第1話 迷路の世界
ことん、と小さく揺れて、ノアは目を開けた。
まず見えたのは、木の天井だった。飴色に磨かれた板が、ゆるやかな弧を描いている。その下に真鍮のランプが等間隔に並び、揺れに合わせて、かすかに光をこぼしていた。
座席の背もたれは深い緑色で、指でなぞると、短い毛並みがさらさらと逆立った。
列車だ。
それは分かった。足の裏から伝わる、規則正しい振動。車輪がどこかを刻んでいく、低い音。
けれど――
「……ここ、どこだろう」
口に出してみても、答えは返ってこない。
どうしてボクは、ここにいるんだろう。
その疑問は、胸の奥で小さく転がった。転がって、どこかへ引っかかる前に――ノアの目は、窓の外に吸い寄せられていた。
窓の向こうで、景色がめくれていた。
さっきまで砂漠だった。赤い砂の丘が、波のように連なっていた。それが瞬きをひとつするあいだに、深い森へ変わる。森は霧に溶けて、次には鈍く光る海原になった。海の上を、列車は音もなく走っていく。
まるで誰かが、絵本のページを次々にめくっているみたいに。
「……すごい」
ノアは窓に額を寄せた。ガラスはひんやりとしていて、息で白く曇った。袖で拭うと、今度は見たこともない色の空が広がっていた。紫と金が混ざり合い、雲がゆっくりと逆向きに流れている。
どこを走っているのか、さっぱり分からない。
分からないのに、目が離せない。
ようやく窓から顔を離して、ノアは車内を見回した。
乗客は、ほかにもいた。
通路を挟んだ向かいの席では、白い髭の老人が、膝の上に帽子を抱えたまま窓を眺めている。二つ前の席には、布で包んだ何かを大事そうに胸に抱えた女の人。そのさらに奥では、ノアと同じくらいの年頃の少年が、座席に丸くなって寝息を立てていた。
みんな、ここがどこなのか知っているのだろうか。
声をかけてみようか、と腰を浮かせかけた、そのとき。
車両の前方の扉が開いて、紺色の制服を着た人が入ってきた。
帽子のつばの下で、穏やかな目が車内をゆっくりと確かめていく。胸元には、小さな銀の徽章。
――車掌さんだ。
ノアは座席から立ち上がった。
*
「あの」
声をかけると、車掌は足を止めた。
「はい。お目覚めでしたか」
落ち着いた声だった。急かすでもなく、驚くでもない。毎日同じ挨拶を交わしている相手に向けるような、ごく普通の声。
「ここって、どこなんですか」
「列車の中です」
「それは、分かります」
ノアが少しむっとすると、車掌の口元がわずかにゆるんだ。
「失礼しました。この列車は、いくつかの世界を巡って走っています。今は、世界と世界のあいだを移動しているところです」
世界と、世界のあいだ。
ノアは窓の外を振り返った。紫と金の空は、もう青い氷原に変わっていた。
「じゃあ、この列車はどこへ行くの?」
「次の停車駅へ。そこで降りていただけます」
「次は、どんなところ?」
気がつくと、身を乗り出していた。
「迷路の世界です」
「迷路……」
その言葉を口の中で転がすと、胸のあたりがむずむずした。
「とても広い迷路です。停車時間は四十八時間。そのあいだは、自由に過ごしていただいて構いません。ただし、四十八時間以内に、必ずこの列車へお戻りください」
「四十八時間……二日だ」
「はい。時間が分かるように、これをお貸しします」
車掌は制服の内ポケットから、銀色の懐中時計を取り出した。
手のひらに載せられた時計は、思ったより軽かった。蓋を開けると、針の代わりに、小さな数字の窓が並んでいる。
〈48:00:00〉
「停車と同時に、数字が減り始めます。ゼロになる前に戻ってきてください」
「戻る道は……?」
「降りた場所に、列車は停まっています」
当たり前のことのように、車掌は言った。
