かっとる」
「じゃあ――」
「誰も、真ん中まで行けん。外縁までなら行ける。だがその先は、身体が言うことをきかなくなる。上も下も分からなくなる。今は、なおさらだろう」
ノアは、天井の穴を見上げた。
雲の向こうに、ゆらゆらと揺れる空気の層が見えた。陽炎のように光を歪ませて、二つの大地のあいだに、ぼんやりと横たわっている。
誰も行けない場所。
この世界でいちばん、反転が強いところ。
胸の奥が、むずむずした。迷路の入口に立ったときと、同じ感じだった。
でも、それだけじゃなかった。広場で空を見上げていた人たちの顔。紐を握りしめたままの手。
「ボクが、行ってみてもいいですか」
堂守が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……なぜだね」
「見てみたいんです。その境界も、新しい石も。それに――」
ノアは、言葉を探した。
「ここの人たち、困ってるから」
堂守は長いこと、ノアを見ていた。
「危ないぞ。戻ってこられる保証は、どこにもない」
「……うん」
「身体が、自分のものじゃないみたいになる。怖いぞ」
「怖いと思う。でも、見たい」
嘘はつかなかった。怖かった。けれど、見たいという気持ちの方が、ほんの少しだけ大きかった。
堂守は、深く息をついた。
「見習いに、外縁まで案内させよう。上りは、昼までかかる。石を取れたら、下りは早い。慣れた者なら、ここまで二十分だ」
そして、杖で台座を軽く叩いた。
「取ってきたら、ここへ置く。置かなければ、何も戻らん。覚えておきなさい」
*
時計が〈41:30:00〉を指したとき、ノアは教会を発った。
案内役の見習いは、ノアと同じくらいの年の子どもだった。背中に縄の束を担ぎ、慣れた足取りで先を行く。
道は、浮き島の連なりだった。
島から島へ、吊り橋を渡る。縄梯子を登る。境目の布をくぐるたびに、世界がぐるりと回る。さっきまで見上げていた島に立ち、さっきまで立っていた島を見上げる。上へ、上へ、二つの大地の真ん中へ。
島が小さくなっていく。吊り橋が細くなっていく。風が強くなる。下を覗くと、町はもう、屋根の色がかろうじて見分けられるほどだった。
「あそこの島、知ってる?」
見習いが、遠くの浮き島を指さした。島の縁から、細い滝が流れ落ちている。いや、流れ落ちるのではなく、途中でくるりと向きを変え、もうひとつの大地の方へ流れ上がっていく。
「境目にかかってるんだよ。水が、行ったり来たりしてる」
「……きれいだ」
「でしょ」
見習いは、得意そうに笑った。
縄梯子の途中で、三度目の反転が来た。
肌の内側を流れる熱。痺れ。鈴の音。梯子にしがみついたまま、ノアは息を数えた。
手が、また小さくなる。縄を握っていた指が、少しだけ緩む。慌てて握り直すと、さっきとは違う場所に力が入った。
上を見ると、見習いも梯子の途中で目をつむって、じっと耐えていた。
「……大丈夫?」
「うん。でも、こんなに早いの、初めて」
見習いの声も、さっきとは違う高さになっていた。
登り続けた。
少女の身体にも、少しずつ慣れてきた。梯子の段に足を掛ける位置。体重を預けるタイミング。それが掴めてきたと思った頃――
「……また?」
四度目だった。
さっき変わったばかりなのに。身体がようやく自分の形を覚えかけたところで、また別の形になる。指の長さが変わる。腕の重さが変わる。踏み出した足が、思った場所に届かない。
ノアは吊り橋の上で膝をつきかけて、縄に掴まった。
時計を見る。〈37:45:00〉。前の反転から、二時間も経っていなかった。
そして、次の異変が来た。
見習いが、ぴたりと足を止めた。
吊り橋の先、境目の布が、ばたばたと暴れていた。風ではない。布の結ばれた縄そのものが、上へ引かれ、下へ引かれ、定まらずに揺れている。
見習いが、足元の小石を拾って、境目の向こうへ放った。
小石は落ちた。途中で止まった。ためらうように宙で震えて――それから、反対の方へ落ちていった。
