第115話 それはまるで嘘のような
「つまり貴公は我々にそちらの軍門に降れと?」
ネリマを占拠する「戦争博物館」の長フリードリヒ・ド・ラルメという男は、齢二四にしては老けて見える男だった。左右に広がった先端の細い口髭(カイゼル髭とかいったか)が一番目を引き、二番目にはその白髪が特徴的だからだ。そして三番目には左右で違う瞳の色――右が青で左が金――が美しいというよりは不気味な印象を与えるのだ。
「そうは言っていない」その男に、ダイモンは頷いた。「もっと詳細に言えば、我々は充分に戦った。しかしそれは既に終わろうとしている。これ以上の戦闘は無意味だ。そこで我々は君たちの敢闘精神に敬意を表して安全に撤退を――」
「『敢闘精神』と言ったか、しかしそれではまるで我々が劣勢にあるようだ。戦力において余の騎士団は貴公らの革命軍とやらを圧倒している。訂正してもらおうか?」
そこでフリードリヒはトンと机を指先で叩いた。その色違いの双眸が語るところによれば、彼は全く友好的ではない。だがそんなことは分かり切ったことだった。シャルルとの和解がなければ、そもそもこのような場を設けることもできなかっただろう――ということは、向こうもいつまでも戦い続けてはいられないと分かっているのだ。
「納得できないというのなら、訂正しよう」だからこそ、こちらにも優位性が出てくる。「しかし、事実として君たちは依然包囲下にある。これを突破するのは困難であろうし、突破したとしてその先が続くまい。そう思ったから、こうして交渉の場についてくれたのだと私は考えているが?」
「それは単に実行していないだけだ。やろうと思えばいくらでも貴公らの屍を越えてチュウキョウでもどこへでも行くことができる。今ここで命じてもいいのだぞ?」
「しかし、それには多くの犠牲が伴う――最早我々は敵同士ではないはずだ。シャルル氏とは既に講和に至った。これ以上の死と流血とは望まないとな。故に――」
「馬鹿げているな」
フリードリヒはまだ湯気を立てている紅茶が入ったティーカップの持ち手を摘まむように持つと、口元に運んで少し傾けた。
「故に、和解ができると? 余はたとえ戦いを望むこの世界で最後の一人になろうと、必要ならばいくらでも武器を取り戦い続けるつもりでいる。そして余はそれを必要としている。よって結論はこうだ、『和解はできない』。さっさとお互いの陣地に戻って撃ち合うとしよう」
それをティーソーサーに置いて、フリードリヒは立ち上がる。そのまま出口の方へと歩いていく……ダイモンは慌てた。同じく立ち上がって、その前に立ちはだかろうとする。
「待て、話はまだ……」
「一つ言っておく。」フリードリヒは、わざわざ立ち止まった。「そもそも余は貴公のような、他人の後ろから口八丁を振り回すだけの臆病者は好かん。交渉しようというのなら、せめて戦場に立ってからものを言うのだな」
それから、ダイモンを肩で突き飛ばす。体格差もあってダイモンはよろめいた、その隙に彼らは出て行く。ここは中立地帯として双方が合意したビルだ。両方の兵が睨み合うように配置されている。無理に部下を使って引き留めようとすれば――ここが戦場になる。
「……武人というものは、かくも御し難いものかッ?」
ナルシスは、外套のフードを外して掻きむしりたい衝動に駆られたが、それは美しくないと辛うじて我慢できた。しかし、これではせっかくシャルルと和解した意味がない。いくらド・ラルメ家が他の「内閣」家とは異質で縁遠いからといって、こうも意固地で頑固な堅物だとは! ……ネリマに「戦争博物館」の戦力がある限り、それは平和の喉に突き刺さった小骨だ――いや、小骨というにはあまりに大きい。ナイフが突き立っているようなものだ。
(……首脳同士が会談して初めて合意が為せるというものだという原則が分からないのか、あの男は?)
いや、分かってはいるはずだ。わざわざ暗殺の危険を冒してまで来たのだ。分かっていないはずがない。
つまり、交渉自体は望んでいる――が、結果が伴わなかったということだ。
(しかし、だ)溜息を深く吐く。(命の保証も、武器を持ったままの撤収も提示してきたのだ。それで不満だというのなら、何が原因だというのだ?)