ノアは時計を握りしめた。冷たかった金属が、少しずつ手の温度に馴染んでいく。
「とても広い、迷路……」
もう一度呟くと、車掌は小さく頷いた。
「時間には、お気をつけて」
それだけ言って、車掌は次の車両へ歩いていった。
ノアは座席に腰を下ろした。時計の蓋を閉じて、また開ける。〈48:00:00〉。数字はまだ動かない。
迷路の世界。
どんな壁なんだろう。どんな道があるんだろう。どこまで続いているんだろう。
さっきまで胸に引っかかっていた「どうして」は、いつの間にか、「どんな」に追い越されていた。
*
列車が、長い溜息のような音を立てて止まった。
扉が、左右に開く。
白い光が、車内に流れ込んできた。
ノアは扉の前に立った。
そこは、白い回廊だった。
床も、壁も、天井も、滑らかな白い石でできている。天井は見上げるほど高く、どこからともなく柔らかな光が降りてくる。回廊は列車のすぐ前から始まって、奥へ、奥へと伸び――その先で、三つに分かれていた。
しんと静かだった。
自分の呼吸の音さえ、壁に吸い込まれていくような気がする。
ノアは一歩、足を下ろした。
靴底が石を叩く、乾いた音。その音が回廊の奥へ転がっていって、ずっと遠くで、小さく跳ね返ってきた。
どこまでも、続いている。
怖い、と思わなかったわけじゃない。
でも、それ以上に。
「……どこに、繋がってるんだろう」
手の中で、時計がかすかに鳴った。
〈47:59:59〉
数字が、動き始めた。
ノアは、最初の分かれ道へ歩き出した。
*
右、左、まっすぐ。
最初の分岐で、ノアは少しだけ迷って、右を選んだ。右の道の奥から、ほんのわずかに風が吹いてきた気がしたからだ。
曲がると、また分かれ道があった。今度は四つ。
そのうちの一本は、ゆるやかな下り坂になっていた。
「下りてみよう」
坂を下りると、壁に細い溝が刻まれていた。指でなぞると、溝は模様になっていて、渦を巻きながら壁の向こうへ消えている。
どこまで続いているんだろう。
模様を追いかけて歩くと、回廊は急に広くなり、天井から白い柱が何本も垂れ下がる広間に出た。柱のあいだを縫って、さらに細い道が四方に伸びている。
いくつも、いくつも。
選んでも選んでも、道は増えていく。
普通なら、目印をつけたり、来た道を数えたりするのかもしれない。ノアも最初のうちは、曲がった回数を指で数えていた。
右、下り坂、渦の模様、柱の広間、まっすぐ――
でも、気になる道を見つけるたびに、指は止まった。
片方の道から、かすかに甘い匂いがする。もう片方からは、水の音が聞こえる。
甘い匂いと、水の音。
どっちも、気になる。
「……水の方から」
水の音を追って、細い通路を抜ける。突き当たりを曲がり、階段を上り、また下りる。
指で数えていた順番は、いつの間にか、どこかへ行ってしまっていた。
それでも、足は止まらなかった。
次の角の向こうに、何があるのか。
それを知りたい気持ちの方が、ずっと大きかったから。
*
水の音の正体は、扉だった。
白い回廊の途中に、ぽつんと、青い木の扉がはめ込まれている。耳を近づけると、扉の向こうで、低くゆったりとした水音がうねっていた。
ノアは、そっと取っ手を引いた。
扉の向こうに、海があった。
正確には、海の中だった。
扉の枠の内側に、青い水が壁のように立っている。こぼれてこない。手を伸ばせば届きそうなすぐ先で、銀色の小魚の群れが、一つの生き物みたいに向きを変えた。その奥では、揺らめく光の帯の中を、巨大な影がゆっくりと横切っていく。
水の壁に指先で触れると、ひやりと冷たくて、指が少しだけ濡れた。舐めてみると、しょっぱい。
「本物の、海だ……」
中へ入れるのだろうか。
