第110話 雪解け
案内されたのは、いつぞやの応接室ではなくてシャルルの私室だった。といってもそれはいくつもある中の一つということなのだろう、その証拠に部屋には寝具がなかった。執務室というには書類のある机がない。ちょこんとテーブルが小さく置かれていて、その上にはいくつかの皿と埃除けの円蓋が、その脇に椅子が二つあって、それ以外の調度品は部屋のあちこちで上品に控えめの自己主張をしている。
「……エーコ・ノ・オオクラ=キャビネッツは?」その様子にふと、ナルシスはそんなことが気になった。「そういえばあの日以来見かけないが」
その慎ましさが、彼女の好みそうなものだと感じたのだ。しかしすぐ失言だと思った。それはこの会の本質ではなかったし──見かけないという時点で答えは決まっているようなものだった。実際、振り返るシャルルの表情は少し曇った。傷つけた、とナルシスは感じて、そこから目を逸らす。
「──すまない。今のは不躾な問いだった」
「いや、いいんだ。言うべきことではあった。」しかしシャルルはその言葉に首を横に振った。「結論から言えば、病に臥せっている。この情勢下で生活することは、彼女の神経にとって堪え難いらしい」
「しかし、それはつまり……」
「君の責任だとは、僕は言わないよ。きっと、君がいなくても世界はこの状況に陥っていたと思うし──かえってより酷い状態に置かれていたかもしれない。その意味で、僕は君に感謝をしている」
「……それはただの『よかった』探しだ。よりよい方法だっていくらでもあったはずだ」
「そんな風に思い詰めないでくれ。……君が、僕のよく知る彼ならば、そんな自分を責めるやり方を好んでは使わないはずだよ」
そう言いながら、シャルルはテーブルに就いた。そこにはもう全ての食事が揃っている。無作法なことではあったが、そうすれば食べ終わったときにだけ人を呼べばいい。
そうすればダイモンの仮面は守られる。
そういう心遣いだった。
「…………」
ナルシスは、まず持ってきた弁当箱をテーブルの上に置いた。それは学生時代に使っていたものではない。それは家に置いてあって、きっともう使うことはできないだろう。
そうなってしまったのだ。
何もかもが変わってしまった。
ナルシスはそのときの硬質な感触にそれを読み取って、固まる。果たして自分のこれからする行為は、その不可逆変化を乗り越えることに繋がるのだろうか? ……そうは思えなかった。全ては過去である。どんなに今の自分とそれとを結び合わせようとしても、その差異が目立つだけで、空しくなるはずだ。
過去には、戻れない。
ただのナルシスとただのシャルルには、二度と。
(だから──どうした)
ナルシスは、しかし、怯える手を動かした。
時は前に進み続けている。その普遍的真理を殊更に論わなくても、そんなことは分かりきったことだ。
昨日の自分と今日の自分は違う。
なら、それを踏まえて明日の自分になろうとすればいい。
ダイモンがナルシスから生まれたように、また新しい関係を生み出せばいい。
そのためには、今ここにある関係は明白にしなければならない。
つまりこれは、ダイモンの処刑なのだ。二人の間にある一種の共通認識を打ち壊すことで、止まったままの時を再編する。
だからナルシスは。
両手で仮面を掴んで。
「──ッ!」
剥がした、瞬間冷たい空気が表皮をなぞる。それは流血に等しい。しかし痛みはない。どこか爽快感だけがあって、彼はその中で一つの人格に戻っていく──否、進んでいく。
そして、視界が開けた。日差しの中で目覚めたときのように目の奥が照明の光でつんと痛んだ。瞬きを数回。ようやくそれがオレンジの優しい朝焼け色をしていると気づいた瞳は、前を向くことができた。
「――ナルシス」シャルルはその人格の名を呼んだ。「やはり、君だったか」
「ああ――」しかし、やはりとは?「いつから気づいていた?」
「国民団結局からの報告で、学生か何かであることは予想がついていて……というのはあとからつけた理屈かな。最初から、何となくそんな気がしていた。言葉選びが君に似ていると思った。」
「……選んでいるのは同一人物だからな。なくて七癖だ」
「致命的だったのはホテルジャックのときだ。あそこにダイモンが現れたのはいくら何でも不自然すぎる。あのとき行方不明になったのは君とスズナ君だけだし、スズナ君じゃ体格的に合わない」
尤も、国民団結局はダイモンがいなかったということにして彼の功績を消したかったようだが――とシャルルは補足した。
「そして選挙のときの言動を見れば、僕には確信が持ててしまった。先日の失言なんかはヒントとしては余計だったとすら言える」
「なら、どうして黙っていた?」こともなげに言うシャルルを見れば、疑問が出て来る。「君からすれば僕は掌の上で踊っていたも同然だったじゃないか。事態がこうなる前に暴露して、逮捕してしまえばよかった」
