↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『五つの世界と不思議な列車』  作者: MOON RAKER 503


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第1話 迷路の世界

 ことん、と小さく揺れて、ノアは目を開けた。


 まず見えたのは、木の天井だった。飴色に磨かれた板が、ゆるやかな弧を描いている。その下に真鍮のランプが等間隔に並び、揺れに合わせて、かすかに光をこぼしていた。


 座席の背もたれは深い緑色で、指でなぞると、短い毛並みがさらさらと逆立った。


 列車だ。


 それは分かった。足の裏から伝わる、規則正しい振動。車輪がどこかを刻んでいく、低い音。


 けれど――


「……ここ、どこだろう」


 口に出してみても、答えは返ってこない。


 どうしてボクは、ここにいるんだろう。


 その疑問は、胸の奥で小さく転がった。転がって、どこかへ引っかかる前に――ノアの目は、窓の外に吸い寄せられていた。


 窓の向こうで、景色がめくれていた。


 さっきまで砂漠だった。赤い砂の丘が、波のように連なっていた。それが瞬きをひとつするあいだに、深い森へ変わる。森は霧に溶けて、次には鈍く光る海原になった。海の上を、列車は音もなく走っていく。


 まるで誰かが、絵本のページを次々にめくっているみたいに。


「……すごい」


 ノアは窓に額を寄せた。ガラスはひんやりとしていて、息で白く曇った。袖で拭うと、今度は見たこともない色の空が広がっていた。紫と金が混ざり合い、雲がゆっくりと逆向きに流れている。


 どこを走っているのか、さっぱり分からない。


 分からないのに、目が離せない。


 ようやく窓から顔を離して、ノアは車内を見回した。


 乗客は、ほかにもいた。


 通路を挟んだ向かいの席では、白い髭の老人が、膝の上に帽子を抱えたまま窓を眺めている。二つ前の席には、布で包んだ何かを大事そうに胸に抱えた女の人。そのさらに奥では、ノアと同じくらいの年頃の少年が、座席に丸くなって寝息を立てていた。