顔を近づけた瞬間、水の向こうで、大きな目がこちらを向いた。家ほどもある魚の目だった。
ノアは思わず一歩下がった。心臓が、跳ねた。
魚はしばらくノアを眺めると、尾をひとつ振って、青の奥へ消えていった。
ノアは扉を閉めた。閉めてからも、しばらく手のひらが冷たかった。
怖かった。
でも、またあの目を見てみたい、とも思った。
扉の脇には小さな泉が湧いていて、こちらは真水だった。ノアは両手ですくって、喉が鳴るほど飲んだ。
――迷路の中には、そんな場所がいくつもあった。
甘い匂いを辿った先の広間は、壁が全部、焼き菓子でできていた。さくさくした薄い板が何層にも重なり、継ぎ目には白い砂糖が塗り込められている。床から生えた花は、透き通った飴細工だった。
ひとかけら、壁の端を折ってみる。
ぱきり、と軽い音。口に入れると、ほろりと崩れて、バターと蜂蜜の味が広がった。
「おいしい……」
誰が作ったんだろう。誰かが食べに来るんだろうか。広間の奥には、チョコレート色の小道がさらに続いていた。ノアは焼き菓子のかけらをいくつか、ポケットにしまった。
別の通路の先には、庭があった。
白い壁に囲まれた、小さな四角い庭。入ったとき、そこには桜が満開だった。
ひらりと落ちてきた花びらを、手で受けとめる。
その花びらが、手のひらの上で、見る間に色褪せた。
顔を上げると、枝には濃い緑の葉が茂っていた。蝉の声が、一斉に降ってくる。汗がにじむほどの熱気。そう思った次の瞬間には、葉が赤く、黄色く染まって、はらはらと散り始めた。
庭の隅の木に、赤い実が鈴なりに熟している。ノアは急いで駆け寄って、いくつかもいだ。
冷たい風が吹いた。吐いた息が白くなる。気がつけば、庭には音もなく雪が積もっていた。
ほんの数分のあいだに、一年がまるごと通り過ぎていった。
雪の上で、ノアはしばらく立ち尽くしていた。
やがて雪が解けて、地面から小さな芽が顔を出す。
また、春が来たのだ。
回廊の天井が急に高くなった場所では、足元に、巨大な窪みがあった。
池かと思った。違った。
足跡だった。
ノアが十人並んで寝転べそうな大きさの、靴の跡。その先には、ノアの背丈の何倍もある扉がそびえていた。取っ手は、遥か頭上だ。
扉の向こうから、遠い雷のような、低い響きが聞こえてくる。
歌声だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。とてつもなく大きな誰かが、どこかで、ゆっくりと歌っている。
ノアは扉に耳を当てて、しばらくその歌を聴いていた。言葉は分からない。でも、なんとなく、穏やかな歌だと思った。
別の通路では、壁の上から、長い首が覗いた。
ごつごつした灰色の皮膚。首の先に、小さな頭。それが壁の向こうから伸びてきて、天井近くの白い光をのんびりと見上げている。
地面が、どすん、と揺れた。
もう一度、どすん。
壁の向こうを、何か途方もなく重いものが歩いている。
ノアは息を殺して、首が遠ざかっていくのを見送った。追いかけたかった。でも、あの足に踏まれたら、と思うと、さすがに足がすくんだ。
だから、壁の際から、見えなくなるまでずっと見ていた。
ある広間の真ん中には、一本の樹が立っていた。
幹の太さは、見当もつかない。根は白い床を割って四方に這い、枝は天井を突き抜けて、その先は見えない。樹皮に耳を当てると、ずっと奥の方で、水が上へ上へと昇っていく音がした。
ノアは根元に座り込んで、時計を開いた。
〈31:42:17〉
いつの間にか、ずいぶん時間が経っていた。
お腹が、くう、と鳴った。
ポケットから、焼き菓子のかけらと、季節の庭でもいだ赤い実を取り出す。
大きな樹の根元で、それを食べた。
実は甘酸っぱくて、焼き菓子は少しだけ湿気っていた。それでも、おいしかった。
