39 オーガの力
砂塵が、ゆっくりと晴れていく。さっきまで洞窟を震わせていた轟音も消えた。
静かだった。俺は、目の前にいるオーガを見る。そして、自分の右手に目を転じた。
握っている。オーガの右拳を。
「──止めた、のか」
どこか遠くで、愕然としたヴンガの声が聞こえた。
俺は足元を見た。踏み込んだ岩盤は深く沈み、そこから放射状に亀裂が伸びている。それだけの衝撃だった。しかし──。
俺は一歩も退いていなかった。
「グ?」
オーガの喉から、戸惑うような声がもれた。
当然だ。こいつは、今まで何度もこの拳で俺を吹き飛ばしてきたのだから。
岩壁に叩きつけられたことも、一度や二度じゃない。それが今は真正面で止まっている。
俺はゆっくりと顔を上げた。オーガと目が合う。
不思議だった。さっきまであれほど必死だったのに。
今の俺の中には、焦りがない。あるのは確信だけだった。
もう分かる。こいつがどう動くのか。どう殴るのか。どこに力が集まるのか。
そして、どこへ逃がせばいいのか。
「ありがとう」
俺は静かにいった。
「お前は全部教えてくれた」
オーガが腕を引こうとする。だが、動かない。
それは、俺が握っているからじゃないのはわかった。
重心だ。
身体を預ける位置を変える。相手の力が逃げない場所へ、自分の身体を置く。それだけで、オーガの姿勢そのものを封じられた。
さっきまでなら、こんなことはできなかった。でも今は違う。こいつの動きが、俺の中にあった。
「グォォッ!」
オーガの左拳が飛んできた。横薙ぎの一撃だ。
俺は半歩だけ踏み替えた。拳が鼻先をかすめる。
風圧を感じた。けれど、もう怖くない。
そのまま肩を滑らせた。
肘。
掌。
拳。
身体の中を流れていた力が一つにつながった。
ドンッ!
鈍い衝撃が響いた。オーガの巨体が揺れる。
「今のは」
ヴンガの声がした愕然たる声だ。
「オーガの体術」
クィチュセアが続けた。
「同じ」
俺は心の中で首を振った。
違う。同じじゃない。俺は、こいつの動きをそのまま真似しているわけじゃないんだ。
こいつの動きを土台にして、俺の身体に合うように変えている。
俺の力。
俺の身体。
俺の戦い方。
その全部に合わせて、作り替えている。
『そうだ』
ガガが静かにいった。
『捕食進化とは、力を奪う能力じゃない。理解し、受け入れ、自分のものへ昇華する力だ』
オーガが、後ろへさがった。初めてだ。
こいつが自分から間合いを切った。その瞳に警戒が浮かんでいる。
俺は構えなおした。静かに。余計な力を入れず。
「来い」
俺は誘った。
挑発じゃない。本当に、そう思った。
するとオーガが咆哮した。地を蹴る。
巨体が一直線に迫ってきた。今度は拳だけじゃない。肩から全身を叩きつけるような連撃だ。
一撃ごとに空気が震えた。洞窟そのものが揺れる。
それでも、だ。俺は慌てなかった。
一歩。半身。受け流す。
返す。また一歩。
オーガの力を正面から受け止めるんじゃない。
流す。逃がす。そして、空いた場所へ打ち込む。
重さはオーガだ。しかし精度は、俺。
いつの間にか、攻防は逆転していた。
オーガの呼吸が乱れていく。焦っているのだ。苛立っている。
そしてオーガは理解し始めていた。目の前にいる俺は、さっきまでの俺じゃないということを。
まるで自分自身を映す鏡。いや──。
俺はそれ以上の存在になっていた。
「さあ、終わらせようか」
俺は踏み込んだ。するとオーガの瞳が大きく開いた。
俺は速いのだ。いや、速いだけじゃない。
見えるんだ。オーガの重心が動き始める瞬間が。
視線の揺れ。呼吸が切り替わる瞬間。
全部。次に何が来るのか、身体が教えてくれる。
オーガが最後の一撃を放ってきた。おそらくは渾身の拳。戦士としての誇りすら乗った一撃だ。
俺は真正面から迎えた。
半歩、身体を開く。そして拳を外へ流した。
ほぼ同時。そのままオーガの懐へ入った。
拳だけで戦う距離じゃない。身体そのものが間合いを支配する距離だ。
静かに一歩、俺は踏み込んだ。腰が沈む。地を踏みしめる音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「これで終わりだ」
俺は拳を疾らせた。大きく振りかぶらない。力任せにも振らない。
足から。腰から。背中から。肩から。
腕へ。拳へ。
全身が一つにつながった。研ぎ澄まされた一撃を俺は放った。
ドンッ!
鈍く、重い音が洞窟に響いた。オーガの身体が止まる。
巨体が、わずかによろめいた。数歩後ろへさがっていく。
俺は動かない。ただ、互いに見つめ合った。
深い静寂。やがてオーガはゆっくりと拳を下ろした。その目から、闘志が消えていく。敗北を悟った戦士の顔だった。
「グ、ググ」
短い声だった。そしてオーガは膝をついた。巨体が、ゆっくりと大地へ倒れていく。
もう咆哮は聞こえなかった。 洞窟には静寂だけが残っている。
俺は倒れたオーガの前に立った。深く息を吐く。
「ありがとう」
俺はつぶやいた。その言葉に嘘はない。
こいつは俺が命を奪った相手だ。同時に、俺をここまで高めてくれた師でもあった。
『やったな』
ガガが笑った。楽しそうに。
俺は自分の拳を見た。見た目は、以前と何も変わらない。
同じ手。同じ指。同じ拳。
なのに、その内側には確かな変化があった。
力だけじゃない。
技術も。経験も。戦いの積み重ねも。全部、俺自身の一部になっていた。
しばらく拳を見つめていると、足音が近づいてきた。
俺は顔を上げた。するとヴンガが歩いてくるのが見えた。大きな手が俺の肩に置かれる。
「命を救われた」
ヴンガがいった。その声には王国一と称される鍛冶師としてではなく、一人の父親としての感情が滲んでいた。
「礼をいう」
俺は何も言わず、その言葉を受け止めた。隣では、クィチュセアも安堵したように微笑んでいる。
その笑顔を見た瞬間、ようやく俺の身体から力が抜けた。
間に合った。その事実が、何より嬉しかった。
でも、俺には分かっていた。この戦いが終わりじゃないということを。
始まりだ。
オーガを超えた力。喰らい、理解し、受け入れた力。それが、やがて俺をもっと大きな戦いへ導いていくという予感があった。




