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「ただいま」を聞いた気がした

 兄さんのことを思うと、胸の奥にうまく名前のつかない空気がたまる。

 嫌いとか寂しいとか大好きだとか、そういう単純な感情とはちょっと違う。

 いつも少しだけ距離があって。

 その距離が、妙に歯がゆく感じられて。

 ずっと兄さんのことがよく分からないまま置いてけぼりにされてしまったような、そんな感じ。


 兄さんは昔から、家にいるのかいないのか分からない人だった。

 朝起きるともういないし、夜帰るともう部屋にいる。

 一緒に食卓を囲むこともほとんどない。

 私はいつも、閉まったドアの前を通り過ぎるだけだった。



 でも、あれは兄さんだったんじゃないかっていう思い出みたいなものはやけに多い。


 小学生の頃、泣きながら帰った日。

 大事にしていたヘアピンを落としてしまって、どこを探しても見つからなかった。

 ところが翌朝、ヘアピンは郵便受けに入っていた。

 新聞と一緒に取り出した母さんは「誰かが届けてくれたのね」と言っていたけれど。


 中学のとき、帰り道で転んで膝をすりむいた。

 ひとまずシャワーで洗って部屋に戻ると、絆創膏が1枚、机の上に置いてあった。

 夕飯の支度を手伝いながら母さんにお礼を言ったら、「そんなの置いてないわよ」と首をかしげられた。

 言われてみれば、確かに母さんはずっと台所にいたような……?



 となると。

 兄さん以外誰がいるかな。

 父さんはけっこう帰りが遅いし、夜道でヘアピンを見つけるのは難しい。

 絆創膏だって、あのとき父さんまだ帰ってきてなかったし。


 兄さんは無口でぶっきらぼうで不器用で、気遣いが雑だ。

 本当は優しいくせに、優しいと言われるのが嫌いで。

 でも妙にタイミングがよくて。

 雑な気遣いほど後になって胸に残るものなのかな。



 高校に入ってからは、兄さんの姿は一度も見ていない。

 グレーの、爪先が少し黒ずんでいるスニーカーしか、兄さんを示すものはないみたいで。

 靴って、持ち主の姿が見えないと、何だか「残されたもの」みたいで。


 今朝も、学校へ行こうと部屋を出て、兄さんの部屋の前を通った。

 いつも通り静かで、やっぱり何の気配もない。


 階段を降りていると、ふと涙が落ちた。

 理由は分からない。


 玄関で靴を履こうとして、ふと横を見た。

 そこにはスニーカーがあった。

 かかとがつぶれて、紐が片方だけゆるんでいる。

 グレーの、少し汚れた見慣れたやつ。


「……何だ。帰ってきてたんだ」


 私は涙を制服の袖で拭い、靴紐を結び直し、玄関のドアを開けて学校へと向かった。

みずがめ座って変わり者ではあるけどむっちゃ仲間思い

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