 みんな、ここがどこなのか知っているのだろうか。


 声をかけてみようか、と腰を浮かせかけた、そのとき。


 車両の前方の扉が開いて、紺色の制服を着た人が入ってきた。


 帽子のつばの下で、穏やかな目が車内をゆっくりと確かめていく。胸元には、小さな銀の徽章。


 ――車掌さんだ。


 ノアは座席から立ち上がった。



 *



「あの」


 声をかけると、車掌は足を止めた。


「はい。お目覚めでしたか」


 落ち着いた声だった。急かすでもなく、驚くでもない。毎日同じ挨拶を交わしている相手に向けるような、ごく普通の声。


「ここって、どこなんですか」


「列車の中です」


「それは、分かります」


 ノアが少しむっとすると、車掌の口元がわずかにゆるんだ。


「失礼しました。この列車は、いくつかの世界を巡って走っています。今は、世界と世界のあいだを移動しているところです」


 世界と、世界のあいだ。


 ノアは窓の外を振り返った。紫と金の空は、もう青い氷原に変わっていた。


「じゃあ、この列車はどこへ行くの?」


「次の停車駅へ。そこで降りていただけます」


「次は、どんなところ?」


 気がつくと、身を乗り出していた。


「迷路の世界です」


「迷路……」


 その言葉を口の中で転がすと、胸のあたりがむずむずした。


「とても広い迷路です。停車時間は四十八時間。そのあいだは、自由に過ごしていただいて構いません。ただし、四十八時間以内に、必ずこの列車へお戻りください」


「四十八時間……二日だ」


「はい。時間が分かるように、これをお貸しします」


 車掌は制服の内ポケットから、銀色の懐中時計を取り出した。


 手のひらに載せられた時計は、思ったより軽かった。蓋を開けると、針の代わりに、小さな数字の窓が並んでいる。


 〈48:00:00〉


「停車と同時に、数字が減り始めます。ゼロになる前に戻ってきてください」


「戻る道は……?」


「降りた場所に、列車は停まっています」


 当たり前のことのように、車掌は言った。


 ノアは時計を握りしめた。冷たかった金属が、少しずつ手の温度に馴染んでいく。


「とても広い、迷路……」


 もう一度呟くと、車掌は小さく頷いた。


「時間には、お気をつけて」


 それだけ言って、車掌は次の車両へ歩いていった。


 ノアは座席に腰を下ろした。時計の蓋を閉じて、また開ける。〈48:00:00〉。数字はまだ動かない。


 迷路の世界。


 どんな壁なんだろう。どんな道があるんだろう。どこまで続いているんだろう。


 さっきまで胸に引っかかっていた「どうして」は、いつの間にか、「どんな」に追い越されていた。



 *



 列車が、長い溜息のような音を立てて止まった。


 扉が、左右に開く。


 白い光が、車内に流れ込んできた。


 ノアは扉の前に立った。


 そこは、白い回廊だった。


 床も、壁も、天井も、滑らかな白い石でできている。天井は見上げるほど高く、どこからともなく柔らかな光が降りてくる。回廊は列車のすぐ前から始まって、奥へ、奥へと伸び――その先で、三つに分かれていた。


 しんと静かだった。


 自分の呼吸の音さえ、壁に吸い込まれていくような気がする。


 ノアは一歩、足を下ろした。


 靴底が石を叩く、乾いた音。その音が回廊の奥へ転がっていって、ずっと遠くで、小さく跳ね返ってきた。


 どこまでも、続いている。


 怖い、と思わなかったわけじゃない。


 でも、それ以上に。


「……どこに、繋がってるんだろう」


 手の中で、時計がかすかに鳴った。


 〈47:59:59〉


 数字が、動き始めた。


 ノアは、最初の分かれ道へ歩き出した。



 *



 右、左、まっすぐ。


 最初の分岐で、ノアは少しだけ迷って、右を選んだ。右の道の奥から、ほんのわずかに風が吹いてきた気がしたからだ。


 曲がると、また分かれ道があった。今度は四つ。


 そのうちの一本は、ゆるやかな下り坂になっていた。


「下りてみよう」


 坂を下りると、壁に細い溝が刻まれていた。指でなぞると、溝は模様になっていて、渦を巻きながら壁の向こうへ消えている。


 どこまで続いているんだろう。


 模様を追いかけて歩くと、回廊は急に広くなり、天井から白い柱が何本も垂れ下がる広間に出た。柱のあいだを縫って、さらに細い道が四方に伸びている。


 いくつも、いくつも。


 選んでも選んでも、道は増えていく。


 普通なら、目印をつけたり、来た道を数えたりするのかもしれない。ノアも最初のうちは、曲がった回数を指で数えていた。


 右、下り坂、渦の模様、柱の広間、まっすぐ――


 でも、気になる道を見つけるたびに、指は止まった。


 片方の道から、かすかに甘い匂いがする。もう片方からは、水の音が聞こえる。


 甘い匂いと、水の音。


 どっちも、気になる。


「……水の方から」


 水の音を追って、細い通路を抜ける。突き当たりを曲がり、階段を上り、また下りる。


 指で数えていた順番は、いつの間にか、どこかへ行ってしまっていた。


 それでも、足は止まらなかった。


 次の角の向こうに、何があるのか。


 それを知りたい気持ちの方が、ずっと大きかったから。



 *



 水の音の正体は、扉だった。


 白い回廊の途中に、ぽつんと、青い木の扉がはめ込まれている。耳を近づけると、扉の向こうで、低くゆったりとした水音がうねっていた。


 ノアは、そっと取っ手を引いた。


 扉の向こうに、海があった。


 正確には、海の中だった。


 扉の枠の内側に、青い水が壁のように立っている。こぼれてこない。手を伸ばせば届きそうなすぐ先で、銀色の小魚の群れが、一つの生き物みたいに向きを変えた。その奥では、揺らめく光の帯の中を、巨大な影がゆっくりと横切っていく。