食べ終えると、急に瞼が重くなった。
樹の幹にもたれて、ノアは目を閉じた。水が昇っていく音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
*
目が覚めたとき、時計は〈24:10:52〉を指していた。
ノアは大きく伸びをした。背中が少し痛い。でも、頭はすっきりしていた。
根元から見上げると、枝の隙間から、柔らかな光が降ってくる。
海。巨人の歌。お菓子の壁。一年が巡る庭。首の長い生き物。この大きな樹。
ここに来てから、いったいいくつの「知らないもの」を見たんだろう。
指を折ってみようとして、ノアはふと手を止めた。
――ボクは、何がしたいんだろう。
その問いは、なんの前触れもなく浮かんできた。
列車で目を覚ましてから、ずっと何かを見てきた。何かに触って、食べて、聴いてきた。
でも、それは何のためなんだろう。
ボクは何がしたくて、ここにいるんだろう。
ボクには、何ができるんだろう。
答えを探して、胸の中をのぞき込む。
何も見つからなかった。
白い回廊みたいに、どこまでものっぺりと続いているだけだ。
「……分かんないや」
小さく呟いて、膝を抱える。
分からないのは、少しだけ心細かった。
そのとき、視界の端で、何かがきらりと光った。
樹の根の隙間。そこに、細い通路が口を開けていた。奥から、虫の羽音のような、澄んだ音がかすかに響いてくる。
ノアは顔を上げた。
膝を抱えていた腕は、もうほどけていた。
立ち上がって、根の隙間に体を滑り込ませる。
さっきの問いは、樹の根元に置いてきてしまったみたいだった。
*
〈12:00:00〉
数字がそろったのを見て、ノアは足を止めた。
残り、十二時間。
そろそろ、戻らないといけない。
根の隙間の先にあったのは、羽根の生えた小さな光の粒が、壁一面にとまっている部屋だった。ノアが近づくと、粒はいっせいに飛び立って、部屋じゅうを星空みたいに埋め尽くした。
あの部屋も、もう少し見ていたかった。でも。
「帰ろう」
十二時間あれば、大丈夫だ。来た道を、そのまま戻ればいい。
ノアは踵を返した。
根の隙間を抜けて、大きな樹の広間へ。そこまでは迷わなかった。
広間からは、六本の通路が出ていた。
どれから入ってきたんだっけ。
首の長い生き物を見た通路は――たしか、右から二番目。いや、三番目だったかもしれない。
ノアは二番目の通路に入った。
しばらく歩くと、分かれ道があった。見覚えがある、気がする。左に曲がった、気がする。
左へ。
白い回廊。白い回廊。分かれ道。また白い回廊。
どこも、よく似ていた。
最初は気にならなかった。似ていても、どこかに覚えのある目印があるはずだ。渦の模様。柱の広間。下り坂。
ノアは壁に目を凝らした。床の傾きを、足の裏で確かめた。天井の高さを見比べた。
間違っていると気づいたら、引き返す。分岐まで戻って、別の道を選ぶ。
ちゃんと考えている。ちゃんと戻っている。
それなのに。
〈08:03:41〉
同じ柱の広間を、二度通った気がした。違う広間だったのかもしれない。それすら、もう分からない。
海の扉は、どこにも見当たらなかった。お菓子の広間も、季節の庭も。
ノアは立ち止まって、来た道を振り返った。
白い回廊が、静かに伸びている。
前を見る。
白い回廊が、静かに伸びている。
迷路が意地悪をしているわけじゃない。壁が動いたわけでも、道が入れ替わったわけでもない。
ただ、ノアが――覚えていなかったのだ。
あんなにたくさん曲がって、あんなにたくさん寄り道をして。そのひとつひとつを、ちゃんと覚えておけるはずがなかった。
「……迷った」
声に出すと、白い壁が、その言葉を静かに吸い込んだ。