「……こんなの、見たことない」
見習いの顔から、血の気が引いていた。
「境目は、動かないんだよ。いつも同じ場所にあって、いつも同じように回るんだ。なのに」
さっき、あんなに楽しかった布の下。何度でも跳びたかった場所。
それが今は、どちらへ落ちるか分からない。
ノアは縄を握り直した。
「……行こう」
声が、少しだけ震えた。
*
時計が〈37:00:00〉を指したとき、二人は最後の浮き島に立っていた。
その先に、反転の境界があった。
空気が、歪んでいた。陽炎よりも濃く、水の中を覗き込んだときのように、向こうの景色がゆらゆらと揺れている。その中に、岩の塊がいくつも浮かんでいた。どれも少しずつ傾き、少しずつ回り、どの岩も、別々の方を「下」にしているように見えた。
遠くで、低い唸りのような音がしていた。
「ぼくは、ここまでしか行けない」
見習いが、縄の束をノアに渡した。
「堂守さまに、伝えてくる。……戻ってきてね」
「うん」
見習いの背中が浮き島の向こうへ消えるのを見送って、ノアは境界の中へ足を踏み入れた。
最初の一歩で、上下が分からなくなった。
足は岩を踏んでいる。踏んでいるのに、その岩が下にあるのか、横にあるのか、身体が答えを出してくれない。耳の奥がぐらぐらと揺れて、ノアは思わず膝をついた。
ほどなく、五度目の反転が来た。
手が小さくなる。声が高くなる。少女の身体で、ノアは岩にしがみついた。
けれど、ここで怖いのは、それではなかった。
反転は、性別だけでは止まらなくなっていた。
奥へ進むほど、おかしなことが増えていった。
手をついた岩が、指の下でぐにゃりと沈んだ。粘土のように柔らかい。慌てて手を引くと、指の跡がゆっくりと消えていく。岩の表面には水の粒がいくつもついていて、それが全部、上へ向かって這い登っていた。
途中で二度、また反転が来た。少年に戻り、しばらくして、また少女に。身体の形が変わることには、もう驚かなかった。
それよりも、変わったあとの身体が、どこまで自分なのか分からなくなっていくことの方が、ずっと怖かった。
身体そのものが、遠くなっていった。
指に力が入らない。岩を掴んでいるはずなのに、掴んだ感覚がぼんやりと薄い。脚で立っているはずなのに、身体を支えている手ごたえが、どこにもない。息はできる。胸は膨らむ。それなのに、自分の身体がどこからどこまでなのか、だんだん分からなくなる。
ノアは、立ち止まった。
岩の上にしゃがみこんで、両手を目の前にかざした。指を一本ずつ折る。親指。人差し指。中指。
ちゃんと、動く。
怖かった。
ここで動けなくなったら、どうなるんだろう。上も下も分からないまま、この歪んだ空気の中を、ずっと漂うことになるんだろうか。
喉が、ひくりと鳴った。
けれど、その怖さの向こうに、見えていた。
歪んだ空気の、いちばん奥。浮かぶ岩の向こうに、ほんのかすかに光るものがある。
あそこに、石がある。
どっちが上なのかは、分からない。自分の身体が今どうなっているのかも、よく分からない。
でも、どこへ行きたいのかだけは、分かっていた。
ノアは立ち上がった。
次の岩へ跳ぶ。着地した瞬間に「下」が変わり、身体が横へ滑る。縄を岩の突起に引っかけて、身体を止める。息を数える。また跳ぶ。
止まる。怖がる。手を確かめる。それでも、次の岩を見る。
迷っている時間だけは、なかった。
時計が〈34:00:00〉に変わった頃、ノアは、境界の真ん中に辿り着いていた。
そこには、小さな岩の島がひとつ、静かに浮かんでいた。周りの岩がみんな傾き、回っているのに、その島だけは、ぴたりと止まっている。
島の真ん中の窪みに、石があった。
手のひらに収まるくらいの大きさ。川原の石のように滑らかで、色は青みがかった灰色。少しだけ透き通っていて、その奥で、淡い光がゆっくりと動いていた。光は、石の中を沈んでいき、底に着くと、今度は浮かび上がっていく。どちらが下なのか、決めかねているみたいに。