 水の壁に指先で触れると、ひやりと冷たくて、指が少しだけ濡れた。舐めてみると、しょっぱい。


「本物の、海だ……」


 中へ入れるのだろうか。


 顔を近づけた瞬間、水の向こうで、大きな目がこちらを向いた。家ほどもある魚の目だった。


 ノアは思わず一歩下がった。心臓が、跳ねた。


 魚はしばらくノアを眺めると、尾をひとつ振って、青の奥へ消えていった。


 ノアは扉を閉めた。閉めてからも、しばらく手のひらが冷たかった。


 怖かった。


 でも、またあの目を見てみたい、とも思った。


 扉の脇には小さな泉が湧いていて、こちらは真水だった。ノアは両手ですくって、喉が鳴るほど飲んだ。


 ――迷路の中には、そんな場所がいくつもあった。


 甘い匂いを辿った先の広間は、壁が全部、焼き菓子でできていた。さくさくした薄い板が何層にも重なり、継ぎ目には白い砂糖が塗り込められている。床から生えた花は、透き通った飴細工だった。


 ひとかけら、壁の端を折ってみる。


 ぱきり、と軽い音。口に入れると、ほろりと崩れて、バターと蜂蜜の味が広がった。


「おいしい……」


 誰が作ったんだろう。誰かが食べに来るんだろうか。広間の奥には、チョコレート色の小道がさらに続いていた。ノアは焼き菓子のかけらをいくつか、ポケットにしまった。


 別の通路の先には、庭があった。


 白い壁に囲まれた、小さな四角い庭。入ったとき、そこには桜が満開だった。


 ひらりと落ちてきた花びらを、手で受けとめる。


 その花びらが、手のひらの上で、見る間に色褪せた。


 顔を上げると、枝には濃い緑の葉が茂っていた。蝉の声が、一斉に降ってくる。汗がにじむほどの熱気。そう思った次の瞬間には、葉が赤く、黄色く染まって、はらはらと散り始めた。


 庭の隅の木に、赤い実が鈴なりに熟している。ノアは急いで駆け寄って、いくつかもいだ。


 冷たい風が吹いた。吐いた息が白くなる。気がつけば、庭には音もなく雪が積もっていた。


 ほんの数分のあいだに、一年がまるごと通り過ぎていった。


 雪の上で、ノアはしばらく立ち尽くしていた。


 やがて雪が解けて、地面から小さな芽が顔を出す。


 また、春が来たのだ。


 回廊の天井が急に高くなった場所では、足元に、巨大な窪みがあった。


 池かと思った。違った。


 足跡だった。


 ノアが十人並んで寝転べそうな大きさの、靴の跡。その先には、ノアの背丈の何倍もある扉がそびえていた。取っ手は、遥か頭上だ。


 扉の向こうから、遠い雷のような、低い響きが聞こえてくる。


 歌声だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。とてつもなく大きな誰かが、どこかで、ゆっくりと歌っている。


 ノアは扉に耳を当てて、しばらくその歌を聴いていた。言葉は分からない。でも、なんとなく、穏やかな歌だと思った。


 別の通路では、壁の上から、長い首が覗いた。


 ごつごつした灰色の皮膚。首の先に、小さな頭。それが壁の向こうから伸びてきて、天井近くの白い光をのんびりと見上げている。


 地面が、どすん、と揺れた。


 もう一度、どすん。


 壁の向こうを、何か途方もなく重いものが歩いている。


 ノアは息を殺して、首が遠ざかっていくのを見送った。追いかけたかった。でも、あの足に踏まれたら、と思うと、さすがに足がすくんだ。


 だから、壁の際から、見えなくなるまでずっと見ていた。


 ある広間の真ん中には、一本の樹が立っていた。


 幹の太さは、見当もつかない。根は白い床を割って四方に這い、枝は天井を突き抜けて、その先は見えない。樹皮に耳を当てると、ずっと奥の方で、水が上へ上へと昇っていく音がした。


