第107話 空騒ぎ、胸騒ぎ
ミージュは泥まみれになりながら白い地面を這う。雪が被さった茂みからまた別の茂みへ、その同じく白い制服姿を隠しながらその目標へにじり寄る。周りでは銃声が鳴り響いていて、職員支援車両の機関砲の音も聞こえる。
その騒音の中に彼女は陣取った。煙があちこちから上がり、視界を遮ってしまっていると同時に彼女の存在を覆い隠してくれてもいる。その相互関係を利用しながら、彼女は左右を見渡した。
「…………」
そして、そのたなびく灰色のベールの中から、彼女は一つの目標を見つけた。ボロボロの擦り切れた外套を身にまとったそれ。直線の入り混じったモザイクめいた仮面を何百メートルか先に見つける。
「いました、」横にいた観測手の一下職が測距眼鏡で遅ればせながらそれを発見する。「撃てますか?」
ミージュは答えない。ただ銃をゆっくりと前に突き出して、そのスコープを覗いた。風に揺れる植生が邪魔をするが、寧ろその方が都合がいい。スコープの反射を隠してくれる。
その劣悪極まるからこそ素晴らしい視界の中で彼女は照準した。目標をスコープの中に――捉えない。何故ならゼロインしている距離より遠いので大分上を狙う必要がある。目標が平原で止まっているのが唯一の救いだった。
「目標動いていません。いつでもどうぞ」
観測手はそう言ったが、まだ風が強かった――フィクションなどではこのような状況でも当てられる射手が優れた狙撃手として扱われるが、実際のところ、それはライフルマンとしては優れていても狙撃手として優れているかはまた別の概念だ。
狙撃手とは、絶対に当てられる状況に至るまで、引き金を引かない。
音もなく現れ、現れたことも悟らせずに目標を射貫き、気づかれることなく離脱する。
当たらないかもしれない、気づかれるかもしれない、逃げられないかもしれない射撃は絶対にしない。
だから、ミージュは静かに待った。風は一過性のもの。彼女は息を止める。肺呼吸による胸の上下運動を止めるためだ。僅か一ミリのズレでも遠くの目標を狙うのには邪魔なノイズだ。本当は心臓の鼓動も止めたいぐらいだった。
しかし、その瞬間は来る。
風が止み、葉の動きが止まって一瞬目標との一直線が確保される。ほんの僅かな時間。音も消えてしまい、世界には彼女と、銃と、その延長上にあるものだけが残される。その孤独の中で、彼女の指先は残酷だった。
ぴしゅん、ぱあん……!
超音速の弾丸が、サプレッサーに押し殺された、SF映画のレーザーガンでも撃ったかのような音を置き去りにした。それは緩やかな放物線を描いて粘性に満ちた空気の中を旋転しながら滑空する。地球の自転がようやくその異常事態に気づいたころ、弾丸は役目を終えた。
「頭部に命中。胴体より脱落。対象はその場に倒される」
観測手が静かに言う。反動で大きく揺れたスコープからはその光景は見えなかったが、その報告で充分だった。狙撃は成功し、目標はその弾丸に倒れた。それで任務としては充分だった。
「状況終了ぉ。撃ち方止めェ」
だからその機械によって拡張された大声が後方から聞こえたのはそのせいだ。それから、ミージュはライフルを片手に立ち上がって背伸びをした。もう、窮屈な姿勢を取る必要はない。
ここは避難キャンプ傍に設けられた演習場。
これはカントウ奪還作戦のための特別訓練。
よってこれは、言ってしまえば現実ではない。死んだのはただの人形で、ダイモンその人ではない。
「とはいえ、」一下職が言った。「この訓練、何か意味あるんですかねえ? ダイモンってのは政治家目指してるわけでしょ? それがノコノコ前線に来ますかねえ?」
「あくまでこれは訓練ですからね。実際にやることといえば指揮官の狙撃でしょう。心構えの話ですよ、あの人形は」
そう言いながら、ミージュは茂みをかき分けながら元の道を辿って戻る。観測手もそれに続いた。草木が薙ぎ倒されて獣道のようになっていないのは、密かに自慢だった。
「それならいいんですがね」しかし一下職は続けた。「上の連中、どうにも楽観的というか、敵さんを舐めてる気がしませんか?」
「?」彼の意図は彼女にはよく分からなかった。「というと?」
「この演習にしてもそうですがね、結局教本のとおりにやってるだけじゃないですか。そりゃ、いつだって教本通りのことが再現できる群が最高の群でしょうけども、それやって我々は一度負けてるんですよ?」
「それはまあそうですが……」
「例えば普通のテロなら今みたいに首謀者シメれば散り散りになるでしょう。要はそれでこっちの勝ちってわけだ。でも今の戦争は違う。たとえ一つ倒してもまだ他にも敵さんはいる。テロリストが立て籠もったのとは訳が違うんです」