*
歩いた。
考えた。
また歩いた。
高いところから見下ろせば、と思って、階段を見つけるたびに上った。上った先にも、白い壁の迷路が、果てまで広がっているだけだった。
片手を壁について、ひとつの壁に沿って歩き続ける方法も試した。何時間か歩いて、その壁がどこまでも途切れずに続いていることに気づいて、やめた。
時計を開く。
〈05:00:12〉
残り、五時間。
喉が、からからに渇いていた。
――間に合わないかもしれない。
その考えが、はっきりとした形で、胸の中に落ちてきた。
さっきまで、時計の数字は「まだここにいられる時間」だった。あと何時間、歩き回れるか。あといくつ、知らないものを見られるか。そういう数字だった。
今は違う。
減っていく数字は、そのまま、列車に戻るために残された時間だった。
ノアは走り出した。
分岐。右。違う。戻る。左。行き止まり。戻る。
焦って選んだ道は、ことごとく外れた。息が上がる。膝が笑う。足の裏が、じんじんと熱い。
走るのをやめて、壁にもたれた。
背中が、ずるずると壁を滑り落ちていく。白い石の床に、そのまま座り込んだ。
〈03:00:00〉
数字が、またそろった。
残り、三時間。
*
ノアは、膝の上の時計をじっと見ていた。
どうして、こんなことになったんだろう。
来た道を、覚えていなかったから。
どうして、覚えていなかったんだろう。
寄り道ばかりしていたから。
――どうして、寄り道ばかりしたんだろう。
ノアは目を閉じた。
最初の分岐で、右を選んだ。風が吹いてくる気がしたから。
下り坂を下りた。その先が見たかったから。
水の音を追いかけた。その音の正体が知りたかったから。
海の扉を開けた。お菓子の壁を齧った。一年が巡る庭で、雪が解けるまで立っていた。巨人の歌に耳を澄ませた。首の長い生き物を、見えなくなるまで見送った。大きな樹の根元で眠って、起きたら、根の隙間の通路に飛び込んでいた。
誰かに、そうしろと言われたわけじゃない。
車掌さんは、時間に気をつけて、としか言わなかった。
全部、自分で選んだ。
何度選んでも、ノアは同じ方を選んでいた。
知らない方。
まだ見たことのない方。
――ああ、そうか。
大きな樹の根元で、自分に問いかけたとき。胸の中には、何も見つからなかった。
でも、本当は。
答えなら、ずっと足が知っていたのだ。
「ボクは」
声が、少しかすれた。
「ボクは、まだ知らないものを、自分の目で見たいんだ」
言葉にしてみると、拍子抜けするほど簡単だった。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。
でも、何をしたいのかだけは、分かった。
たったひとつ。
それだけのことが、胸の真ん中に、すとんと落ち着いた。
できるかどうか分からないなら――やってみればいい。
ノアは顔を上げた。
白い回廊は、何も変わっていなかった。
壁は動かない。道は開かない。どこからも光は差さないし、誰の声も聞こえない。
迷路は、さっきまでと同じ顔をして、そこに広がっていた。
変わったのは、たぶん、ノアの方だけだった。
*
ノアは立ち上がった。
次の分岐の前で、足を止める。
右と、左。
さっきまでなら、ここで立ち尽くしていた。どっちだったか思い出せなくて、どっちを選んでも間違っている気がして。
でも今は、迷うのをやめて、ただ見た。
右の通路の床が、ほんのわずかに上っている。
――下り坂を、下りてきた。
来たときは、たしかに下ったのだ。だったら、帰りは上るはずだ。
右へ。
しばらく行くと、壁に、細い溝が刻まれていた。指でなぞる。溝は渦を巻いて、壁の向こうへ消えている。
見たことがある。
