個人の善意の先に
五度目の演説の儀、当日。
壇上に上がる直前、ユリアンは、広場の隅に、見覚えのある顔を見つけた。数日前、貧民街でジークフリートに声をかけていた、あの司教だった。
司教は、ジークフリートに近づき、何事か囁いていた。距離があり、内容までは聞こえない。だが、ジークフリートが頷く様子から、指示めいたやり取りであることは、察せられた。
(あの司教……今日も、来ているのか)
胸の奥に、小さな警戒が灯った。だが、今は、それより先にやるべきことがあった。
ユリアンは、壇上に立った。
「先日、貧民街を訪ねました。ジークフリートが、子供たちのために絵本を読み、孤児院を支えている姿を、この目で見ました」
意外な出だしに、広場がざわついた。ジークフリートを、名指しで称賛するとは、誰も思っていなかった。
「あれは、本物です。演技でも、計算でもない。あの善意に、私は、素直に頭が下がりました」
一拍おいて、ユリアンは続けた。
「ですが――一つ、申し上げたいことがあります」
「ジークフリートの善意は、彼一人の力です。彼がいなくなれば、あの孤児院は、誰が支えるのでしょうか。彼の財が尽きれば、その先は、どうなるのでしょうか」
広場が、静まり返った。
「個人の善意は、尊いものです。ですが、それだけでは、この国のすべての子供を、救うことはできません」
ユリアンは、声を強めた。
「私は、今日、提案します。孤児院への支援を、王子個人の財ではなく、国庫からの恒久的な予算として、制度化します」
「財源は、毎年の貴族税の一部を、社会福祉費として明確に区分し、確保します。これにより、誰か一人の善意に頼らずとも、この国の子供たちを、支え続けることができます」
「教育を受けられなかった子供に、基礎教育の場を。仕事を失った家庭に、職を紹介する仕組みを。これは、一人の王子の心がけではなく、国の仕組みとして、根付かせるべきものです」
ユリアンは、広場を見渡した。
「ジークフリートの善意を、私は否定しません。むしろ、それを、一人の力で終わらせないために――仕組みとして、この国に残したい」
拍手が、広場に広がっていった。教会関係者の何人かは、複雑な表情を浮かべていたが、民衆の反応は、明らかに温かかった。
壇を降りたユリアンに、ジークフリートが歩み寄ってきた。
「兄上……ありがとうございます。俺の力だけでは、いずれ限界が来ると、薄々、感じてはいたんです」
「お前の善意があったから、俺も、その先を考えられた。礼を言うのは、俺の方だ」
ジークフリートは、少し照れたように笑った。だが、その笑顔の端に、わずかな翳りが見えた気がした。
一方、広場の隅では、あの司教が、苦い顔で、ジークフリートを呼び止めていた。
「殿下。先ほどの兄君の発言――少々、出過ぎた真似では」
「兄上は、正しいことを仰っていただけです」
「殿下は、そのお優しいお心のままで、よろしいのです。政治向きのことは、我々にお任せください」
その言葉に、ユリアンは、少し離れた場所から、鋭く反応した。
「――ずいぶん、はっきり仰いますね」
ユリアンが割って入ると、司教は、一瞬、表情を硬くした。だが、すぐに、穏やかな笑みを取り繕った。
「これは、失礼。殿下方の仲睦まじいご様子に、つい、口を挟んでしまいました」
そう言って、司教は、静かに去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ユリアンの中で、警戒心が、一段と強くなった。
「レオン」
「はい」
「あの司教のことを、少し調べてくれ」
「かしこまりました」
夕暮れの広場に、まだ、拍手の余韻が残っていた。だが、ユリアンの胸には、静かな不穏の影が、確かに広がり始めていた。