ノアは、そっと手を伸ばした。
ひんやりとしていた。持ち上げると、見た目よりも少しだけ重い。手のひらの上で、光がまた、ゆっくりと沈んでいった。
少女の手だった。
「……取れた」
息が、ほうっと抜けた。
取れた。誰も来られなかった場所まで来て、この石を、自分の手で。
けれど――周りの岩は、まだ傾いていた。まだ回っていた。
肌の内側を、また熱が流れていく。
石を握りしめたまま、ノアは反転に耐えた。
「……そっか」
これを持っているだけでは、何も変わらない。
あの台座に、置かなきゃいけないんだ。
*
帰り道は、行きよりもひどかった。
反転は、帰り道でも何度か来た。来るたびに、あいだが短くなっていく。重心も、歩幅も、腕の長さも、ようやく馴染んだと思った頃に入れ替わる。
それ以上に、足元が信用できなかった。踏んだ岩の「下」が、踏んでいるうちに向きを変える。掴んだ岩が、指の中で柔らかく崩れる。
石は、シャツの胸ポケットに入れてボタンを留め、その上から片手で押さえていた。もう片方の手だけで、縄を扱い、岩を掴む。
落とせない。
自分が転ぶだけなら、まだいい。でも、この石を落としたら。
岩の上で足が滑った。身体が横へ投げ出され、縄が手のひらを擦る。歯を食いしばって、ぶら下がる。胸を押さえていた手を、決して離さなかった。
ようやく、境界の外縁が見えてきた。
最後の浮き島に転がり込んだとき、ノアは少年の身体だった。
時計は、〈31:30:00〉。
仰向けに倒れて、肩で息をする。胸ポケットの上から、石の硬さを確かめる。ある。ちゃんと、ある。
空が見えた。二つの大地のあいだで、雲が、おかしな向きに流れていた。
さっきの反転から、まだ二十分も経っていなかった。
*
下りは早い、と堂守は言った。慣れた者なら、二十分。
けれど今の世界は、慣れた者の知っている世界ではなかった。
ノアは浮き島を下り始めた。吊り橋を渡る。縄梯子を下りる。境目の布をくぐる――くぐろうとして、足を止める。布が暴れている。どちらへ回るのか分からない。
待つ。布の揺れが、一瞬だけ片側に寄る。その隙に跳ぶ。
身体が回る。着地する。今度は、ちゃんと下へ。
次の島へ。
下りるにつれて、人の住む島が増えてきた。
ある家では、男の人が、棚の上の壺を一つずつ縄で縛りつけていた。縛り終える前に、壺がふわりと浮きかけて、慌てて抱きとめている。干してあった洗濯物が、物干し竿から離れて、空の方へひらひらと上っていく。戸口では、母親が子どもを抱いたまま、外へ出られずに立ちすくんでいた。
朝、広場の市場で見た屋台の幌が、どこかの島の木に引っかかって、はためいていた。
誰も、怪我をしているわけではない。家が壊れているわけでもない。
ただ、普通に暮らすことが、できなくなっていた。
肌の内側を、また熱が流れた。
吊り橋の真ん中で、ノアは縄にしがみついた。少女の手。指が、縄に回りきらない。時計は〈31:10:00〉。
揺れが収まるのを待って、ノアは歩き出した。小さな歩幅で。軽い足取りで。この身体に合わせた足の運びで。
さっきまでの歩き方は、もう使えない。だったら、今の歩き方で行けばいい。
橋が終わる。島へ渡る。足場の岩がぐらりと傾き、ノアは膝をついて、それから這うように進んだ。次の縄梯子。次の吊り橋。
白い塔が、見えてきた。
近づいている。けれど、まっすぐには近づけない。境目が暴れていれば回り道をし、足場が傾けば這い、反転が来れば止まる。止まって、息を数えて、変わった身体で、また立ち上がる。
何ひとつ、予定どおりにはいかなかった。
それでも、塔は近づいてきた。
教会の前の丘に足をついたとき、また熱が来た。
ノアは膝に手をついて、息を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。声を出す。低い。少年の声。
顔を上げると、教会の扉が開いていた。堂守と見習いが、そこに立っていた。