 ノアは根元に座り込んで、時計を開いた。


 〈31:42:17〉


 いつの間にか、ずいぶん時間が経っていた。


 お腹が、くう、と鳴った。


 ポケットから、焼き菓子のかけらと、季節の庭でもいだ赤い実を取り出す。


 大きな樹の根元で、それを食べた。


 実は甘酸っぱくて、焼き菓子は少しだけ湿気っていた。それでも、おいしかった。


 食べ終えると、急に瞼が重くなった。


 樹の幹にもたれて、ノアは目を閉じた。水が昇っていく音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。



 *



 目が覚めたとき、時計は〈24:10:52〉を指していた。


 ノアは大きく伸びをした。背中が少し痛い。でも、頭はすっきりしていた。


 根元から見上げると、枝の隙間から、柔らかな光が降ってくる。


 海。巨人の歌。お菓子の壁。一年が巡る庭。首の長い生き物。この大きな樹。


 ここに来てから、いったいいくつの「知らないもの」を見たんだろう。


 指を折ってみようとして、ノアはふと手を止めた。


 ――ボクは、何がしたいんだろう。


 その問いは、なんの前触れもなく浮かんできた。


 列車で目を覚ましてから、ずっと何かを見てきた。何かに触って、食べて、聴いてきた。


 でも、それは何のためなんだろう。


 ボクは何がしたくて、ここにいるんだろう。


 ボクには、何ができるんだろう。


 答えを探して、胸の中をのぞき込む。


 何も見つからなかった。


 白い回廊みたいに、どこまでものっぺりと続いているだけだ。


「……分かんないや」


 小さく呟いて、膝を抱える。


 分からないのは、少しだけ心細かった。


 そのとき、視界の端で、何かがきらりと光った。


 樹の根の隙間。そこに、細い通路が口を開けていた。奥から、虫の羽音のような、澄んだ音がかすかに響いてくる。


 ノアは顔を上げた。


 膝を抱えていた腕は、もうほどけていた。


 立ち上がって、根の隙間に体を滑り込ませる。


 さっきの問いは、樹の根元に置いてきてしまったみたいだった。



 *



 〈12:00:00〉


 数字がそろったのを見て、ノアは足を止めた。


 残り、十二時間。


 そろそろ、戻らないといけない。


 根の隙間の先にあったのは、羽根の生えた小さな光の粒が、壁一面にとまっている部屋だった。ノアが近づくと、粒はいっせいに飛び立って、部屋じゅうを星空みたいに埋め尽くした。


