37 あと少し
オーガの拳が唸りをあげた。
空気を引き裂きながら放たれた一撃。その破壊的な打撃を、シェーンは両腕を交差させ、真正面から受け止めた。
──轟ッ!
凄まじい衝撃が全身を貫いた。
「ぐっ!」
踏み締めた地面が砕け散った。岩盤を削りながら、身体が何メートルも後方へ押し流される。
止めきれなかった。腕で受けてもなお、圧倒的な力で押し潰される。
お、重い!
息を整える暇すらなかった。巨体を沈めると、オーガが一歩踏み込んできたからだ。
その瞬間。オーガの姿が景色から消えた。
「は、速っ──」
シェーンが反応した時には、もう横にいた。視界の端から振り抜かれた蹴りが迫る。
ドォン!
シェーンの身体は弾丸のように吹き飛ばされ、岩壁へ激突した。轟音とともに岩肌が砕け、無数の破片が降り注ぐ。
「シェーン!」
クィチュセアの悲鳴が響いた。
立ち込める土煙。その奥から、一つの影がゆっくりと姿を現した。シェーンだ。
肩を回し、シェーンは首を鳴らした。砕けた岩を踏みしめながら、静かに笑う。
「まだだ。まだ、いける」
その姿に、ヴンガは息を呑んだ。
「あれだけやられて吹き飛ばされて⋯⋯まだ立つのか」
そのヴンガの声がきこえたわけではあるまいが、オーガが低く唸った。獲物を仕留め損ねた獣のような殺気が放散される。
次の瞬間。オーガが再び突進した。シェーンも迷わず踏み込んだ。
拳と拳が激突。
ガァン!
衝撃が洞窟全体を震わせた。そして力比べは一瞬で決した。
「くっ」
シェーンはうめいた。競り勝ったのはオーガである。シェーンの身体が軽々と押し返された。わずかに見を仰け反らせる。
次に追撃がきた。
拳が、肘が、膝が、蹴りが。
息をつく間もない猛攻だ。まるで暴風。
いや、暴風など生ぬるい。巨大な岩石が連続で降り注ぐような猛打だった。
「ぐうっ」
シェーンは歯を食いしばった。
腕で受ける。身体をひねっていなす。後退って距離をとる。それでも──追いつかれた。
なんて速さだ。
シェーンは舌を巻いた。バグベアを喰らって得た怪力が、まるで通用しないのだ。
オーガの一撃がさらに重くなる。踏み込みはさらに深い。その動きは研ぎ澄まされ、無駄がなかった。
これでも下位種族か。
戦闘種族。その言葉がシェーンの脳裏をよぎった。
オーガの強さは力だけではないのだ。
間合い。重心。呼吸。攻撃のつなぎ。
積み重ねてきた戦い、そのすべてが拳に宿っていた。
「ガァァァァァ!」
オーガの振り下ろされる拳。
シェーンが受ける。
凄まじい衝撃がきた。シェーンが押し負ける。
シェーンが木っ端のように吹き飛んだ。が、立ち上がる。
そこにオーガが踏み込んだ。シェーンがまた吹き飛ばされる。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
シェーンは立ち上がった。
「無茶だ!」
ヴンガが叫んだ。
「あんな化け物、真正面からやり合う相手じゃねぇ!」
それでもシェーンは退かなかった。その背中は、常にヴンガたちを守るようにオーガとの間へ立っている。
自分が退けば、次に狙われるのは彼らだ。
それはわかっていた。そして、それだけは絶対に許せなかった。
「逃げろ」
静かな声が響いた。ガガだった。
「オーガには勝てねぇ。このままじゃあ、いくらお前でも身体がもたねぇぞ」
シェーンはこたえを返さなかった。代わりに黙って拳を握り直す。
オーガが地を蹴った。
また消える。速い。速すぎる。
振り下ろされるオーガの拳。必死になってシェーンが受け止める。が、押し返された。
追撃がきた。蹴り。肘打ち。
最後は肩から岩壁へ叩きつけられた。洞窟全体が激しく揺れる。天井から岩片が雨のように降り注いだ。
「シェーン!」
クィチュセアが飛び出そうとした。
「来るな!」
鋭い声が制した。
シェーンは岩壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。肩で荒く息を吐きながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。
「ばかが」
ガガが吐き捨てた。
「本当に身体が壊れるぞ」
ガガが警告した。それでもシェーンはとまらない。前へ進む。
一歩。また一歩。
シェーンの視線は、ただ真っ直ぐにオーガだけを捉えていた。
「いっただろ」
荒い呼吸の合間にシェーンは言葉を紡いだ。
「彼らのために、逃げないって」
その時、オーガが拳を握った。シェーンもまた拳を握りなおして。
「これからもっと強い奴が現れる」
いって、シェーンは一歩踏み出した。
「ここで逃げたら──」
さらに一歩。
「俺は、この先も逃げ続ける」
シェーンは告げた。それはガガにではなく、自身に対して。
もはやガガは何もいわなかった。ただ静かに、シェーンの覚悟を見つめている。
「そんな俺じゃ」
シェーンの脳裏に浮かんだ。
厳しく、誰よりも強いバベル。
そして、ヘデチュイ村。笑って送り出してくれたペネワー。村を守ると誓った眷族たち。
この時、シェーンは知らなかった。自分が旅立ったあと、村を襲った悲劇を。
「誰も守れない」
オーガが天を震わせる咆哮を放った。が、シェーンに動揺はない。ただ静かにかまえた。そして──。
ゆっくりと口角を吊りあげた。
「それに──」
獰猛な笑み。それは獲物の笑みではなかった。捕食者の笑みだ。
「もうすぐ喰らえそうなんだ」
「そうか」
この時、まさにガガは理解した。シェーンがただ殴られていたわけではなかったという事実を。
拳を受けるたび。蹴りを受けるたび。
巨体の動き。筋肉の収縮。重心の移動。力が生まれ、伝わる流れ。そのすべてをシェーンは身体で覚え続けていたのだ。
捕食進化。
その力は、倒した瞬間だけ発動するものではない。獲物を理解し、己という器がその力を受け入れる準備を終えた時、それは初めて真価を発揮する。
シェーンの瞳が静かに輝いた。
あと一歩。
あと少し。
届く。
その確信だけが、何度倒されても彼を立ち上がらせていた。




