第120話 ハコネの戦い(前編)
日が昇る。
だがそれは希望の朝の訪れなどではない。
その山の麓にいる国民団結局の職員にしてみれば、それは死の合図だった。
今日、自分たちの中の誰かが死ぬ。
……かもしれない。
勝つにしろ負けるにしろ、それは一定確率で起こることだったし――自分に対してその矛先が向くかもしれなかった。
「前進!」
その裏腹の暗い予感の中、号令に合わせて彼らを乗せた車両は土の上を走る。けたたましいエンジン音。掘り返されて緩くなっている土の上ではあるが、タイヤはまだ滑る気配がない。包囲陣形を取った彼らは、予定通りその環を小さくしていった。
「しかし」問題があるとすれば、それだ。「敵、どこ行ったんですかね」
職員支援車両の中で誰かが言った言葉にイカロスは一瞬目を向けるが、すぐに進行方向へ視線を戻す。彼にだって分からなかったからだ。昨日までは木が切り落とされて山肌が露わになっている辺りにも敵の姿があったが、今は見えない。応射もない。恐らくはその後方、木々がまだ残っている中にいるのだろうが、その証拠はない。
「逃げたんじゃあないんですか? ほら、誰かさんの言う通りちんたらしてるから」
皮肉っぽく言われても、イカロスは返事もしなければ反応もしなかった。彼ら下級職員はイカロスがこの車両に乗っている意味を知っていてそう言っているのだ。群主席職員が他の任務があるわけでもないのに副官の二中職を別の車両に乗せるというのは、事実上の更迭ということである。
しかし、そんなことは彼にとって重要ではなかった。
敵が逃げたなどということは、あり得ない。
逃げ道はないし、この状況で逃げる意味はないはずだ。それだけはない。しかし、だとすれば正面の第一線陣地を捨てた理由が分からない。確かにちょっとした植栽しかないそこは丸見えは丸見えだが、なら何故穴を掘った? ……この程度の障害は、スピードを上げれば通り抜けられてしまうのだが?
(スペックを知らないのか?)
一瞬イカロスはそうも考えた。が、それは考えづらい。連中には元職員もいるはずだ。そして彼らは現場で指揮を執っていたり、実際に戦っていたりするはずである……その穴を掘る担当の彼らがそれを熟知していないはずはない。
ならば、誤算があったということか? 先に塹壕を掘り、それから木を切ってしまった? それで丸裸になったから、陣地を捨てた?
……いやいや、それでは彼らが阿呆ということになる。大体、例の写真には、塹壕を掘っている様子はなかった。順序が違うのである。尤も、画角とかタイミングの問題かもしれないが……。
いずれにしても、つまり、何か狙いがあってのことのはずだ。
穴を掘る必要があった。
そしてそれは、塹壕としてそれを使う以外の理由があってそうしたのだ。
塹壕は偽装。本質は別にある――地面に何か用があった?
何かを、埋めた?
「――止まれ!」イカロスは叫びながら、運転席にしがみついた。「早く!」
「はい⁉」
「いいから!」
どうなっても知りませんよ――と言いながら、運転手はブレーキを踏んだ。扇状になった横隊に穴が開いて、無線の向こうの群主席職員と車長とが怒鳴りつけるが、知ったことではない。仮にこの判断が結果的に間違いだったとしたら、いくらでも処分を甘んじて受けよう。どのようなものでも――ただし、命があれば。
勘が外れてこの危機を生き残れたならば、の話である。
だがそのときであった。
車両がひっくり返ったのは。
「がっ……」
あるいは、それほどの衝撃が正面下部から伝わった。車両の前方が何かに乗り上げたように持ち上がって、その頂点で――重力と車両の重心のせめぎ合い――どうにか折り合いがついて、元いた方向に落ち着いていく。その上下運動に全員の肉体は翻弄され、地面に辿り着いた瞬間、シェイカーの中に入れられた氷のように車内のあちこちに叩きつけられた。
そして、沈黙――
あるいは気絶していたのだろう、とイカロスはぼんやりした視界と思考から感じた。耳もよく聞こえない。穴の中に水が入ったように、あるいは鋭い耳鳴りに隠されてしまっている。彼は床に手を突いてどうにか体を起こすと、砲塔バスケットに頭をぶつけた。それに苛立ちながらもそこに手を突いて上る。
そしてハッチを開ける――すると、ようやく、外界の姿が見えてくる。
「…………!」
目の前の地面にあったのは、酷く大きい穴だった。奥行は三メートル以上あったし、深さも同じぐらいあったことだろう。だが問題は幅だ。左右どちらを見渡しても、それは途切れてはいてもなくなることはなかった。
つまり、それは山肌というキャンバスに横一線に引かれた線であった。ただそのスケールが人間のそれではなかったということである。
何だこれは?