あのときは、この渦を追いかけて、奥へ進んだ。だから今は、逆へ。
次の分岐では、片方の通路から、かすかに甘い匂いがした。
――甘い匂いと、水の音。どっちも気になって、水の方を選んだ。
だから、甘い匂いの通路でも、水の音の通路でもない。最初に来た、三本目の方。
意識して覚えたわけじゃない。地図なんて、頭のどこにもない。
でも、壁の小さな欠け。天井の高さが変わる場所。足音の響き方。曲がり角の角度。何歩歩いたら次の分岐が来たか。肌に触れる空気の、わずかな湿り気。
夢中で歩いていたあいだに、体のどこかが、ちゃんと拾っていたのだ。
さっきまでは、それが「どっちへ行けばいいんだろう」という迷いの下に埋もれて、聞こえなかった。
今は、少しだけ聞こえる。
全部が分かるわけじゃない。ときどき立ち止まって、確かめる。一度は行き止まりにぶつかって、引き返した。
それでも、足が、前より迷わなくなっていた。
考えるより先に、足が出る。
その足について、ノアは歩いた。
*
〈01:12:40〉
柱の広間を抜けた。
〈00:41:03〉
あの下り坂を――今は上り坂を、駆け上がった。
足が重い。息が苦しい。胸の奥が、焼けるように熱い。
〈00:15:22〉
見覚えのある、三つ叉の分かれ道。
最初に、ここで右を選んだ。
だから――ここを抜ければ。
ノアは、最後の角を曲がった。
まっすぐな回廊の、ずっと先。
白い光の中に、黒い車体が、静かに横たわっていた。
列車だ。
〈00:02:58〉
遠い。
思っていたより、ずっと遠い。
ノアは走った。
足がもつれる。転びそうになる。床に手をついて、また走る。
〈00:01:30〉
壁が後ろへ流れていく。自分の足音と、心臓の音と、荒い呼吸。それしか聞こえない。
〈00:00:40〉
列車の扉が、開いたまま待っている。
〈00:00:20〉
あと少し。
〈00:00:10〉
あと――
ノアは、扉の中へ飛び込んだ。
膝から床に崩れ落ちる。木の床に手をついて、肩で息をする。
握りしめていた時計を、震える指で開いた。
〈00:00:06〉
*
「おかえりなさい」
頭の上から、落ち着いた声が降ってきた。
見上げると、車掌が立っていた。列車を降りたときと、何ひとつ変わらない顔で。
「……ただいま、です」
声がかすれて、うまく出なかった。
「ずいぶん、遠くまで行かれたようですね」
「うん……すごく、広かった」
ノアは床に座り込んだまま、まだ整わない息で言った。
「海があったんだ。扉を開けたら、水が壁みたいに立ってて、家くらいある魚がこっちを見てた。それから、お菓子でできた部屋。壁をちょっと齧ったら、すごくおいしくて。それから――」
そこで、息が続かなくなった。
話したいことが、多すぎる。どれから話せばいいのか、もう分からない。
車掌は急かさずに、ノアの息が整うのを待っていた。
「……それから、まだ、いっぱいあった」
車掌は小さく頷いた。
「それは、よい停車でしたね」
それから、手を差し出した。ノアはその手に掴まって、立ち上がった。
「お疲れでしょう。次の停車まで、まだ時間があります。ゆっくり休んでください」
車掌はそれだけ言って、いつものように通路を歩いていった。
ノアは座席に腰を下ろした。
窓の向こうで、白い迷路が、ゆっくりと遠ざかり始めていた。
どこまでも続く回廊。あの中に、まだ開けていない扉が、いくつも、いくつもあったはずだ。
少しだけ、もったいなかった。
ノアは窓に額を寄せた。ガラスが、ひんやりと冷たかった。
やがて、窓の外の景色が、またページをめくるように変わり始めた。
見たことのない色が、少しずつ、ガラスの向こうに滲んでくる。
――次は、どんな世界だろう。
(了)