ノアは走った。胸ポケットのボタンを外しながら、扉をくぐり、丸い広間を横切る。
天井の穴から落ちる光の真下。空っぽの台座。
すべすべに磨り減った窪みに、ノアは石を置いた。
ことり、と小さな音がした。
石の中の光が、ゆっくりと沈んでいった。底に着いて――今度は、浮かび上がらなかった。
低い音が、広間に満ちた。
鐘のような。誰かが深く息を吐いたような。音は床を伝い、柱を伝い、天井の穴から空へ抜けていった。
風が、止まった。
天井の穴の向こうで、雲が、正しい向きに流れ始めた。
時計は、〈30:45:00〉を指していた。
*
「戻った……」
堂守が、台座の縁に手を置いて呟いた。
「本来の巡りに、戻った。次の反転は、もう九時間足らず先だ。昔から、ずっとそうだったように」
ノアは、自分の手を見た。少年の手だった。石を置いたからといって、何かが変わったわけではない。ただ、身体の内側にずっと残っていた、ぐらぐらとした揺れが、静かに収まっていた。
見習いが、ノアの隣に座り込んで、天井を見上げた。
「すごいね。本当に、取ってきたんだ」
「……うん」
すごいことをしたのかどうかは、よく分からなかった。ただ、見たかった場所へ行って、見たかったものを見て、それを置くべき場所へ置いた。
それだけで、身体じゅうが、くたくたになっていた。
堂守は、教会の奥の小部屋を貸してくれた。ノアは寝台に倒れ込んで、時計を枕元に置き、そのまま眠った。
目を覚ましたのは、〈24:20:00〉の頃だった。
教会を出ると、空気が違っていた。
浮き島が、ゆっくりと、本来の速さで漂っている。境目の布が、風だけに揺れている。丘の下の町からは、話し声と、何かを叩く槌の音が聞こえてきた。
ノアは丘を下りて、町へ向かった。
市場では、人々が屋台を組み直していた。縄を解き、棚の壺を元の場所へ戻し、どこかへ飛んでいった幌の代わりに、新しい布を張っている。
「おや、坊や。無事に帰ってきたかい」
果汁の屋台のおばさんが、手を振った。朝、最初に会ったときと同じ姿だった。
「坊やだろう? 今はね」
「うん、今は」
ノアが笑うと、おばさんも笑った。
杯を受け取って、屋台の脇の木箱に腰かける。夕暮れの光が、頭の上の大地を、橙色に染めていた。向こうの大地の町にも、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
ふと、市場の人たちが、手を止め始めた。
急ぐ人はいない。荷物を置き、紐の結び目に指を添えて、のんびりと空を見上げている。
「そろそろだね」
おばさんが、前掛けの紐に手をかけた。
肌の内側を、温かいものが流れていった。指先の痺れ。遠い鈴の音。
ノアは杯を膝に置いて、息を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
袖が、手の甲にかかっていた。
時計の数字は、〈22:00:00〉。
広場の人たちは、何事もなかったように、結び目をずらして結び直し、また歩き出していく。誰も、空を見上げて怯えたりしない。
「ほら、時間どおりだ」
前掛けを結び直したおじさんが、満足そうに言った。
「……あ」
ノアは、少女の手で杯を持ち直した。
「本当に、戻ったんだ」
*
それからノアは、町を歩いた。
夜の天空逆さま世界は、昼とはまるで違っていた。頭の上の大地に、町の灯りが無数に散らばっている。星のようで、星ではない。あの一つ一つの下で、誰かが夕飯を食べているのだ。
屋台で、浮き島の木の実を焼いた甘い菓子を買った。表面がかりかりで、中は柔らかく、ほのかに酸っぱい。広場の階段に座って食べていると、見習いがやってきて、隣に腰を下ろした。
「向こうの大地には、行ったことある?」
ノアが頭の上を指さすと、見習いは首を振った。
「まだ。でも、大人になったら行くんだ。向こうの湖には、逆さまに泳ぐ魚がいるんだって」
「逆さまに?」