理解ができない。
何かを掛け違えた結果こうなったとしか思えないが、何を間違えたのかが分からない。ナルシスの目には全てのボタンは正確に正常な位置に収められたようにしか感じられなかった。のに、相手は何もかもが違うと言った。一体全体訳が分からない。
「……?」そのとき、彼の携帯端末が着信を知らせて震えた。「何だ?」
画面には、スズナと書かれていた。本来ならまだ会談中の時間だから、それでも連絡を寄越してくるということは何らかの異常事態が起きたということだった。ダイモンはそれに震えながら、電話を受けた。
「どうした?」
『ナルシスか。大変な事態になった。周りに誰もいないな? それを確認したら、落ち着いて――』
「前置きはいい。用件から話せ」
『シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツが』スズナは、端的にそう述べた。『逃亡した』
…………。
「は?」
『だから、屋敷からいなくなったんだよ! 今朝、屋敷にいるスパイから報告があった。今、押し入って探している最中だが、連中の内一人は定期便を使って逃げたって言ってる。もしそうなら既にチュウキョウにいるってことだ』
「ま……待て、スズナ?」ナルシスはほとんど端末を取り落としそうになっていた。「つまり、……どういうことだ?」
『聞こえなかったか? シャルル様が――』
「そういうことじゃあない! ……シャルルが、どうしていなくなるッ? そんなことが起きるわけがないだろう! だって、合意したんだぞ? 逃げる理由なんかないだろうッ?」
そうだ、するはずがない。
既に革命軍と極東列島行政区とは和平合意を結んだ。あの日シンジュクから始まった戦争が終わるのだ。それなのにそれを反故にするような真似をあの聡明な男がするはずはない。あり得ないのだ。
「だから、スズナ。それは何かの間違いだ。」
『……あのな、ナルシス……』
「スズナ、もっとよく調べろ。屋敷の隅から隅まで……きっと思いがけないところに隠れているはずだ、だって、アイツは頭がいいんだ。頭がいいんだから……」
『――ダイモン!』スズナが怒鳴って、ナルシスはようやく自分が泣き出していることに気づいた。『私情を挟むな。現実を見ろ! 現にシャルル様はいなくなったんだよ! ……お前がやるべきはその対応だろうが。頭を使え!』
「……分かっている。だが……」
頭が働かない。
どれほど先読みができたとして、急に天地がひっくり返れば何を考えていても意味を成さない。まずはそのひっくり返った天地を受け入れるので精一杯になる。何なら今回は更にそこに隕石が降ってきたかのごとき状況だ。爾後の策より何故こうなったかを考えてしまう。
『……ダイモン』今度は、オウカの声だ。電話を奪ったらしい。スズナの抗議の声が背後に聞こえる。『全ては警備、そして軍事を司る私の責任です。言い逃れをするつもりはありません。ですが――その頭のいい人間が果たして何をしたのかは、よく考える必要がありましょうが?』
「……?」ナルシスは息を整えながら言った。「何が言いたい?」
『だってそうでしょう? 脱出するために周りの人間が手をどれほど回したとして、本人の意思がなければそれは成功しないと思いませんか? ……ただの人であるなら無理やり車に詰め込んで拉致、というのも考えられるでしょうが、彼は「内閣」家の人間。我々でも少しは気を遣うというもの』
「……シャルルが自発的に逃げ出したとでも言うのか」
『あくまで可能性の話ですわ。現に私もそのようなことがあるとは思えなかったのですから』
――一瞬、ナルシスはその言い方に違和感を覚えた。嘘くさいというか、自己欺瞞のようなものを感じた。が、その正体には気づけない。時間が通り過ぎて、その感触は消えていく。単なる言い訳臭さに誤魔化されて。
『ですが、現にそれは起こった、故に推測できる。彼は車に自分の足で乗ったことでしょう。自分の意志で乗ったことでしょう――と』
「しかし、それは推測だ。僕は信じない。取り巻きが無理やりやったと考える」
『そうですか? ……まあ、アナタ様の考えを私程度の者が変えようというのは烏滸がましいことではありますけれども』オウカはそこで声を落とした。『でも、その幻想が剥がされたときアナタ様が何をすべきなのかは、考えておくべきでしょうね』
通話は、そこで切れた。すると端末には待機画面が映る。そこには通知がいくつか並んでいた。
その内の一つに、Britzubeのアイコンが浮かんでいる。そしてそのサムネイルに――シャルル。
「……ッ!」
ナルシスは思わず飛びついた。そこに彼の苦悩を解決するための手段があると思った。そこにシャルルがいるということは、脱出はほぼ事実だということなのに、ナルシスはシャルルの姿をその場に見たかのように感じた。きっと、シャルルは何か事情があってそうしたのだろう。そう思いたかった。
「――私は」が、その想いは。「脅されておりました」
壇上にいるシャルルの言葉によって、押し潰された。が、理解できない。何故そんなことを言うのだ? ……読み上げているのだろうか、原稿を? だとするならば――いや、それらしい紙束はない。
「私は、強いられておりました」そう、強いられているはずだ。「身体の自由は許されず、移動の自由は封じられ、エーコ・ノ・オオクラ=キャビネッツさん共々生命の危機に晒されておりました。その中でダイモンは、そう名乗るあの愚か者は、私と和平合意などと称して我々に譲歩を強いたのです」
――強いられてそう言っているんだろう、シャルル?