 あの部屋も、もう少し見ていたかった。でも。


「帰ろう」


 十二時間あれば、大丈夫だ。来た道を、そのまま戻ればいい。


 ノアは踵を返した。


 根の隙間を抜けて、大きな樹の広間へ。そこまでは迷わなかった。


 広間からは、六本の通路が出ていた。


 どれから入ってきたんだっけ。


 首の長い生き物を見た通路は――たしか、右から二番目。いや、三番目だったかもしれない。


 ノアは二番目の通路に入った。


 しばらく歩くと、分かれ道があった。見覚えがある、気がする。左に曲がった、気がする。


 左へ。


 白い回廊。白い回廊。分かれ道。また白い回廊。


 どこも、よく似ていた。


 最初は気にならなかった。似ていても、どこかに覚えのある目印があるはずだ。渦の模様。柱の広間。下り坂。


 ノアは壁に目を凝らした。床の傾きを、足の裏で確かめた。天井の高さを見比べた。


 間違っていると気づいたら、引き返す。分岐まで戻って、別の道を選ぶ。


 ちゃんと考えている。ちゃんと戻っている。


 それなのに。


 〈08:03:41〉


 同じ柱の広間を、二度通った気がした。違う広間だったのかもしれない。それすら、もう分からない。


 海の扉は、どこにも見当たらなかった。お菓子の広間も、季節の庭も。


 ノアは立ち止まって、来た道を振り返った。


 白い回廊が、静かに伸びている。


 前を見る。


 白い回廊が、静かに伸びている。


 迷路が意地悪をしているわけじゃない。壁が動いたわけでも、道が入れ替わったわけでもない。


 ただ、ノアが――覚えていなかったのだ。


 あんなにたくさん曲がって、あんなにたくさん寄り道をして。そのひとつひとつを、ちゃんと覚えておけるはずがなかった。


「……迷った」


 声に出すと、白い壁が、その言葉を静かに吸い込んだ。



 *



 歩いた。


 考えた。


 また歩いた。


 高いところから見下ろせば、と思って、階段を見つけるたびに上った。上った先にも、白い壁の迷路が、果てまで広がっているだけだった。


 片手を壁について、ひとつの壁に沿って歩き続ける方法も試した。何時間か歩いて、その壁がどこまでも途切れずに続いていることに気づいて、やめた。


 時計を開く。


 〈05:00:12〉


 残り、五時間。


 喉が、からからに渇いていた。


 ――間に合わないかもしれない。


 その考えが、はっきりとした形で、胸の中に落ちてきた。


 さっきまで、時計の数字は「まだここにいられる時間」だった。あと何時間、歩き回れるか。あといくつ、知らないものを見られるか。そういう数字だった。


 今は違う。


 減っていく数字は、そのまま、列車に戻るために残された時間だった。


 ノアは走り出した。


 分岐。右。違う。戻る。左。行き止まり。戻る。


 焦って選んだ道は、ことごとく外れた。息が上がる。膝が笑う。足の裏が、じんじんと熱い。


 走るのをやめて、壁にもたれた。


 背中が、ずるずると壁を滑り落ちていく。白い石の床に、そのまま座り込んだ。


 〈03:00:00〉


 数字が、またそろった。


 残り、三時間。



 *



 ノアは、膝の上の時計をじっと見ていた。


 どうして、こんなことになったんだろう。


 来た道を、覚えていなかったから。


 どうして、覚えていなかったんだろう。


 寄り道ばかりしていたから。


 ――どうして、寄り道ばかりしたんだろう。


 ノアは目を閉じた。


 最初の分岐で、右を選んだ。風が吹いてくる気がしたから。


 下り坂を下りた。その先が見たかったから。


 水の音を追いかけた。その音の正体が知りたかったから。


 海の扉を開けた。お菓子の壁を齧った。一年が巡る庭で、雪が解けるまで立っていた。巨人の歌に耳を澄ませた。首の長い生き物を、見えなくなるまで見送った。大きな樹の根元で眠って、起きたら、根の隙間の通路に飛び込んでいた。


