聖人のような弟
五度目の演説の儀を控え、ユリアンは、教会と民衆の支持基盤について、自分の目で確かめておきたいと思っていた。
向かった先は、城下の外れにある貧民街だった。以前、馬車の窓越しに見た光景が、ずっと頭に残っていた。
「レオン。今日は、変装なしで行く」
「よろしいのですか」
「隠れて見るより、正面から見た方がいい」
貧民街に足を踏み入れると、粗末な家々が、隙間なく立ち並んでいた。だが、ユリアンが予想していたよりも、その空気は、殺伐としていなかった。
「あ、ジークフリート様だ!」
子供たちの声が、路地の奥から聞こえてきた。声のする方へ向かうと、そこには、粗末な服を着た子供たちに囲まれた、第4王子ジークフリートの姿があった。
「今日は、何して遊ぶ?」
「本を読んで!」
「わかった、わかった」
護衛もほとんど連れず、ジークフリートは、地べたに座り込み、子供たちに絵本を読み聞かせていた。その姿には、演説の場で見せる作り物めいた愛想の良さとは、明らかに違う、自然な柔らかさがあった。
ユリアンに気づくと、ジークフリートは、少し驚いた顔をした。
「兄上? こんなところに、珍しいですね」
「お前こそ、いつもここに?」
「週に二度ほど。子供たちが、待っていてくれるので」
近くにいた老年の女性が、通りすがりにユリアンへ会釈した。
「ジークフリート様には、いつも助けていただいております。あそこの孤児院の建て替えも、殿下のお力で」
「私財を使っているそうだな」
「たいした額では、ありません」
ジークフリートは、少し照れたように笑った。
「困っている人が、目の前にいる。それだけのことです」
その言葉に、嘘は感じられなかった。演出でも、票集めでもない。この男は、本当に、心の底から、この場所を大切に思っている。
(こいつ……普通に、王に向いてないか?)
ユリアンは、思わずそう考えてしまうほどだった。
だが――ふと、一つの違和感が、頭をよぎった。
子供たちと別れたあと、ジークフリートは、少し離れた場所で待っていた身なりの良い男に、声をかけられていた。
「殿下。本日の視察、素晴らしいお心がけです。孤児院の件、私どもの方でも、うまく取り計らいますので」
「ありがとうございます、司教様」
ジークフリートは、素直に頭を下げた。だが、その司教の目には、どこか、値踏みするような光があった。
「政治向きのことは、我々にお任せください。殿下は、そのお優しさのままで、いてくだされば」
「はい、いつもありがとうございます」
そのやり取りを、少し離れた場所から見ていたユリアンは、静かに眉をひそめた。
(お任せください、か)
言葉自体は、丁寧だった。だが、そこには、ジークフリートの善意を、都合よく使おうとする響きが、確かに滲んでいた。
「殿下は、政治のことは、あまり考えなくていい」――そう遠回しに囲い込まれているようにも、聞こえた。
帰り道、レオンが静かに口を開いた。
「ジークフリート殿下は、お人が良すぎますね」
「……ああ」
ユリアンは、頷いた。
「あれは、演技じゃない。本物だ。だからこそ、危うい」
「危うい、とは」
「あの善良さを、利用しようとする人間が、必ず出てくる。もう、出てきているのかもしれない」
司教の目に浮かんでいた、あの値踏みするような光を思い出す。ユリアンの胸に、かすかな不安が広がった。
(あいつは、敵じゃない。でも――だからこそ、気をつけないといけない相手かもしれない)
夕暮れの道を歩きながら、ユリアンは、これまでとは違う種類の警戒心を、静かに抱き始めていた。




