聞きに行く
翌朝、ユリアンは机の上に広げたままの原稿を、すべて片付けた。
代わりに手にしたのは、一冊の何も書かれていない帳面だった。
「レオン。街に出る」
「演説の準備は、よろしいのですか」
「今日は、書かない。聞くだけだ」
レオンは、少し意外そうな顔をしたが、何も言わずに外套を用意した。
城下の市場は、朝から活気にあふれていた。野菜、干し肉、焼きたてのパン。売り子の声と、値切る客の声が入り混じっている。
王子とは分からぬよう、簡素な外套を羽織っただけのユリアンは、初めて、この喧騒の中に紛れ込んだ。
「兄ちゃん、そこの惣菜、買ってくかい」
声をかけてきたのは、店先に座る一人の老婆だった。年の頃は六十過ぎ、日に焼けた顔に、皺が深く刻まれている。
「グレタさんは、この市場の主みたいな人ですよ」
隣に来たレオンが、小声で教えてくれた。どうやら顔なじみらしい。
「一つもらおう」
ユリアンが銅貨を差し出すと、グレタは煮込みを木皿によそいながら、じろりと視線を寄越した。
「あんた、見ない顔だね」
「今日から、市場に来ることにした」
「ふうん」
興味なさそうに頷いたグレタは、ふと手を止め、目を細めた。
「……もしかして、あんた、あの王子様かい。演説がどうとかいう」
隠すつもりはなかった。ユリアンは、素直に頷いた。
「よく分かったな」
「分かるさ。この間の演説、聞いてたからね。二度目のやつは、さっぱり分からなかったけど」
歯に衣着せぬ言い方に、ユリアンは思わず苦笑した。
「正直に言ってくれて助かる」
「王子様だろうが、腹は減るだろう。座りな」
グレタは、店先の木箱を指した。ユリアンは、言われるまま腰を下ろした。
「なあ、婆さん。一つ聞きたいんだが」
「なんだい」
「あんたたちが、本当に困ってることは、何だ」
グレタは、しばらくユリアンを見つめたあと、ふんと鼻を鳴らした。
「そんな大層な質問、あたしにゃ分からないよ」
「……そうか」
「でもね」
グレタは、煮込みの鍋をかき混ぜながら、話を続けた。
「毎朝、仕入れの荷馬車が来るのが遅いのさ。門の検問が、朝一番は特に混むからね。おかげで、新鮮な肉が届く頃には、いい時間帯の客はもう帰っちまってる」
「検問……」
「大した話じゃないよ。でも、あたしらにとっちゃ、毎日のことさ」
ユリアンは、帳面を取り出し、その言葉を書き留めた。門の検問、朝の混雑、仕入れの遅れ。
パラダイムシフトでも、成長戦略でもない。誰かの、たった一つの朝の困りごと。
「そういう話が、聞きたかったんだ」
「変わった王子様だね」
グレタは、そう言って笑った。皺の奥にある目が、少しだけ和らいでいた。
市場を出たあと、兵舎の方へ足を延ばした。ここでも、ユリアンは同じように、兵士たちの声に耳を傾けた。装備の古さ、休暇の少なさ、給金の遅れ。大きな話ではない。だが、誰かの毎日を作っている、確かな声だった。
夕暮れ、城への帰り道で、レオンが口を開いた。
「今日は、一言も演説の練習をされませんでしたね」
「ああ」
「それで、よろしいのですか」
ユリアンは、帳面を軽く叩いた。
「言葉を作る前に、聞くことが先だった。それが、分かった気がする」
「勝つための言葉ではなく、ですか」
「そうだ」
ユリアンは、帳面に書き留めた一つひとつの言葉を、思い返していた。
「届く言葉ってのは、多分、こういうところから生まれるんだろうな」
レオンは、それに何も答えなかった。だが、その横顔に、これまでよりわずかに柔らかい色が浮かんでいる気がした。




