40 未来への一歩
「それでこそミレーヌ様です」
ナキュルアはそういって、わずかに口元を緩めた。
笑みと呼ぶにはあまりにも薄い。けれど、その青い瞳には確かな愉悦が宿っていた。
真由は背筋に冷たいものを感じた。どうやら以前のミレーヌはかなり恐ろしい人間だったらしい。
「……あなたは、わたしがそういう人間だったと思っているのですね」
「はい」
即答だった。
「ミレーヌ様は、ご自分に害をなす者をお許しになられませんでした」
「そう」
「ですが、私はそれを悪いことだとは思っておりません」
ナキュルアの声には、奇妙なほどの忠誠が滲んでいた。
「この世は善意だけで生きられるほど、優しくはございませんから」
その言葉に、真由は返事をしなかった。
窓の外では夜風が木々を揺らしている。月明かりに照らされた庭園は美しい。だが、その美しさの底には何か得体の知れないものが潜んでいるように見えた。
この世界では、本当に人が殺されるのだろう。魔法があり、魔物がいて、そして貴族たちが権力を争っている。
ならば、前のミレーヌが人を排除していたとしても不思議ではない。むしろ、そんな世界で伯爵令嬢として生きていたのなら、何も知らずに生きていられたはずがなかった。
「ナキュルア」
「はい」
「あなたは、わたしのことをどれくらい知っていますか?」
ナキュルアが目を細めた。
「ミレーヌ様のことを、でございますか」
「ええ」
「それは……」
ナキュルアはしばらく考えた。
「お仕えしている期間は、それほど長くはございません。ですが、ミレーヌ様から直接ご命令を受けることが多かったため、他の者よりは存じているかと」
「なら、いってみなさい」
「何を、でしょう?」
「わたしが何を恐れていたのか」
ナキュルアの瞳が、わずかに揺れた。
「……それは」
「ラスムス卿ですか?」
「それもございます」
それも。その言葉に真由は引っかかった。
「他にもあるのですね」
「はい」
ナキュルアは静かに答えた。
「セロノアの内情でございます」
ミレーヌは息を呑んだ。
「セロノア?」
「この地を治めるのはバドス様。ですが辺境伯領というものは王都の貴族領とは違います。北方には魔獣の森があり、東には国境がございます。さらに近年は王都から派遣される役人も増えております」
「つまり……」
「この領地には、いくつもの勢力がございます」
ナキュルアは淡々と語った。
「バドス様に忠誠を誓う者。王家に忠誠を誓う者。そして、それぞれの利を求める者」
「ラスムスは、そのどれかだと?」
「判断しかねております」
「でも、わたしは彼を疑っていた?」
「はい」
「なぜ?」
「シャルロッタ様に近づいているからです」
真由の胸がざわついた。
「それだけ?」
「それだけではございません」
ナキュルアの声が低くなった。
「ラスムス様は、以前からセロノアの軍備や税収、兵站について調べておられます」
それは明らかに普通ではない。
「それを……わたしは知っていたと?」
「はい。だからこそ私に命じられました」
「ではラスムスが反乱を企てている証拠は?」
「ございません」
即答だった。
「証拠がないから、わたしが調べさせていたのね?」
「その通りでございます」
真由は黙り込んだ。
少しずつ見えてきた。自分は何も知らない。だが、本物のミレーヌは何かを知っていた。
だからこそラスムスを警戒し、ナキュルアを使って密かに探らせていたのだ。そして、そのミレーヌがギロチンにかけられる。ならば──。
「ナキュルア」
「はい」
「ラスムスを殺すことはできますか?」
部屋の空気が凍った。
ナキュルアはしばらくミレーヌを見つめていた。やがて、ほんの少しだけ頭を下げた。
「可能です」
あまりにも簡単な返事だった。
「ですが、今すぐ命じられるおつもりではありますまい」
「ええ」
真由は首を横に振った。
「まだ何もわからないもの」
「……」
「ラスムスが敵なのか、それとも別の何かに巻き込まれているのか。今のわたしには判断できない」
それは真由自身の本音でもあった。
ラスムスを殺してしまえば、未来が変わるかもしれない。けれど、もし彼が敵ではなかったら?