「こっちから見たら、だけどね」
二人で、頭の上の湖を見上げた。夜の湖面に、こちらの町の灯りが映り込んで、揺れていた。
見習いが帰ってから、ノアは浮き島へ渡った。境目の布の下で、一度だけ跳んだ。お腹がふわりと浮く。世界が回る。着地する。
昼間と、同じだった。
同じなのに、昼間よりも、少しだけ胸に沁みた。
島の縁の草の上に寝転がると、頭の上――今は足の下にあるはずの町の灯りが、夜空いっぱいに瞬いていた。どちらが空で、どちらが地面なのか、もうどうでもよかった。
そのまま、少しだけ眠った。
目を覚ますと、空が白み始めていた。ノアは島を下りて、まだ歩いていない通りを歩いた。朝の市場で、果汁をもう一杯飲んだ。見たことのない形の風車を、しばらく眺めた。
*
時計を開くと、数字は〈12:00:00〉を指していた。
ノアは、しばらくその数字を見つめていた。
それから蓋を閉じて、丘の上のホームへ向かって歩き出した。
急ぐ必要はなかった。道は、覚えている。丘の向こうの白い塔。赤や青の屋根。浮き島へ続く吊り橋。来た道を、ひとつずつ辿っていけばいい。
途中で教会に寄って、堂守に挨拶をした。台座の上で、石は静かに光っていた。光はもう、沈んだり浮かんだりしていない。底の方に、穏やかに留まっている。
「元の石は、見つかってないんですか」
「ああ。まだだ」
堂守は、それ以上は何も言わなかった。
丘を上り、ホームに着くと、列車はちゃんと、降りた場所に停まっていた。
〈10:00:00〉。
ノアは振り返った。
空の向こうの大地。漂う浮き島。逆さまの湖。
少女の身体で、それを見ていた。
列車に乗り込むと、扉が静かに閉まった。
*
座席に腰を下ろして、窓の外を眺めていた。
景色がめくれ始める。空の向こうの大地が遠ざかり、雲に溶けていく。
しばらくして、ノアは、膝の上の手に目を落とした。
何かが、違った。
指の長さ。袖の止まる位置。首筋に、髪の重さがない。
「……あ」
声が、低かった。
少年の身体に、戻っていた。
いつ戻ったのか、分からなかった。熱も、痺れも、鈴の音もなかった。気づいたら、そうなっていた。
ノアは手を握って、開いた。
この手で、境界の岩を掴んだこともあった。あの手で、石を拾い上げたこともあった。縄に回りきらない小さな指で、吊り橋にしがみついたことも。
どちらの手も、ちゃんと覚えている。
ノアは少しだけ笑って、窓の外に目を戻した。
*
「おかえりなさい」
通路から、車掌の声がした。
「ただいま」
今度は、ちゃんと声が出た。
「天空逆さま世界は、いかがでしたか」
「すごかったよ。空の向こうに地面があって、橋の上で跳ぶと、くるって回るんだ。それから――」
ノアは、反転のことを話した。早すぎる反転のこと。盗まれた石のこと。境界の真ん中まで行って、新しい石を取ってきたこと。
車掌は、いつものように黙って聞いていた。
「でも、元の石は、まだ見つかってないんだって。誰が持っていったのかも、分からないままで」
「そうでしたか」
「盗んだ人、どこへ持っていったんだろう」
ノアが呟くと、車掌は少しだけ、窓の外に目をやった。
「なくなったものといえば――昔この列車と同じように走っていた列車にも、今どこにいるのか分からないものがあります」
「列車が?」
「ええ。ずいぶん前のことですが」
車掌の声は、いつもと同じだった。時刻を告げるときと、同じ調子。
「列車も、迷子になるんだ」
「そういうことも、あるようです」
ノアは、窓の外を見た。どこまでも続く景色の中を、自分の知らない列車が、今もどこかで走っているのかもしれない。
どんな列車なんだろう。どうして、いなくなったんだろう。
少しだけ、気になった。
けれど、窓の外がまためくれ始めると、その考えは、新しい景色の向こうへ転がっていった。
見たことのない光が、ガラスの向こうに差し込んでくる。
ノアは窓に額を寄せた。
――次は、何が見えるんだろう。
(了)