それは他の誰かならともかく、事前に危機感を持っていたイカロスには実に簡単な問いであった。
爆薬である――それも、大量に。
革命軍が地面を掘っていたのは、塹壕があるということに目を向けさせておいてから、その陰でこの罠を仕掛けるためだったのだ。そして自分たちはものの見事にそれに引っかかかった。そこら中で横転したり大破したりして撃破された車両から煙が上がっている。その後ろから、どうにか生存したらしい職員たちがのそのそ抜け出しては銃撃音の前に倒され――銃撃?
ッチュン、カンッ⁉
その激しい音にイカロスは思わず身を屈めた。ハッチ付近に銃弾が当たったと察するのにそう時間はかからなかった。というより、今までずっと撃たれていたのだけれど、その音がようやく聞こえるようになったという方が正しい。職員支援車両の分厚い装甲が自動小銃の致死的弾丸から彼を守っていただけだった。
今すぐ降りて、車両を動かさなければならない。
「クソ、全員降車! 起きろ!」
適当にそこいらに落ちていたライフルを拾い、車両後部へ。そこにいるまだ前後不覚の部下たちを起こしつつ後方ハッチを開ける。倒立したときに一時的に全重量がかかったせいか、力を掛けただけでそれは壊れてごとりと落ちた。欠陥品め。イカロスはそう悪態を吐きながら車両から飛び出すと、ちらりと影から顔を出して正面に銃撃した。が、その瞬間、数倍以上の反撃が飛んでくる。これでは埒が明かない。イカロスは車両後部に装備されている内外連絡用の受話器に手を伸ばした。
「おい、起きてるか⁉」
「あ……」車長の声。今目覚めたようだった。「……ウ?」
「三〇ミリだ! 三〇ミリを使え! 今すぐ!」
大声で怒鳴る。すると、受話器の向こうでごとごとという音がしたと同時に、けたたましく腹に響く砲声がぼぼぼぼと唸り始めた。砲塔に装備された三〇ミリ機関砲だ。自動小銃なんぞ目じゃない火力が敵に向かって投射される。自動小銃相手に毎分二〇〇発のペースで手榴弾を投げているようなものだ。遮蔽になる木はあっさり薙ぎ倒され、銃声は途切れる――尤も、大音量で聞こえなくなっているだけかもしれないが。
「走れ!」しかし好機だ。「穴に飛び込むんだ!」
イカロスはそのとき叫んで飛び出した。今頬を掠めたのはきっと銃弾だったろうが、暫時は気にならなかった。目的地までは二〇メートルかそこら。その距離を走り抜ける方が大切だった。弾丸が空気を切り裂く甲高い音の豪雨を濡れずに潜り抜け、イカロスはついに穴の中に滑り込んだ。
「よし……!」
振り返ると、多くの隊員たちがついてきていた。尤も、何人かは倒されてしまったようだったが……大した問題ではない。寧ろその生存者の内に銃を持っていない人間がいることが問題だった。きっと、車内に落としてきたのか、壊れてしまったのか。いずれにしてもよいことではない。
「これを」イカロスは一番近くにいた非武装の隊員に拾い物のライフルを手渡しつつ、自分は拳銃を抜いた。「――全員、聞こえるな⁉」
疎らに頷いて返事をする隊員たち。イカロスは拳銃に最初の九ミリ弾を込めつつ続けた。
「いいか、俺たちはこれからしばらくここで我慢大会だ! 下手に焦って敵より先に飛び出したら負け。罰ゲームは全身で穴開きチーズの物真似ってところだ。ルールは理解したか⁉」
「その大会、」声が上から聞こえた。「俺たちはどうすりゃいいんです、二中職⁉」
見上げると、車長が砲塔上のハッチから身を乗り出していた。心臓に毛でも生えているのか? ……しかしすぐに近くにある重機関銃の防盾に被弾して首を引っ込める。イカロスはそれでも聞こえるよう大声を出した。
「貴様らは無反動砲の射程外まで後退して砲撃支援! 絶対に前に出るな!」
「正気ですか⁉」イカロスの傍にいた別の隊員が言った。「車両を盾にした方がいい。あっちに穴の隙間がありました。そっちに回せば……」
「そっちこそ正気か⁉ ……そんなものは、敵の思う壺に決まっているだろう、見ろ!」
そんな隙間は最初に見ている。見ているということは敵も承知だということだ。生き残った車両はその回廊に近づこうとするが――すぐに渋滞に巻き込まれる。当然だ、車両数に対して無事な通路は少なすぎる。そうして動きが止まったところに、無反動砲が複数撃ち込まれ――直撃。火炎を上げながらハッチが吹き飛び、中から火だるまの職員が転がり落ちてくる。
「見ての通りだ――罠を仕込んだのは向こうだから、距離も角度も向こうからは正確に分かっているんだ。あんなところに行ったら連中の二の舞だぞ⁉」
流石に実例を見せられたのでは、その隊員も黙り込むしかなかった。誰しも、全身をローストされて死にたくはない。それを見てから、イカロスは指示を出した。
「よし、全員足場を掘れ! ここを射撃陣地に変えるんだ」
全員、スコップなんて上等なものは持っていない――野戦訓練でもないのに持ってくるわけがない。仕方なく銃剣を取り出してその刀身を壁に突き立てて掘り始めた。
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