潜入捜査
市場での一件から、二日後の夜。
レオンは、集めた情報を、すべてユリアンの前に並べていた。
「あの司教の別邸に、不審な出入りがあるという情報を掴みました。リンデン地方の反乱にも、その別邸から人が動いていた形跡があります」
「証拠は」
「まだ、状況証拠のみです。ですが、単独で忍び込めば、決定的なものを掴める可能性があります」
「単独で、だと?」
ユリアンは、思わず声を上げた。
「危険すぎる。相手は、王を病に伏せさせ、内乱まで仕組んだかもしれない連中だ」
「だからこそ、今、動かなければなりません。演説の儀まで、あと七日です」
「駄目だ」
ユリアンは、はっきりと言い切った。
「他の方法を探す。お前を、危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「殿下」
レオンの声が、初めて、強い硬さを帯びた。
「今、動けるのは、私しかいません。文官では踏み込めない場所です。時間もない」
「それでも、駄目だ」
「殿下」
レオンは、一歩、前に出た。
「行くな」
ユリアンは、思わず、命令の形で、言葉を発していた。
部屋の空気が、凍りついた。レオンは、しばらく、無言でユリアンを見つめていた。
「……それは、命令ですか」
静かな、しかし、これまでにない緊張を孕んだ声だった。
ユリアンは、一瞬、答えに詰まった。命令という言葉の重さが、自分の口から出た瞬間、初めて、実感として襲ってきた。
「……そうだ」
短く、そう答えた。
レオンは、目を伏せた。長い沈黙のあと、静かに、口を開いた。
「では、初めて、命令に背きます」
「レオン」
「殿下は、以前、仰いました。"王が間違えたとき、止めてくれる人間が必要だ"と」
その言葉に、ユリアンは、息を呑んだ。確かに、そう口にしたことがあった。あれは、レオンに対する、信頼の言葉のつもりだった。
「あの言葉を、私は、ずっと胸に置いてきました。だからこそ――今、殿下が間違った命令を下すのなら、私は、それを止めます」
「これは、間違った命令じゃない。お前の身を案じてるだけだ」
「殿下の身を、案じているのは、私も同じです」
レオンの声が、わずかに、震えた。
「殿下一人を、危険の中に立たせて、私だけが安全な場所にいる――そんなことは、できません」
「レオン、待て」
「……一つだけ、申し上げておきます」
レオンは、扉に手をかけたまま、振り返らずに続けた。
「私が、こんなにも頑なになるのは、忠義だけでは、ありません。それだけは、分かっていてください」
「レオン、それは――」
「失礼します」
その一言を残し、レオンは、深く一礼すると、踵を返した。呼び止める言葉を、ユリアンは、最後まで見つけられなかった。
扉が閉まる音が、部屋に、重く響いた。
ユリアンは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
(初めて、命令に背かれた)
怒りは、なかった。ただ、胸の奥に、これまで感じたことのない、鋭い不安が広がっていた。
レオンの言葉が、頭の中で、何度も繰り返されていた。
"王が間違えたとき、止めてくれる人間が必要だ"
自分が語った言葉が、今、こうして自分自身に返ってくるとは、思ってもみなかった。
それに――「忠義だけではない」というあの一言が、ずっと、耳の奥に残っていた。今は、その意味を、深く考えている余裕はなかった。
「……頼む。無事で、戻ってきてくれ」
誰もいない部屋で、そう呟いたあと、ユリアンは、すぐに我に返った。このまま、ただ待っているわけにはいかない。
「誰か!」
呼びかけに応じて、腹心の従者が、姿を見せた。
「レオンには、気づかれないよう、遠くから、姿を追わせてくれ。何かあれば、すぐに知らせるように」
「かしこまりました」
命令に背かれたのなら、せめて、陰から、その身を守る。それが、今の自分にできる、精一杯のことだった。
夜の闇に、レオンの姿は、すでに溶け込んでいた。司教の別邸へと向かうその足取りに、迷いは、なかった。その後ろ姿を、密かに、もう一つの影が追っていた。