ナルシスは、仮面の下でそう呟いた。が、彼とシャルルとは、視線が合わない。それは真実を隠しているのか? ……いや、本心を言うときだって目を合わせられないときはあるだろう。そして言葉がそこにあるなら――それが実情だと考えるべきじゃないか?
「故に、先の会合で成されたいかなる決定も、私は無効であると主張します。『共和国』をかの悪人に差し出すという、あの屈辱的な決定は全て私の意志ではありません。そして今や私はチュウキョウ地方にいて、最早自らの邸宅に縛られた存在ではない。よって宣言します。この度の『暴動』によって為された全ての暴挙は、その結果生じた全ての損失は、取り戻されなければならないと!」
「何を、言っているんだ――シャルル?」
そんなこと、言っていなかったじゃないか。
一緒にやっていこうって言ったじゃないか。
それなのに、どうして――そんな風に言う?
「私は、革命軍を名乗る反乱者に告げる――これから感じるであろう全ての後悔は、己の選択の結果である。よって責任を取れ。我々は捕虜を取らない」
映像は、そこで途切れた。リロードしてみるが、戻らない。通信が途絶えたのだろう――否、切られたと考えるべきだ。通信統制――これから攻め込む相手に、情報など必要あるまい?
だが、それを命じるということは。
彼らは、彼は――本気だ。
「――は」ナルシスは、画面を消す。「大した役者だったな、シャルル? 僕を騙して――」
よくも、騙したッ!
ナルシスは端末を握りしめる。画面がその握力で割られ、その破片が手のひらに刺さって、血が流れる。
「いいだろう……君がそのつもりなら、どこまでもとことん付き合ってやるッ! もう二度と、信じたりするものかァッ!」
孤独な叫び声が部屋に満ちる。戦いの火蓋は切られた。友情は裏切られ、思い出は踏みにじられた。故に最早後戻りはできない。ナルシスは凍えるような寒さの中に飛び込んでいく。
「…………」その声を、悲しみを、シャルルは聞いた気がした。「凄い……技術みたいだな?」
そして、壇上から降りてきたセバスティアーノに言った。彼は照明に照らされて生じた汗をハンカチで拭きながらシャルルの元へ近づいて答えた。
「ええ、最新技術による――何と言ったかな?」
ディープフェイクです、と部下の一人が答える。ああそうそうそんな名前だったな要するにレベルの高い合成ですと補足する。
「無論、偽物は偽物ですから何か違和感を覚える者もいるかもしれませんが……専用のソフトで解析しなければ分かるものではありません。ご安心を」
「そんなことを聞いているのではないッ」シャルルは、しかし、彼らを睨みつける。「これでは僕など必要なかったのではないか、ええッ? わざわざ、ダイモンの信頼を損なうようなことをしては――!」
「シャルル様。」セバスティアーノは、言葉を遮った。「そういうことではないのですよ」
「なら、どういう意味だ?」
「本物がこちらにいるということが重要なのです。仮にシャルル様があちら側にいたのでは、人質として機能するのはもちろんのこと、たとえ今回のようなことをしてもこちらには大義名分がない。アナタ様に否定されては私たちはどうすることもできない」
「……大義名分?」
「シャルル様がこちら側に立っているということなのです。『共和国』の代表の一人として反乱鎮圧を支持している。それこそが大義名分。『市民』を満足させるために必要なものです」
「私は、支持していないが?」
「しかし大衆はそれを望んでいます」
――ならば何故革命は起こった。支持された? ……それを望まぬ人がいるからではないかッ?
シャルルはそう憤りを感じた。彼らは現実の大衆など相手にしていない。彼らの言うそれは彼らの中にだけあって、彼らの支持者を元に肌感覚で曲解しているだけに過ぎない。その一部の人間の間違った理解のせいでこれから人が死ぬ――それは許せるものではなかった。
「…………」
が、彼はそのとき見た。
セバスティアーノの背後に、その副官たちの姿を――多くのスタッフがそこをうろうろしていて、彼らの仕事をしている。それを当然のものとしている。
疑いもしない。
間違っているかもと感じたりもしない。
正しいとすら、思っているかもしれない。
真実など、何の力も持たないということだ。
「これでよく分かった――」シャルルは、呟く。「君たちは僕を必要としていない。君たちに必要だったのは『シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツ』という架空の偶像だ」
シャルルが戦うべき相手というのは、そういう連中だということが見えたとき、その数を考えたとき――シャルルの決意や苛立ちというのは、断ち切られてしまった。
そうしてシャルルの脳裏にあったのは、ナルシスの顔だった。どう思っただろう、彼は? ……きっと、失望したことだろう。嘘だと見抜いてくれているといいが、自分自身で見ても自分だとしか思えないものが、他の誰かに見抜けるとは思えない、たとえいくら聡明で身近な彼だとしても。
シャルルは、座り込むことさえできなかった。その立ち尽くす視界の中でセバスティアーノは背を向けて収録スタジオを出ていく。最早誰も、彼のことを必要とはしていない。
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