「君がそれを言うのかい? ……状況証拠だけで明白な物証は何もない。国民団結局も君を睨んでいたけれど、その一点で結局は逮捕を思いとどまった。それを僕の一存で動かしてしまえば、暴君だよ。いつぞや君に迷惑をかけたセバスティアーノと同じだ」
「……そうだったな、君ならそう言う」
ナルシスは、一瞬でもシャルルがそんなに愚かだと考えた自分を恥じた。そうだ、公明正大さにかけてはこの男の右に出る者はいない。だからこそナルシスは彼を憎いと思っていたのだから。
「しかし、」ふふ、とそこでシャルルは笑った。「本当に君がダイモンだとすれば一つの仮説が成り立つな」
何だ、と言いながら、ナルシスは椅子に座った。仮面をテーブルの上に置いて、そこにある弁当へと手を伸ばす。それはランチョンマットに包まれている。
「君、エーコさんのことが好きだろう?」
ナルシスは、その瞬間一度静止した。ランチョンマットを捲る手が止まって、ゆっくりと顔を上げる。そこには緊張感があった。そこに羞恥心と自制心が働いて、ナルシスはシャルルをほとんど睨むようであった。
「……どういう意味だ?」
「そのままだよ。深い意味はない。別にそのことで君を軽蔑することはない――だって、今となっては認めたところで逮捕されるわけでもないだろう?」
そう半ば自虐的にシャルルは言った。その明るさが、ナルシスから警戒感を取り払った。この男は、単に話題という距離感を間違えただけなのだ。そういう人間だった、この男は。
「……あのな」ナルシスは溜息を吐く。「これはあくまでも歴史的な事実の話なのだが、どうも旧時代では好きな人の話というのはそうあっけらかんとして言うものではなかったという。なるほど僕は今その理由が分かったよ。これはかなり、その、結構不快だぞ……⁉」
「それは悪いことをしたね。謝るよ。でももう隠しごとはなしで行こうと思ったんだ。それなら僕が分かっているということも、隠してはおけないだろう?」
――まあ、その理屈ならそうなるのだろうが。この男はどうにも変なところでデリカシーに欠ける……。
ナルシスはもう一度深く溜息を吐いた。それから、今に始まったことではないことを思い出して、それはつまりいつもの彼に戻ったということだと解釈して、笑みを浮かべた。
「隠しごとはなしだというがな、君は随分詳らかに僕に見せてくれたな。君がエーコさんとくちづけをしたとき、僕は割と本気でショックを受けたんだぞ?」
「それは……」
「いや、待て。今のは僕の態度がよくなかったな。確かに衝撃だったが、彼女がそれを望んだことは、そのとき理解できた。だが認めたくなかったのさ。だから君に酷い態度を取ってしまった。僕の方こそ、謝らせてくれ」
ナルシスが頭を下げると、シャルルは慌てたように腰を浮かせた。
「どうか、頭を上げてくれ。僕の態度もよくなかったんだ。いつの間にか誰かに阿ることしかしなくて……君に言われて、初めてその罪を自覚したんだ。それから逃げたくなって不貞腐れたんだよ……」
「そうか、じゃあ――おあいこ、だな?」
「おあいこ?」
「ああ、お互い、自分が直面したことから逃げたかっただけなんだ。それは、それが辛いことだったのだから、普通のことだったろうけど――背負うものがあるからには、それだけはできない。できなくなってしまった。そうだよな?」
「そうかもしれない……少なくとも僕にとっては、この行政区というのは重くて、それが割れていくのは耐え難いことだった。その事実を認めようとしない部下たちと争うのも」
「シャルル……」
「でも、君とまた出会えた――君が君であると確認した。そして僕は僕であるべきだと、確信した」
シャルルは、顔を上げる。そしてナルシスに微笑む。
「僕は、僕の仕事をしてみせるよ。君たち初恋革命党ともう争わずに済む方法を探し、それを部下たちに実践させる。そのために僕の権限というものは存在している……それでいいかな、ナルシス?」
「……いいのか? また、辛い道を歩むことになるぞ?」
「君が一大決心をしてくれたんだ。僕だってそれなりの返事はしなくてはならない。そうだろう?」
にこ、とシャルルは手を差し伸べる。真っ直ぐ、紆余曲折がない。そうだ、シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツというのは、そういう男であった。ナルシスは自分の口角が上がるのを感じた。
そして、その手を取る。
「分かった――僕も党をまとめ上げる。君に負けないぐらいにね」
「手厳しいな」
「僕にだって背負うものはあるからな。君に言い包められて結果何も得られずというわけにはいかない」
「ふふ、そうだね」シャルルは笑った。「それじゃあ、食べよう。まずはお互い力をつけないと」
二人はそれから各々の食事に手を伸ばした。それらは片や冷めていて、片や急ごしらえだったけれど、これ以上に美味しい料理はそのときこの世に存在しなかった。
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