 誰かに、そうしろと言われたわけじゃない。


 車掌さんは、時間に気をつけて、としか言わなかった。


 全部、自分で選んだ。


 何度選んでも、ノアは同じ方を選んでいた。


 知らない方。


 まだ見たことのない方。


 ――ああ、そうか。


 大きな樹の根元で、自分に問いかけたとき。胸の中には、何も見つからなかった。


 でも、本当は。


 答えなら、ずっと足が知っていたのだ。


「ボクは」


 声が、少しかすれた。


「ボクは、まだ知らないものを、自分の目で見たいんだ」


 言葉にしてみると、拍子抜けするほど簡単だった。


 自分に何ができるのかは、まだ分からない。


 でも、何をしたいのかだけは、分かった。


 たったひとつ。


 それだけのことが、胸の真ん中に、すとんと落ち着いた。


 できるかどうか分からないなら――やってみればいい。


 ノアは顔を上げた。


 白い回廊は、何も変わっていなかった。


 壁は動かない。道は開かない。どこからも光は差さないし、誰の声も聞こえない。


 迷路は、さっきまでと同じ顔をして、そこに広がっていた。


 変わったのは、たぶん、ノアの方だけだった。



 *



 ノアは立ち上がった。


 次の分岐の前で、足を止める。


 右と、左。


 さっきまでなら、ここで立ち尽くしていた。どっちだったか思い出せなくて、どっちを選んでも間違っている気がして。


 でも今は、迷うのをやめて、ただ見た。


 右の通路の床が、ほんのわずかに上っている。


 ――下り坂を、下りてきた。


 来たときは、たしかに下ったのだ。だったら、帰りは上るはずだ。


 右へ。


 しばらく行くと、壁に、細い溝が刻まれていた。指でなぞる。溝は渦を巻いて、壁の向こうへ消えている。


 見たことがある。


 あのときは、この渦を追いかけて、奥へ進んだ。だから今は、逆へ。


 次の分岐では、片方の通路から、かすかに甘い匂いがした。


 ――甘い匂いと、水の音。どっちも気になって、水の方を選んだ。


 だから、甘い匂いの通路でも、水の音の通路でもない。最初に来た、三本目の方。


 意識して覚えたわけじゃない。地図なんて、頭のどこにもない。


 でも、壁の小さな欠け。天井の高さが変わる場所。足音の響き方。曲がり角の角度。何歩歩いたら次の分岐が来たか。肌に触れる空気の、わずかな湿り気。


 夢中で歩いていたあいだに、体のどこかが、ちゃんと拾っていたのだ。


 さっきまでは、それが「どっちへ行けばいいんだろう」という迷いの下に埋もれて、聞こえなかった。


 今は、少しだけ聞こえる。


 全部が分かるわけじゃない。ときどき立ち止まって、確かめる。一度は行き止まりにぶつかって、引き返した。


 それでも、足が、前より迷わなくなっていた。


 考えるより先に、足が出る。


 その足について、ノアは歩いた。



 *



 〈01:12:40〉


 柱の広間を抜けた。


 〈00:41:03〉


 あの下り坂を――今は上り坂を、駆け上がった。


 足が重い。息が苦しい。胸の奥が、焼けるように熱い。


 〈00:15:22〉


 見覚えのある、三つ叉の分かれ道。


 最初に、ここで右を選んだ。


 だから――ここを抜ければ。


 ノアは、最後の角を曲がった。


 まっすぐな回廊の、ずっと先。


 白い光の中に、黒い車体が、静かに横たわっていた。


 列車だ。


 〈00:02:58〉


 遠い。


 思っていたより、ずっと遠い。


 ノアは走った。


 足がもつれる。転びそうになる。床に手をついて、また走る。


 〈00:01:30〉


 壁が後ろへ流れていく。自分の足音と、心臓の音と、荒い呼吸。それしか聞こえない。


 〈00:00:40〉


 列車の扉が、開いたまま待っている。


 〈00:00:20〉


 あと少し。


 〈00:00:10〉


 あと――


 ノアは、扉の中へ飛び込んだ。


 膝から床に崩れ落ちる。木の床に手をついて、肩で息をする。


 握りしめていた時計を、震える指で開いた。


 〈00:00:06〉



 *



「おかえりなさい」


 頭の上から、落ち着いた声が降ってきた。


 見上げると、車掌が立っていた。列車を降りたときと、何ひとつ変わらない顔で。


「……ただいま、です」


 声がかすれて、うまく出なかった。


「ずいぶん、遠くまで行かれたようですね」


「うん……すごく、広かった」


 ノアは床に座り込んだまま、まだ整わない息で言った。


「海があったんだ。扉を開けたら、水が壁みたいに立ってて、家くらいある魚がこっちを見てた。それから、お菓子でできた部屋。壁をちょっと齧ったら、すごくおいしくて。それから――」


 そこで、息が続かなくなった。


 話したいことが、多すぎる。どれから話せばいいのか、もう分からない。


 車掌は急かさずに、ノアの息が整うのを待っていた。


「……それから、まだ、いっぱいあった」


 車掌は小さく頷いた。


「それは、よい停車でしたね」


 それから、手を差し出した。ノアはその手に掴まって、立ち上がった。


「お疲れでしょう。次の停車まで、まだ時間があります。ゆっくり休んでください」


 車掌はそれだけ言って、いつものように通路を歩いていった。


 ノアは座席に腰を下ろした。


 窓の向こうで、白い迷路が、ゆっくりと遠ざかり始めていた。


 どこまでも続く回廊。あの中に、まだ開けていない扉が、いくつも、いくつもあったはずだ。


 少しだけ、もったいなかった。


 ノアは窓に額を寄せた。ガラスが、ひんやりと冷たかった。


 やがて、窓の外の景色が、またページをめくるように変わり始めた。


 見たことのない色が、少しずつ、ガラスの向こうに滲んでくる。


 ――次は、どんな世界だろう。



(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。