「……口を慎みなさい。戦争などと、軽々しく出していい言葉ではないですよ」
「でも、こりゃ暴動なんかじゃあもうなくなってますよ。『大反動』のときだってこんなに派手じゃなかった。それなのにこんな古いやり方してちゃ、勝てるもんも勝てやしない」
一下職は彫りの深い真面目そうな顔で前を見ていた。それを横目で見て、ミージュは白い息を吐く。こうまで不安や不満を直接的にベテランの彼が訴えるのは珍しいことだった。きっと、彼の部下たちも同じ危機感を共有しているのだろう。彼の態度は、言ってしまえばそのバロメーターだ。
「……理解はします」ミージュは木を避けながら言った。「私も、あの軍制改革とやらは気になるところです」
軍制改革。
かねてより「革命軍」などと名乗り軍事色を強めていた初恋革命党が会談中止後に打ち出した方針だ。何をするのかについては、ダイモンはあまり触れなかった。精々名称が変わり――正確には第三次大戦前のものに戻り――階級制をより厳格に使うとのことぐらいだ。
当然である。わざわざ手の内を明かすテロリストがいるならミージュたちも楽ができようというものだ。あるいはここまでの事態になっていない。
だとすれば問題は、実際には何をしてくるのかということにある。きっと革命軍内部に潜伏しているスパイから情報は逐次出ているのだろうが、その情報を上層部は下達してくれていない。スパイへの対抗策ということにはなっていたが……それを無邪気に信じられるほどミージュは純粋ではない。
「事実として革命軍の計略は優れていました。こちらが麻痺している間に全てを終わらせてしまった。その延長上に今回の改革があるのだとすれば、それは恐れるべきことではあるでしょう」
「で、ありましょうな」
「でも、それは正しく恐れるべきものです。革命軍だって正体不明の怪物じゃあない。真正面からぶつかれば練度に勝るこちらに分がある。たとえいくらか向こうの編制が優れていたとしても、それを運用する人間の進化がなくては意味がない……彼らにその時間があるとは思えない」
銃の扱いや体力というのは一朝一夕には身につかない。多少戦い方を変えたとしても、その基礎的な部分で差があるのなら、結局戦いというのはそれが勝る方に軍配が上がるだろう。積み重ねた時間は、小手先の訓練などでは覆せないのだ。
「なるほど」時間がない、という言葉に一下職は合点がいったように手を打った。「例の噂ですか」
「? 何の話です?」
「ほら、ポンペイア二中職、最近いないでしょう? 上層部に呼ばれてるとかで」
「ああ……そういえばそうですっけね」
「どうもその呼び出してるのがかなりの強硬派らしくて。どうも何かやるらしいですよ」
「強硬派……しかし何故彼を?」
「さあ? でも二中職って確か『共和国前衛隊』発足時のメンバーでしょ? 何かそのときの知り合いでもいたんじゃないですか?」
推測の上に推測を重ねた話なので眉唾ものではあったが、ここ最近の彼の不在を説明するには魅力的なな仮説だと言えた。何しろこのいくつかの群を集めた演習にもいないぐらいなのだ。相当上位からの命令があったに違いない。
二人は歩いて集結地にまで戻った。それから点呼、そしてすぐ解散になって、ミージュは群司令部のテントに行き反省会に参加しようとした。
「イハヤカヴァ三中職!」そのときだった。「よかった、ここにいたか」
声は正面から。演習終わりの人混みの中、一〇メートルほど先でイカロスが手を振っていた。ミージュは怪訝そうに若干眉根を上げて、白くため息をつきながら彼女は彼の方へと歩いた。
「ポンペイア二中職。どこ行ってたんです?」
「ああ、そのことにも関係あるんだが……しかし、その話はあとだ。先に僕の話からさせてほしい」
「はい?」
「少しの間、付き合ってくれないかな――いや、絶対に付き合ってもらう。いいかな?」
一瞬、ミージュはその言葉の意味を理解し損ねた。一時混乱して、何故か胸がどきりと蠢いた。が、それはおかしなことだ。自由恋愛主義者でもあるまいに……第一、自分には好意対象者がいるじゃないか。長らく会っていないし連絡もしていないし、それに、デートだってしたことがないが……。
「特別任務だ。」しかし、続く言葉で彼女は冷静になった。「君にしか頼めない」
「ン、ああ……そうですよね。任務……」
「? うん、任務だ。何か問題が?」
「いえ……」ミージュは頭を切り替える。「それで、私は何をすれば?」
そしてイカロスはこともなげに言った。
「ああ、簡単なことだよ。シャルル様を取り戻すのさ」
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