無実の人間を殺すことになる。それだけはできなかった。
「それに」
真由は続けた。
「わたしが何も知らないまま誰かを殺せば、きっともっと大きな間違いをする」
ナキュルアが目を細めた。
「……本当に変わられましたね」
「そう?」
「はい」
ナキュルアは初めて、わずかに困惑したような表情を見せた。
「以前のミレーヌ様なら、必要と判断されれば迷われませんでした」
その言葉が、胸に重く沈んだ。
やはり自分は本物のミレーヌとは違う。いつか必ず、それが露見する。
そのとき何が起こるのか。考えるだけで恐ろしかった。
「ナキュルア」
「はい」
「これから、わたしに何かを報告するときはできるだけ詳しく教えて」
「承知しました」
「それから教えてほしいことがあるの」
ナキュルアが黙った。
「この屋敷のこと。セロノアのこと。王都のこと。そして……」
真由は一度息を吸った。
「わたし自身のことを」
「ミレーヌ様のこと?」
ナキュルアが眉をひそめた。あわてて真由は告げた。
「ええ、わたしのことも。もう一度、色々な情報を整理しておきたいの」
長い沈黙のあと、ナキュルアは深く頭を垂れた。
「かしこまりました」
その声には、先ほどまでとは違う何かがあった。
忠誠だけではない。興味。あるいは疑念。
もしかするとナキュルアはすでに何かに気づいているのかもしれなかった。
「では、まずラスムス様について」
ナキュルアは懐から小さな革袋を取り出した。
「こちらを」
机の上に置かれたのは、一枚の紙片だった。そこにはいくつかの名前と数字が記されている。
「これは?」
「ラスムス様がここ数日の間に接触した者たちでございます」
真由は紙を覗き込んだ。
知らない名前ばかりだった。だが、その中に一つだけ見覚えのある名があった。
「……ボガーゼ」
「はい」
「騎士長?」
「左様でございます」
胸がどくりと鳴った。
さきほど廊下で出会った青年。自分が一目で惹かれてしまった男。そのボガーゼがラスムスと接触している。
「いつ?」
「三日前です」
「何のために?」
「まだ掴めておりません」
真由は紙片を握りしめた。
嫌な予感がした。だが、それ以上に気になることがある。
「ナキュルア」
「はい」
「ボガーゼは、わたしのことをどう思っていますか?」
ナキュルアが、ほんの少しだけ目を見開いた。
その表情を見て、ミレーヌはしまったと思った。今の質問は、いかにも以前のミレーヌらしくない。
ナキュルアはしばらく黙っていたが、やがて答えた。
「嫌っておられます」
「……そう」
胸の奥がちくりと痛んだ。だが、ナキュルアは続けた。
「正確には、以前のミレーヌ様を」
「以前の……」
「ミレーヌ様が倒れられる前、ボガーゼ様とは何度も衝突されておりました」
「なぜ?」
「ミレーヌ様が騎士団の人事にまで口を出されたからです」
頭痛がした。自分の知らないミレーヌが、次々と姿を現してくる。
冷酷で、尊大で、権力欲が強く、人を排除することをためらわない。そんな女が、今の自分なのだ。
ギロチンの光景が脳裏に蘇った。
刃が落ちる。血が散る。群衆が叫ぶ。そして──。
自分の首が、胴から離れる。
ミレーヌは知らず知らずのうちに両手で喉を押さえていた。
「ミレーヌ様?」
「……大丈夫」
声が震えた。
「少し考えたいだけ」
ナキュルアは何も言わなかった。やがて一礼すると、立ち上がる。
「では、ラスムス様の調査は続けます」
「お願い」
「それから」
ナキュルアが扉の前で振り返った。
「明日、シャルロッタ様がお茶会を開かれるそうです」
「わたしも?」
「はい」
真由は眉をひそめた。
「ラスムスも?」
「おそらく」
その一言で、胸の奥に何かが落ちた。
罠かもしれない。ただの家族の茶会かもしれない。けれど今の真由には、そのどちらであるかを判断する材料がなかった。
「わかった。出ます」
「よろしいのですか?」
「ええ」
真由は頷いた。
「色々と知らなければならない」
ナキュルアは黙ってミレーヌを見つめた。そして、ふっと笑った。
「やはり……変わられましたね」
そう言い残し、ナキュルアは闇の中へ消えていった。
扉が閉まる。静寂が戻った。
真由は一人、机の上の紙を見つめた。
ラスムス。
シャルロッタ。
ボガーゼ。
そして、知らない名前の数々。
それらが一本の糸で結ばれているように思えた。その糸の先に、自分の首を落とす刃がある。
ならば、その刃が落ちる前に糸を見つけなければならない。
ミレーヌは紙を折りたたみ、胸元へしまった。
明日の茶会に出る。そして、自分が何者なのかを知る。そのためには、多少の危険を冒すしかなかった。
窓の外で風が鳴った。古い城館の石壁を撫でる風は、遠い戦場の血の匂いを運んでくるようだった。
その夜。
真由は知らなかった。自分がナキュルアと話している間にも、屋敷の別の場所で一人の男が、同じように彼女について語っていたことを。
「……やはり、おかしい」
ラスムスはそう呟いた。向かいに立つのは騎士長ボガーゼだった。
「以前のミレーヌとは、まるで別人だ」
ボガーゼは答えなかった。ただ腕を組み、険しい顔で窓の外を見ていた。
「あなたもそう思うでしょう?」
「……ああ」
しばらくして、ボガーゼは低く答えた。
「まるで、別人があの身体に入ったようだ」
二人の間に、沈黙が落ちた。そしてラスムスは静かに笑った。
「ならば確かめる必要がありますね」
夜は深くなっていった。
誰も知らないところで、いくつもの思惑が動き始めていた。そしてその中心にいる少女だけが、自分がまだ何も知らないことを知っていた。
ギロチンの刃が落ちる未来まで、残された時間は決して長くない。ミレーヌはまだ、そのことに気づいていなかった。




