二人だけの夜
兵舎を出た頃には、すでに日が沈みかけていた。
「城に戻りますか」
レオンが尋ねたが、ユリアンは首を振った。
「もう少しだけ、歩きたい」
理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、今日一日で聞いた声の数々が、まだ胸のどこかで温かく残っていて、すぐに部屋に戻って一人になるのが、少しだけ惜しかった。
夜の市場は、昼間とは違う顔を見せていた。灯りをともした屋台が並び、仕事終わりの職人たちが、立ち飲みの酒場で笑い声を上げている。
「あそこ、いい匂いがする」
ユリアンが指した先は、串焼きの屋台だった。煙とともに、香ばしい匂いが漂ってくる。
「お召し上がりに?」
「たまにはいいだろう」
懐から取り出した銅貨で、二本の串を買った。一本をレオンに差し出すと、彼は少し戸惑った様子を見せたが、結局、黙って受け取った。
石畳に腰掛け、二人並んで串を頬張る。行儀は良くないが、誰に見咎められる心配もない。ただの通行人として、この時間だけは扱われていた。
「美味いな」
「……そうですね」
肉の脂と、塩気の効いたたれ。前世の記憶にある、コンビニの焼き鳥とはまた違う、素朴な味だった。
しばらく、二人は無言で串を食べ進めた。夜風が、ゆっくりと通り過ぎていく。
「なあ、レオン」
「なんでしょう」
「もし俺が、王子じゃなかったら、何をしてたと思う?」
唐突な問いに、レオンは少し目を見開いた。
「考えたことも、ありませんが」
「まあ、そうだよな」
ユリアンは、串の先をもてあそびながら、夜空を見上げた。
「前世じゃ、俺、ただの営業マンだったんだ。毎日満員電車に乗って、頭下げて、契約取って」
「……営業、マン」
聞き慣れない言葉に、レオンが首を傾げる。
「まあ、物を売る仕事だ。王子でもなければ、英雄でもない。ただの、どこにでもいる男だった」
「それは、今よりも気楽だったのでは」
「かもな。でも」
ユリアンは、少し笑った。
「今の方が、悪くないと思ってる。少なくとも、今は――誰かのために、何かをやろうとしてる」
「レオン、お前は?」
「私、ですか」
「もし騎士じゃなかったら、何をしてたと思う」
レオンは、しばらく黙り込んだ。串の残りを見つめたまま、答えを探しているようだった。
「……考えたことが、ありません」
「一度もか?」
「物心ついた頃には、剣を握っていました。騎士以外の自分を、想像したことがないのです」
その言葉には、どこか寂しさが滲んでいた。ユリアンは、それ以上、踏み込まなかった。
「そうか」
代わりに、少しだけ話を変えた。
「じゃあ、今からでも考えてみないか。もし、王子と騎士じゃなかったら――ただの、一人の男同士だったら」
「妙な、たとえですね」
「いいから」
ユリアンは、隣に座るレオンの横顔を見た。夜の灯りに照らされたその顔は、いつもより、少しだけ柔らかく見えた。
「俺は――多分、お前とは、友達になれてたと思う。身分も何もなく、ただ会ったら」
レオンは、答えなかった。だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。
しばらくして、ぽつりと、呟くような声が返ってきた。
「……悪くはない、ですね」
その一言に、ユリアンの胸が、静かに熱を持った。
二人はそれから、しばらくの間、言葉少なに夜の街を歩いた。政務でも、演説でもない、ただの時間。
肩が触れそうなほど近くを歩きながら、ユリアンは、この距離が、いつからか心地よくなっていることに気づいていた。
城へ戻る道すがら、レオンがふと足を止めた。
「殿下」
「なんだ」
「今日のような時間は――悪くありません」
それだけ言うと、レオンは、また前を向いて歩き出した。ユリアンは、その背中を追いながら、小さく笑った。
夜空には、星が瞬いていた。明日からまた、王子と近衛騎士に戻る。だが今この瞬間だけは、確かに、二人だけの時間だった。




