これからの俺を見ていてくれ
演説の儀まで、あと三週間。
第2王子には騎士団が、第3王子には財務官僚が、第4王子には教会が付いている。困ったときに相談できる相手も、動いてくれる手足も、すでに揃っている。
(俺には、誰もいない)
これまで誰からも頼られず、誰にも頼ってこなかった第1王子には、指南してくれる者どころか、まともに口を利いてくれる相手さえ、ほとんどいなかった。
だったら、何をすればいいのかは、自分で考えるしかない。
ユリアンは、まず城内を歩くことから始めることにした。何から手を付けるべきか、正直なところまだ何も分かっていなかったからだ。せめて、自分の足で見て、自分の頭で考えようと思った。
だが、歩き始めてすぐに、思い知らされることになった。
廊下の角を曲がると、若い侍女が、盆を持ったまま体を固くした。
「あ……失礼、いたします」
早口でそう言うと、逃げるように壁際へ寄り、頭を下げたまま動かなくなった。
(俺が、そんなに怖いのか)
ユリアンは、何も言わずにその横を通り過ぎた。だが、胸の奥がざわついた。
書庫の前では、書記官のひとりと目が合った。以前――といっても、ユリアン自身は覚えていない過去の話だ――何かの報告の際に、厳しく叱責したことがあるらしい。男は会釈だけすると、そそくさと別の廊下へ姿を消した。
(俺は、覚えていない)
前世の記憶が流れ込んできたあの日から、ユリアンの中で、暴君だった頃の自分は、どこか他人事のように感じられていた。
けれど、違う。
(俺は覚えていなくても――こいつらは、覚えてる)
その事実が、想像していたよりずっと重く、胸に刺さった。
夕刻、鍛錬場の脇を通りかかったとき、レオンが剣の手入れをしているのが見えた。
呼び止めるつもりはなかった。だが、柄を握るレオンの左手の甲に、古い傷跡があるのに気づいて、足が止まった。
一本の、まっすぐな線。まだ新しくはないが、深く残った傷だった。
「レオン。その手の傷は」
レオンは、手を止めた。
「……何でもありません」
「教えてくれ」
しばらくの沈黙のあと、レオンは静かに答えた。
「二年前、殿下の剣の稽古の相手をしていた際、殿下が癇癪を起こされて。木剣とはいえ、当たり所が悪かったようです」
ユリアンは、言葉を失った。
自分が、この男を傷つけた。それも、稽古相手として傍にいてくれた人間を。
「……悪かった」
「今さら、謝られても」
レオンの声には、相変わらず温度がなかった。だが、その言葉に、ユリアンは頷くしかなかった。
「そうだな。謝って済む話じゃない」
剣を鞘に収めながら、レオンが小さく息をついた。
「なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか」
ユリアンは、少し考えてから答えた。
「知っておきたかった。俺が、これまで何をしてきたのか」
「今さら、ですか」
「ああ。今さらだ」
夕暮れの鍛錬場に、しばらく沈黙が落ちた。ユリアンは、レオンの隣に立ち、同じ方向――沈みかけた太陽を見つめた。
「レオン。一つだけ、言っておきたいことがある」
「なんでしょう」
「今までの俺を、信じろとは言わない」
ユリアンは、まっすぐにレオンを見た。
「お前が受けてきたこと、他の人間が受けてきたこと、それを一晩で帳消しにできるとは思っていない」
レオンは、無言だった。
「だから――これからの俺を、見ていてくれ」
言葉にしてしまうと、ひどく頼りない願いだと自分でも思った。信じてくれとさえ、言えなかった。
レオンは、しばらくユリアンを見つめたあと、静かに口を開いた。
「見ているだけなら、命令されずともできます」
それは、肯定でも否定でもない、レオンらしい返事だった。だが、拒絶ではなかった。
「……それで十分だ」
ユリアンは、小さく笑った。前世を含めても、久しぶりに浮かべた、作り物ではない笑みだった。
その夜、ユリアンは自室の机に向かい、白紙に向き合った。
(何から始めればいい)
答えはまだない。だが、少なくとも一つ、決めたことがあった。
言葉だけで、誰かを傷つけてきたのなら。
今度は、言葉で、何かを取り戻す。
窓の外では、月が静かに城を照らしていた。演説の儀まで、あと三週間。




