乾いた世界に落ちた滴
砂漠の朝は、夜の冷たさを一瞬だけ残す。
だが、太陽が昇れば、世界はすぐ熱に満たされる。
地平線は揺れ、砂は光を跳ね返し、世界は乾ききった音を立てる。
町を出て少し歩いた所のまだ比較的長い木陰に座り、彼は膝の上に描き途中の水彩画を広げていた。
恋人の絵だ。
最後に見た彼女の表情を描こうと、何度も何度も筆を重ねていた。
彼はこの砂漠の町で生まれ、暮らしてきた。
乾いた風も、砂の匂いも、夕暮れの静けさも、すべて彼の「当たり前」だった。
ただ、同じ未来を描いていた彼女だけがいなくなった。
彼女が去っていった理由は分からない。
本人の意思で離れたのか、それとも誰かに心を奪われたのか。
疑問も怒りも悔しさも、全部ぐちゃぐちゃに混ざって胸に沈んでいる。
その絵には、ひとつだけ“うまくいかない部分”があった。
頬のグラデーション。
柔らかく色を重ねたいのに、紙が乾きすぎて、水が紙の乾きに追い付かず、色が途中で途切れてしまうのだ。
それでも描いていた。
この絵を完成させられたら、彼女はきっと戻ってくる。
自らの手で描き上げられたなら、かつての笑顔と共に。
何の根拠もなく願掛けをするかのように。
不可能はきっと可能になる……そんな淡い祈りにすがるかのように。
彼女がいなくなった頃だろうか。
いつもの隊商か、画材一式を安く売ってきたのは。
何となく眺めているうちに、気付いたら動物の毛でできた筆を手に取っていた。
……最後に見た彼女はどんな表情をしていたっけ……?
描きたいものも画材の使い方も分からないなりに、試行錯誤で手漉きの紙に向かった。
だが、砂漠では水彩画は生きない。
素焼きの絵皿に落とした水は、砂の粒を巻き込みながら濁る。
水はすぐに蒸発し、色は広がる前に砂のように固まる。
風が吹けば、細かい砂が絵の上に降る。
山羊皮の水袋から飲み水を絵皿に落とすたび、罪悪感が胸を刺す。
どうにも描けず、彼は筆を置き、乾いた風の中で目を閉じた。
そのときだった。
風がやんだ。
砂漠ではありえない静けさ。
ふと見上げると、空に雲がひとつだけ浮かんでいた。
白い……いや、ほんのり薄い灰色の、小さな雲。
まるで迷い込んだみたいに、ぽつんと。
ぽつ、と音がした。
砂の世界に落ちた雨の音は、世界のどんな音よりも静かだった。
その一滴は絵の“うまくいかない部分”に落ち、乾いた紙の上で広がり、彼が何度やってもできなかった柔らかな色の境界を作り出した。
にじんだ色を見つめていたら、彼の胸の奥で何かが溶解していった。
そして、怒りでも疑問でも悔しさでもないものが残った。
ずっと押し込めていた、もっと静かで、もっと深い感情。
――ああ、俺は悲しかったんだ。
彼は震える手で再び筆を取った。
陽が傾き、砂の色が金色から赤銅色に変わる頃、彼は絵を描き終えた。
乾いた世界に落ちた一滴の雨が、彼の世界を描き終えた。
うお座は水のないところで活きることがある




